恋の明暗は、はっきりと、しっかりと。(冬馬動乱編その12)
天夢特別体験授業の数学Ⅲの授業を終え、私と俊くんは無事に推薦をもらうことができた。
「ふぅ、終わったぁ!難しかったー!」
「僕は、雪さんと雹くんが競って答える姿でかえって緊張がほどけたよ。去年を思い出せたから」
「あれかー。懐かしいな」
すっきりとした気持ちで俊くん、未羽、雹くん、そして斉くんと授業後の感想を言い合いながら、生徒会室までの階段を下る。
「私、理転するためにかなり勉強して数学出来るようになったはずなのに、去年と同じくらいリードされちゃうんだもん、悔しいよ」
「そう簡単には負けねーぜ。雪は上林にでも教わってんのか?」
「うん、教えてもらってるし勉強も一緒にやったりしてる。冬馬は自分の勉強にかなりストイックだからそれに合わせてやれば伸びるかなーなんてね」
「冬馬くんについていけるから言える話だよ。雪さん」
「そう?どっちにしてもこれは特待生試験の勉強はかなりやっとかないとだね。おーい。未羽、生きてる?」
「……う、うぃー……」
「横田さんはまぁ、やめとけ?」
雹くんが未羽に遠慮がちな声をかけた。
予想通り、このレベルは未羽にはかなりきつかったらしく見事に燃え尽きている。そんな未羽と同じくらい疲れた顔なのは斉くんだ。
「僕はあの昼休みの太陽くんの悲鳴が耳に残って授業どころじゃなかったんだけど」
「太陽くん、『ねーちゃんには絶対勝てねー……』って半泣きで帰ってきてたね……」
「雪、何したんだよ?」
「んー?な・い・し・ょ。誰も知らない姉弟の秘密だよ」
正確には秋斗と私しか知らない太陽の弱点だが、他の人に教えるつもりはない。
天夢高校側からの推薦はゲット出来たので、あとは君恋の先生の推薦と成績証明書を出すだけで授業自体は受けられる。実り多い日だ。
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天夢の生徒会室に戻ると、卯飼くんと泣き顔の祥子、それからそれを宥めていた様子の葉月、蘭くんのいれたお茶を静かに飲んでいる三枝くんと弥生くん、それから私のお仕置きで一旦再起不能になって授業を受けた後にようやく回復して膨れている太陽が、鮫島くんと雨くんと部屋で待機していた。
「ほら、太陽。祥子と卯飼くんに言うこと言ったの?」
「謝罪は無理矢理言わせるもんじゃないですよ、雪さん」
「分かってるよ。本人が誠意をもって言わないといけないことぐらい」
太陽の言い分を聞いてくれていたらしき雨くんに止められ、素直に引き下がる。
しかし思いの外、太陽自身が私に答えた。
「俺が悪いと思ってるのはわんこへの言い方だけだ。卯飼に対して間違ったことを言ったとは思ってねーからそっちに謝る必要なんてない」
「お前さぁ!」
「お前も落ち着け」
「先輩、止めないでください」
「お前、相田弟が本当に湾内さんに冷たいと思ってるのか?」
「どういう意味ですか?」
太陽の喧嘩腰の挑発にいきり立つ卯飼くん。椅子を蹴飛ばす勢いで怒る彼を止めたのは、天夢高校生徒会随一の苦労人、別名・お世話係の鮫島くんだ。
鮫島くんは卯飼くんを引き留めたまま、太陽に訊ねた。
「さっきの話だと、君は向こうの中間前と後もずっと彼女の勉強を見ていたんだろう?それにその後のこっちへの編入前も」
「……まぁ」
「編入中もノート見せてやったり授業前後に教えてやってたというが、女子を家に送らなきゃいけないぐらい遅くまで面倒見て、きちんと家まで送ってやっていたというのは本当か?」
「……そんなこともありましたっけね」
「毎日でした!」
太陽が余計なことを言うなという視線を祥子に送った後、私に目を移し、なんでそんなことまで教えているんだという抗議を籠めて睨んでくるが、犯人は私じゃない。私だって初耳だ。そんなプライベート情報を漏洩できるのなんて一人しかいないじゃないか。
プライバシーという近代的概念をぶち壊す君恋ストーカー以外に誰がいるというのさ。
「なぁ、月夜。進度の早いこちらに自身も編入してる状態でそれをやることが相田弟にとってどれだけ負担か分かるか?それを分かった上でなおやってた相田弟が本当に冷たいと思うか?」
「……それは……」
「確かに相田弟の言い方は悪かったし、彼にそれだけのデリカシーがなかったのは事実だが、何も知らないお前が冷たいとか厳しいとか評することも出来ないんじゃないのか?」
「……そう、です、ね。俺の私情もあり、ます」
卯飼くんが悔しそうに下を向く。そんな卯飼くんの傍に寄った祥子が声をかけた。
「卯飼くん、庇ってくれてありがとう。心配してくれて嬉しかったよ。あと、慰めてくれたことも」
祥子は、その完璧に整った形のいい眉尻を下げ、小さな顔に微笑みを浮かべた。
いくら中身が頭突きを得意技と自慢する残念少女でも、そこは腐っても主人公。外見だけなら誰もが頷く愛らしい美少女だ。
「でもね、勉強は教えてくれなくていい。勉強は相田くんに教わりたいの」
「え……?」
「あたしね、すごくバカで、理解も遅くて、一生懸命やってるのにみんなほどスムーズに出来ない。それでもね、どんなに貶してても、相田くんだけは見捨てないで最後まで教えてくれるの。バカとか、間違いなく本気で言われてるんだけど、それでも、傷つけようと思って言ってるわけじゃないって分かるから、言われて不快になる言葉じゃないの」
太陽が本気で馬鹿にしているのは確かだとさすがの祥子も分かっているらしい。
「でも俺にはそれは許せない。俺、祥子ちゃんのこと――」
「だからごめんね、卯飼くん。相田くんとあたしのことについて気にしてくれなくていいんだ」
「……俺の方が祥子ちゃんのこと、大事にできるって言っても?」
「うん。あたし、卯飼くんがどんな気持ちでいてくれたとしても、それを受け取ることはできない」
「そっか……分かった」
祥子は、あえて声を被せて言いきった。その場にいたどんな鈍感でも気づくほど確固たる意志を感じる瞳と声音に、卯飼くんは、苦しげに顔を歪め、生徒会室を出ていく。
「月夜くん!」
「やめとけ、蘭。今は放っておけ」
「放ってなんかおけません!」
雹くんに肩を押さえられた蘭くんは、雹くんの手を振りほどいた。
「蘭!」
「声はかけません。でも、誰かその気持ちを分かる人が近くにいてくれた方が嬉しい時もあります。だから、僕が行きます」
これまでの彼では考えられないほど強いはっきりとした声でそう宣言すると、誰の許可も求めることなく、卯飼くんを追いかけていった。
二人がいなくなった生徒会室に沈黙が下りる。
「こんな空気にしてしまってごめんなさい」
「仕方ないです。成功する恋があるように、失敗する恋もあります」
「この場でこうなったのは月の自爆に近いものもあるしな」
祥子がその空気を破って頭を下げると、空石兄弟が肩をすくめる。
それでも祥子は気まずげに落ち込んでおり、それを親友が慰めている。その横をすり抜けた私の親友が私の横でぼそりと呟いた。
「ああいう風な守りかた、私、嫌いじゃないわ。やり方は信じられないくらい下手くそだけど」
未羽のこの宣言は、彼女が祥子を認めた証。
これが、本来の役目から外れていた未羽が、自らの意思で祥子の周辺をカバーしてくれるということと同義だと分かるのは私くらいじゃないかな。
未羽、あんたの言い方の方がよっぽど上手じゃないよ。
祥子は、強力な味方ができたことを知らぬまま、おずおずと太陽の近くに行って申し出た。
「……ということなので……出来ればまたあたしに勉強を教えてもらえないでしょうか?」
「条件がある」
太陽、あんたはどこまで偉そうなの!
と文句をつけようとしたら、未羽が乱暴に私の口を塞ぎ、人差し指を自分の口につけた。
なんなのよ、未羽。黙って見守れってこと?
「やめたい、とか二度と言うな」
「あれは冗談だよ?」
「冗談でもだ。お前はバカだし、勉強に関しての才能ねーよ。致命的だよ、そこは訂正するつもりはない」
「うぅ」
「でも、お前は俺がやめろとか散々言ってても泣き言は言っても遅くになってでもやりきるだろ。なにがあってもめげねーところはお前が持ってる一番大事なもんの一つだろ。それを放棄すんな。救いようがなくなる」
「……ご、ごめんなさい」
椅子に座ったままだし、口調もまだ決して優しいと言えないが、太陽の声の棘はわずかに消えていた。
「……そこが気に入ってるから面倒でも教えてやってんだし」
「え?」
太陽がこれ以上は言わない、とぷい、とそっぽを向いた途端、未羽の手が外れてゴーサインが出た。
はいはい、監督。ここでは私がサポートキャラってことね。オーケーオーケー。従おうじゃないの。
「祥子」
「師匠?」
「太陽はね、わっかりにくいけど優しい子なんだ」
「あたしも、そう思います」
おぉ、力強い同意が来た。
「分かりにくすぎます!顕微鏡が必要です」
そっちか!
こら太陽、睨まない!
「う、うん、そうね。……でもね、この子、みんなに優しいわけじゃないし、出来ないやつと思って見切りつけるのは結構早いんだ。そんな子が、あなたの勉強にそこまで付き合う意味って分かる?」
「えぇっと……?」
ぽん、と片方の手を太陽の頭に、もう片方の手を祥子の上に置き、軽く撫でる。
「太陽が祥子を認めてるからだよ」
「ちょ、ねーちゃん!頭やめろ!」
「ほーら、太陽。祥子は自分から踏み出したよ?」
「分かってる!」
太陽は、私の手を頭からどけると不満げな顔で祥子を見た。
「別に中間終わってから教えてやってたのは償いでやってたわけじゃねーよ。俺がやってやってもいいって思ったからやった。だから義務だと思ってたって言ったことは嘘だ。嘘をついたことは謝る」
「相田くん……」
「それから言葉の選択ミスをしたことも俺が悪かった」
「それはいつものことだからそんなにダメージなかったけど」
「じゃあなんで泣くんだよ!」
「うっ。それは……」
「理由教えてくれなきゃ改善できねーだろ。言えよ」
「えぇと……その」
「煮え切らねーな。はっきりしろよ、腹立つ」
太陽、そりゃ酷ってもんだよ。本人に向かって「好きな男の子が義務で自分の面倒を見ていたと言ったから!」なんて言えるはずないんだから。
「それは……その……一言一言はそこまでダメージなくてもっ、でも言われ続けたら蓄積疲労みたいに傷つくしっ!あと口調がきついからっ!」
「……あーまたこのパターンですね。この後は、『言われるくらい酷いんだろ?!』とか『だからって泣くことねーじゃねーか!』と逆ギレですかね」
「太陽、クラスの女子には誤解させないような行動を徹底してるのになー。遅くまで残って二人だけになっても場所変えて最後まで教えて家まで送ってやってたらそりゃあ誤解もされるって」
「罪な男だね、太陽くんも」
友人二人と尊敬する先輩とが、次の言動を予想して、呆れたような目を向けているが、太陽が気づく様子はない。
祥子の言い訳がメインの理由でないことに一番気づくべき本人が気付いていないといういつものケースだと思ったのは、私だけではないらしい。
「さっき言った通り、確かにお前にはこの期間、言うべき限度を超えてきついことを言った自覚はある。悪かった、それは謝る」
「あ、え、と、素直に謝られると逆にどうしたらいいか分からないというか」
「なんなんだよ!一体俺にどうしろと……!」
「ご、ごめんごめん。今回はなんだっけ。喧嘩はどっちも悪いってやつで収めようよ。えーと――」
「誤魔化すな。大体、なんでお前、あんなにヘラヘラしてたんだよ」
「ヘラヘラ?!そんなことしてない!あたし、いつもこの顔だもん」
「いや、いつもに増してアホ面だった。卯飼に頭撫でられたり他の男子に下心見え見えの言葉かけられてよ、その裏の意図にも何にも気づかずににこにこ笑いやがって。男子が裏で何言ってるのかも知らねーくせに。なんか無性にイライラすんだよ。お前がそうやって男にヘラヘラ笑ってんの見ると。ばっかじゃねーの。そんなにあいつらに劣情をもたれたいわけ?」
太陽はまーた憎まれ口を――って、うん?
私同様、ぽかん、とした祥子を見て、太陽は苛立ったように手で自分の海色のくせのない髪をぐしゃぐしゃにする。
「あーもう!なんで俺がこんなになんなきゃいけねーんだよ!わっけわっかんねぇ!俺、分かんねーことって一番嫌いだから余計に腹立ってしかたねーんだよ。だからつい、その……あぁ、もういい!自分の口の悪さにセーブかからないのは悪いと思ってるって言いたいだけだ!」
太陽の墓穴発言に、発言者以外全員が不自然なくらい呼吸音を押さえた。
今声を出していいのは祥子だけ、という暗黙の了解が全員にある。葉月なんて楽しそうに三枝くんに抱きついてうずうずしてるし、未羽なんてにやにやが押さえられないのかわざわざ両手で顔を引っ張って色んな方向に伸ばした頭おかしい人にしか見えないけど、それでも音だけは出さずに堪えている。
「あ、相田くん……あのも、もしかして、その、その……」
「あぁ?はっきり言えよ」
「あのー。ち、違ったら悪いんだけど…その、あたしのことで、し、嫉妬してくれてる、とか……?」
「は!?お前何自意識過剰なこと――」
太陽が頰を染める美少女と目を合わせ、すぐにふい、と顔を逸らした。
「そ、そうだよね、ははは。さすがにそれはないか。相田くんだし。あ、れ…相田くん?」
祥子から目を逸らした太陽は逸らした先で、言われたことを咀嚼して理解したらしく、それからそれを否定しきれない自分を信じられないというように目を見開いて、顔を真っ赤にしている。
「な、なんで……なんで?わんこなんかに……?」
誰に言うでもなしに小さく呟いた太陽を見て、今度は祥子の方が沸騰せんばかりに頰を赤くして、やかんのように震え始めた。
「ああああの相田くん、今の――」
「うっせー黙れお前今何もしゃべんな!」
混乱極まる太陽は、ガタン!と椅子から勢いよく立ち上がると
「弥生、ちょっと顔貸せ」
とドアまで弥生くんを引っ張っていく。
「あ、相田くん待って!べ、勉強のことは…?」
太陽は、祥子の言葉にドアを出てすぐのところでぴたりと一瞬動きを止め、振り返ると、赤みの引かない頰のままで軽く祥子を睨んだ。
「わんこは犬らしくご主人様だけに尻尾振ってりゃいーんだよ!ご褒美を与えてやらなくもない!」
「日本語に直して!」
「日本語だろ!」
「ああああたしっ、バカだから分かんない!」
「だからっ!お、俺が教えてやるから……だから俺以外から教わんなって意味だアホ!」
言い捨てるようにして太陽が消えた後、祥子はかかしのように突っ立っていたが、葉月の突進で我に返り、
「あ、あ、あ、葉月、今、今何が……」
と葉月に縋りわたわたとして、たまたま目に入った私に
「ししょ―――――!!」
と抱きついてきて、そのまま放心状態に入った。
「祥子!祥子?!」
葉月が祥子を揺さぶり、無駄だと悟った三枝くんに頼み、生徒会室のソファに寝かせるのを手伝っている。
「未羽さんっ?未羽さんの様子がなにかおかしい!」
祥子救援に向かっていた足を止め、鮫島くんの焦った声にそちらを見やると、
「未羽っ!未羽!あんたそのままだと逝ってしまう!というか女として今の状態終わってる!起きろ!」
未羽は、ツンツンツンデレの鈍ちゃんの天然デレ部分を生目撃したことで、目と口から液体をこぼし、恍惚の表情を浮かべたまま壊れている。
「んーなんだかなー。月に発破かけちゃった身として、僕、今とてつもない罪悪感があるんだけど」
「斉くんが気づく前だから仕方ないと思うよ?」
「まぁこれに懲りて簡単に発破かけるなよ、斉」
「分かってるよ。反省した」
珍しく暗い斉くんと、慰める俊くん、そして、先ほどの見てはいけない何かを記憶から抹消した様子の鮫島くん。
「な、な、な?相田弟ってあんなに可愛いやつだったか?!俺、ちょっときゅんってしたぞ?!」
「雹はそっちに目覚めたかー。俺とは相容れないね」
慌てまくりの雹くんとマイペースに温かいお茶をすする雨くん。
「そーゆー意味じゃねーよ!なんなんだよ今の!」
「んー?太陽くんの化石化してた恋愛モードが少し復元された画期的瞬間?」
「うっわぁ、恋愛ってあーゆーのかー。お前みたいにあっさり自覚するもんかと思ってた」
「それは雪さん見てたら違うって分かるでしょ?」
「ま、まぁな。確かに。いやー、こえーな!恋愛ってよ。人変えちまうぜ?」
「雹もやって見ればー?楽しいから。まずは遊びからでも」
「雨、お前本当に反省してんのか?!」
「してるしてるー。だから俺は二度としないよ。そんな明美さんが人間失格って断言するようなこと」
「兄にはやらせるってか?」
それぞれがそれぞれの感慨にふける中、空石兄弟だけはいつも通りだった。




