人は見かけによらぬもの。(対冬馬祖父編その5)
前半~中盤部にR15表現があります。ご不快になられる方もいるかもしれないので、無理矢理もどきが無理だと思われる方は後書きまで飛んでください。
それから私は健之助さんと契約書を交わした。法律上の効力はおそらくない。でも、きっと私も健之助さんもこれを破ることはないという確信に近い感覚がある。そしてこれはそれをお互いが目に見える形にしているだけだ。
冬馬は健之助さんに未熟者とはっきり言われてから沈黙を貫いていたが、契約書を交わすや否や、私の手を取って立ち上がった。
「私はこれから東京で手術があるのでね。向こうに移動するとしよう。相田さん、またの機会に君を食事にでも誘おう。君と話すのはつまらん連中と話すより面白そうだ。」
「は、はぁ。」
いえ、私の精神はもうかなり削られたので出来ればご遠慮したいです。
「斎藤、彼らを送る手配をしろ。」
「ハイヤーの手配は既に済みましてございます。相田様のご自宅からでよろしいでしょうか?」
「雪は俺の家に連れてく。」
「え、冬馬、もうすぐ6時だよ?」
「話すことが山ほどあるから異議は認めない。斎藤さん、俺の家に送って。」
「畏まりました。」
斎藤さんの返事を聞くと、冬馬は健之助さんに形ばかりの礼らしきものをし、すぐに私の手を引っ張り、病院の中を迷いもせずに歩くと外まで連れていく。私に出来たことと言えば健之助さんに「お邪魔しました」と言うことくらいだった。
その後は、斎藤さんの用意してくれた運転手つきのハイヤーなんていう、おそらく私個人では一生乗らないであろう交通手段を初体験することになった。
冬馬の姿を見た運転手さんが当たり前のように出てきて車のドアを開け、冬馬が何も言わずにそこに入り、静かに車が進む。
冬馬は基本的に礼儀正しい。常なら何かしてもらえば微笑を浮かべてお礼をきちんと言う人だ。だから、斎藤さんや運転手さんなどの「上林家の使用人」に対して丁寧語を使わなければ、お礼すら言わない彼はいつもと違って見えてしまう。
だがそれが、彼が健之助さんとの一連のやり取りで冷静さを欠いているためなのか、それとも「上林家直系の嫡男」として上から命じることに慣れているからなのかの区別がつかなかった。
ほとんど振動を感じない快適で広い車内にいる間も、冬馬は窓の外ばかり見ていて、決して私と口を利こうとしない。そんな状態だったから、冬馬宅について二人だけの空間から解放されたときはほっとしてしまった。
「雪を自宅に送る時にまた呼んでいいか?」
「畏まりましてございます。」
「あ、ありがとうございました!」
目的地に着いた冬馬は、それだけ言い捨ててからまたも乱暴に私の手を引いてドアを開ける。
「冬馬お帰り…ってどうしたの?あら、雪さん?」
「雪があのじじいに嵌められた。…俺のせいで。」
簡潔な冬馬の言葉にみるみる表情をなくした沙織さんの手からお皿が落ち、かしゃん!という甲高い音が響く。
「…雪さん、大丈夫なの!?嵌められたってどういうこと!?」
優雅な沙織さんらしくなく、動揺した様子でお皿が割れた破片にも構わず蒼白な顔で私に迫る。
「沙織さん、危ないです!動かないでください!!…大丈夫です、嵌められたわけではありません、私の意思です。」
「でもお父様ならきっと何か無理矢理」
「それをちゃんと聞くから、母さん、雪の分も夕食頼める?多分時間がかかる。」
「…ええ、それはもちろん。」
「雪、俺片付けていくから。先に俺の部屋に行ってて。場所は分かるだろ?」
「あ、うん…。」
有無を言わせない口調だ。
仕方なく冬馬の部屋に先に入り、ブレザーをたたんで鞄と一緒に隅に置き、カーペットの上に座ってお母さんに夕食がいらない旨を伝える。
『学校?』
『冬馬の家でいただいていくことになったから。帰るときにまた連絡する。』
『あらぁ。楽しんできてね。』
この空気の中では絶対に楽しめないだろうことは予想がつくので、ハートをいっぱい抱えるクマのスタンプが目に刺さる。
これからの時間は針のむしろ間違いなしなのだから。
処刑を待つ罪人の気分でしばらく待っていると、冬馬が階段を上がってくる音がした。
入ってきた冬馬は無表情でドアを閉めて、手に持っていた彼のブレザーと鞄を無造作に椅子に投げた。
「と、冬馬、制服着替えるよね?私ちょっと出てるか…ちょ、ちょっと冬馬!?」
いきなり腕を引っ張られたせいで手に持っていたケータイが毛足の長いカーペットの上に落ちたが拾うことも許されない。
彼は私を引っ張って、ぽいとベッドの上に投げ出すと、
「冬…ん!!!」
馬乗りで無理矢理口を塞いだ。
「ん…むぅ!…!!」
口内に入る現世初めての生々しい感触。
いつもは優しく唇を触れさせるだけの冬馬が、彼らしくなく乱暴に私を貪る。
相手が冬馬じゃなかったら気持ち悪くて仕方ないだろう行為に、嫌悪感はなくても小さな恐怖が湧き上がる。
「んんっ…んんんー!!」
何とか頭を振って逃れようとしたし、上から押さえつける彼の腕で押し返そうと抵抗するのに、びくともしない。
こんなに力の違いがあるなんてことを、こんなところで思い知らされるなんて。
確かこれは去年も思ったな、幼馴染に、同じことを、同じ状況で。
言われたよね、無防備って。
私はなんと懲りない女のか。
いや、違う。懲りないんじゃなくて、安心してたんだ。
正確には、安心じゃなくて、慢心。
冬馬は大人だから大丈夫。私の気持ちを受け止めてくれるし、少々の我が侭も、多少の無茶も、そしてたまに言葉足らずになって失敗したとしても絶対に受け止めてくれるという、甘え。
いつからそんなことを思っていたんだろう。
彼は高校生で、私のように転生で精神年齢を積んでいるわけでもない16歳の少年なのに。それどころか、日ごろ不自然なくらい大人な対応を取る、普通の16歳よりも少し歪だと思うくらいの人だったはずなのに。
彼が精神的に脆いことを、分かっているようで、実は全然分かってなかった。
今の彼が何を考えているか、どんな感情でこんなことをしているのか、どこまでするつもりなのか、全く分からない。
彼が、見えない。
ぷちんと胸元のリボンが取られ、ブラウスのボタンが次々と外される。いくつ目になっても止まらないその動きに恐怖が募る。ボタンが全部外れたところで私の精神の限界がきた。
怖い。
怖い怖い怖い!
冬馬が冬馬じゃないみたいで、怖い!!
「…いや!冬馬、やだぁ!!」
首を振ってようやく離れた口で拒絶の意思をなんとか示す。
自分でも信じられないくらい弱弱しい声しか出なかったけれど、冬馬は止まった。
力ずくで押さえられていた腕が解放されたので腕で涙を拭って止めようとするのに、後から後から溢れて止まらない。
「うぅ。怖いよ…怖いよう。」
体勢も起こせないまましゃくりあげている私を、私の頭の横に手をついたまま眺めている気配がする。
「…ごめん。」
ようやくひどく掠れた声が返ってきた。
「ごめん。こういう風にしたかったんじゃないんだ…。俺…ついカッとなって…。ごめん雪。ごめん。」
そう言って、私の体をいつもみたいに優しく抱き起してくれて、そのままぎゅっと抱きしめてくれる。
そんな冬馬はいつもの冬馬で、怖かったのも忘れて彼に抱きつく。
「うっ。ひっぐ。冬馬、いつもの冬馬だぁ。」
「ごめんな雪。本当にごめん、完全に八つ当たりだ。」
「えっぐ。や、やつあたり?」
小さく、苦し気に、言葉を絞りように、その気持ちを教えてくれる。
「そう。悔しかった。…俺、自惚れてたんだ。俺がそれなりに努力して、祖父さんに要求される以上のものを示していれば大丈夫なんじゃないかって…医者になる道をやめるっていう切り札があれば祖父さんは余程のことはしてこないって甘く見てたんだ。…まさか雪に直接手を出してくるなんて。」
「ひっく。と、冬馬、なんで分かったの?私が健之助さんのところにいるって。」
「昨日今日と雪の様子がおかしかっただろ?横田も同じことに気づいててさ、お腹痛いっていうのは嘘で、イベントでもないことで悩んでるみたいだってことを教えてくれたんだ。」
やはり未羽か。
「そこまで聞いたら俺関連であることの想像がつく。そういえば始業式の日に愛ちゃん先生に呼ばれたって言ってたから、もしかしたら関係あるんじゃないかって急いで聞きに行ったんだ。そうしたら雪が医系コースになっていること、それが校長によって変えられたことを雪に伝えたって話を教えてもらって。…祖父さんが何を考えているのかすぐに分かったよ。祖父さんがどうやって俺と別れさせようとしてるのかも、できなければ取り込むつもりであることも。連絡つかない時点でどこに今いるのかくらいは分かったから向かったんだ。」
私があんなに時間をかけてすんでのところで気づいたことに一瞬で気づけてしまえるとは。
健之助さんが冬馬を後継にしたいと思うのも当たり前だ。
健之助さんから見ても、彼は眩しいくらいに優秀な孫なんだろう。
私が涙を引っ込ませ、いくらか冷静に物事を見られるようになるのと引き換えに、冬馬の方が言葉に感情を乗せていく。
「…俺のせいで。俺のせいで雪の人生が決まってしまった…。雪の将来の可能性を全部奪って、上林家ってところに拘束させてしまったんだ…。俺、全然雪を守れなかった。それが悔しくて悔しくてたまらなくて。俺の一番大事なものを今なら守れるって甘く考えてた俺に一番腹が立って。無力感でいっぱいになって。苛々してたまらないところで、雪さえもが俺を部外者扱いしたことにカッとした…。雪が俺を不要とするなら、俺がやってることってなんなんだ、俺はこんなにも雪を必要としているのに、雪はどこまでも俺に頼ろうとしない。それに無性に腹が立ってあんなことを…何してんだろう、俺…。本当にごめん。怖がらせた。」
そう言って、私を抱きしめる腕に力を籠める。
「じゃあ謝るのは私だね。ごめん。」
「違う!俺が雪に酷いことをしたんだ。本当に…。」
「確かにさっきは怖かったよ。でも、さっきああされたから、冬馬がどれだけそれに傷ついたかって分かったの。原因を作ったのは私だって分かった。冬馬の気持ちとか、考えてなかった。なるべく頼らないで一人で解決しないとって思ってたんだ。」
冬馬の背中に腕を回して、彼の背中を撫でる。
「今回の話を冬馬が聞いたら、きっと『医師の道をやめる』って最終手段を使うだろうと思ったから言わなかったの。でもね。例えそれを言われても、説得すべきだったんだと今なら思うんだ。自分がどうしてこの方向に決めたかは、冬馬に一番に言わなきゃいけなかった。だって冬馬は部外者どころかまるまる関係者なんだもん。」
「説明も何も…そういう選択をしたのはそれしか手段がなかったからだろ?」
そうだ。冬馬には説明しなきゃいけない。
冬馬から身を離して首を横に振る。
「違う。私は、この道を自分で選んだの。全部説明するから聞いてくれる?」
激しく自分を責めているであろう彼の目を強制的に自分に向けさせて問うと、冬馬は小さく頷いた。
「あのね。健之助さんは最初に私に医学部進学っていう道を明示せずに、冬馬と別れるか、家族が路頭に迷うか選べって言ったの。」
それを聞いて冬馬はぎり、と歯を食いしばっているが、それでもお願いした通り言葉を挟まずに聞いてくれるので続ける。
「その二つはどうしても選べなかった。…でもね、三つ目は違う。私が医系に進むこと、医者になるという道があることに気付いて、私は迷わずそれを選んだんだよ。…冬馬には言ってなかったよね?あ、冬馬どころか誰にも話してなかったっけ。なんで私が国立文系を選択してたのか。」
「あ、あぁ。」
「私、前世で国立文系だったんだよ。それで、現世で同じ大学の同じ学部に入ろうと思ってたの。」
「…文系に行ってやりたいことがあったんじゃないの?」
「そっか、ここから説明しよう。私の前世はね、女子大生だったの。」
冬馬に初めて語る前世の話。
「女子大生…。」
「うん、享年22歳。東京の某国立大学に通う普通の女子大生をしてて、難関国家試験に受かるために勉強ばっかりしてたんだ。なのに、その試験に受かる前に死んじゃったの。」
「…辛くなければ、教えてくれないか?なんで…その。」
「駅でね、酔っぱらいのおっさんたちの喧嘩に巻き込まれてホームに転落してそこに来た電車に轢かれたの。」
それを聞いて冬馬が顔を歪める。どんな遺体か予想できるんだろうし、その辛さや苦しさも想像しているんだろう。
「思い出せるのは、最期に落ちる浮遊感への恐怖と、それから目の前に迫ってくる電車のライトだけ。多分痛かったんだろうけど、そこは覚えてないの。あ、だからね、去年寺から落ちたときは一瞬またかって思っちゃった。」
皮肉を込めて笑うと冬馬が目を吊り上げた。
「笑い事じゃない。」
「ごめんごめん。でね、その国家資格を現世で取って前世の無念を晴らそうと思ったから国立文系に進もうとしてたんだ。」
「じゃあ…今回ので…。」
「うん、できないね。でも今言ったよね?これ、前世の夢なんだよ。」
「…現世では違うってこと?」
「うん。私、中学生…転生の記憶が戻る前までは医者になりたかったの。中学一年の時にわりと悪質なストーカー被害に遭って、それから守ろうとしてくれた秋斗が大怪我したことがあってね?それで決意したんだ、医者になろうって。卒業アルバムの将来の夢にもそう書いてたから、冗談とかじゃなくて真剣に目指してたんだよ。…でも転生のことを高校入学時に思い出したせいで、その夢が今まで忘れられてたみたいなんだよね。」
「まさか、今回ので?」
「ご名答。今回健之助さんに選択を迫られた時に、もう一つ選択肢があるって気づいて、じゃあそのうえでどうする?って考えたんだ。あれ?私なんで国立文系に進みたかったんだっけ?って思って、中学の夢のことを思い出したの。だから医者になるって道は押し付けられたものじゃない。思い出すきっかけをくれた健之助さんには感謝したいくらいなんだよ。」
「…でも今回のがなければ、夢は少なくとも2つあったはずだ。その夢の2つを選ぶ時間の猶予はあっただろ?本当なら。」
「そうかな?どっちにしても進路選択の時期は今だもの。変わらないよ。それに、例え私は時間を与えられても医者の方を選んだと思う。」
「なんで?」
「秋斗との約束だから。秋斗の傍にいるっていう約束は守れなかったから、もう一つは守りたいの。」
今頃遠くにいる幼馴染がどれだけ私を守るために頑張ってくれたのか、それを思えば絶対に捨てられない夢だった。
「……医者って言ったって、いろいろあるだろ?なにも上林家に拘束される必要はなかったんだ。そういう意味でも」
言いかけた冬馬の口を、自分の人さし指で止める。
「マイナスばっかりだなぁ、冬馬は。この就職氷河期の世知辛い現代社会で就職先まで確保されてるんだよ?それも安定で実績の高い大きな救急病院。これはもう、感謝こそすれ恨みとかなくない?」
にこっと冬馬に笑いかけると、冬馬はたまらない、という表情で私を再度抱きしめた。
「雪…。雪は優しすぎるんだ。…もっと怒っていいし、俺を恨んでいいのに…。」
「恨む理由なんてないんだよ。私は私の意思で選んだんだもの。それにね、私、守られっぱなしは性に合わないの。私も冬馬を守る盾になりたい。私が上林家の中で冬馬を守る正当な地位を与えられたんだよ?冬馬のために私が出来ることをやっと見つけたの。だからね、冬馬、お願い。」
「何?何でも言って。」
「これ以上自分のせいって言わないで。」
「…分かった。」
「これ以上蒸し返したら怒るからね。」
「…肝に銘じる。」
「あと。」
「あと?」
ぱっと顔を上げて真剣な顔で私の言葉を待つ冬馬の腕をガッチリ掴む。
「数学教えてください!!化学も!努力はするけどっ。化学と生物は理系範囲未習だし、数学も得意科目ではないしっ!前世チートは全くないんだよ!あんだけ啖呵切っておいて医学部行けなかったらやばいんだよう~。」
切実だ、これは大変切実だ。文系に行くと思っていたから夏は文系の勉強メインでやってしまっている。数学ⅢCはさらっとしかやっていない。
「…あーも――――!!そんなの当ったり前だろ!!今更そんなん!」
冬馬はそう言うと、私の目を見て優しい声音で言った。
「雪。」
「ん?」
「一緒に、なろうな。負けることがないように。頑張ろうな。」
「うん。」
この話はざっくり言うと、冬馬ご乱心(とはいえR18には全く関わらない)→雪が自身の思い上がり自覚→雪が前世の自分の夢を語る→二人で納得。の回です。冬馬は大人っぽいこらえ性のある子ですが、大人ではありません。精神的にはとても未熟で不安定な子です。




