第1話:雨音の邂逅(かいこう )
雨の匂いが辺り一面に流れる。
土砂降りに降りだす直前の、腐葉土とコンクリートが溶け合った熱が生み出す、生ぬるい湿り気。
傘も差さずに、ヨシは芸術大学裏の資材置き場を歩いていた。肌寒さで、うなじが逆立つ。
背後から駆け寄る足音がして、頭上にふっと影が落ちた。
蒼真が笑いながら、傘をヨシの頭上へ無理やり差し掛けている。輸入品らしい柔軟剤の香りと、齧っていた飴の甘い香りが流れて来た。
「よっさん、風邪ひくよ。異形の探知、サンキュな」
「だって、少し濡れてる方が、探知が効くんだよね。この手は使わないと」
「でも、このままじゃ、ずぶ濡れじゃん。逆に探知も難しくなるって」
「あはは。ありがと。たまは?」
「ちょっと一人で回ってくるって……あ。来た」
少し遅れて、傘を差した環が歩きながら問いかけて来た。雨が一段強くなった気がした。
「よっさん、異形の反応、この辺りで間違いない?」
いつもと変わらない言葉なのに、今日の環の声だけは、僅かに語尾が硬かった。
ヨシは気づかないふりで、穏やかに笑って見せる。
「うん。それに例の情報サイトに載ってたんでしょ」
環は小さく頷いた。
「都市伝説サイトにここの情報が載ってたんだ。もしかしたら今日辺り……来る」
「じゃあ。今日、片づけよう」
「見つけたら、いつも通りで」
蒼真の声は、雨音に混じってもはっきりと明るかった。
「うん。いつも通りで」
ヨシも笑って答えた。
「いつも通り」という言葉が……口内で、いつもより湿っていた。
*
同時刻。
トウゴは、資材置き場を見下ろす廃ビルの屋上にいた。
黒いロングカーディガンの裾が雨に濡れて、重く肩に張り付いている。その重みが、妙に心地よかった。濡れて重くなったものを纏っていると、自分の気持ちがはっきりする気がした。
「対象、一名。仲間と遭遇した」
低く、通信機に向かって報告する。
声に出した瞬間、口の中に金属みたいな味が広がった。緊張しているわけではない。ただ、報告するという行為そのものが、いつも喉の奥にこういう後味を残す。
『引き続き、監視を』
トウゴの鼓膜を震わせたのは、兄の声。
抑揚のない、いつもの声。通信機越しなのに、耳元で囁かれているような近さで届く。感情を全部こし取ってしまったような平さが、トウゴの鳩尾の辺りを冷たくした。
「監視だけで、いいんですか」
『今は、それでいい。由貴の息子の動向を。報告するだけでいい。手を出すな』
耳の奥に響く兄の声に、トウゴの表情が重くなる。
『お前はまだ、命令の意味を全部分かってなくていい。分かった気になるのが、一番危ないんだ』
「……分かりました」
トウゴは通信を切り、眼下を見下ろした。
十六歳の身には、未だ家の名の重さに慣れ切っていなかった。それでも、今回の命令には従う。それがこの家系に生まれた者の、当然の在り方だと教わって来たからだ。
でも、失望されるのが怖いのに、兄の声を聞くだけで、鳩尾の底が勝手に縮こまる。
従うと口では言いながら、身体のどこかが、いつも小さく拒んでいる。その矛盾に、トウゴは名前を付けたことがなかった。
よく分からない感情を押し込め、三人の様子を見据える。
三つの光が動いている。
環の、淡い中音域――ミッドの光。蒼真の、地を這うような低音域――バリトンの光。
そしてヨシ。高音域、トレブルの鋭い白銀の光。
(あの人の息子、か)
トウゴは、その名前をまだ直接口にしたことがなかった。
裏切り者の血を引く、不安定な素質者。自分たちにとっても危険因子――そう記録されていた。文字の上では、そう習った。
しかし、屋上から見下ろす三人は、ただ楽しそうに雨の中を歩いているだけで、危険因子には見えなかった。
むしろ、笑い声の断片が雨音の隙間から屋上まで届くたび、トウゴの胸の奥で何かが疼いた。
羨ましいのとも違う。ただ、あんな風に笑いながら誰かの隣を歩いたことが、自分にはあったのだろうか、と考えてしまう類の疼きだった。
(……何だ)
その時、トウゴの低音の喉が、ほんのかすかに鳴った。
鳩尾が縮こまる、いつもの拒絶とは違う。人とは違う何かを感知すると鳴る、素質者だけが持つ感覚。
トウゴは目を細めた。だが、それらしい気配はすぐに消えた。三人の周囲には、何の変化もない。ただ、感覚が消えた後も、皮膚の表面にその残り香だけが、しばらく張り付いていた。
(気のせいか……)
まだ、トウゴには、その僅かな違和感を言葉にする語彙も経験もなかった。ただの勘違いだと、自分に言い聞かせた。
その言い聞かせる声は自分の声のはずなのに、どこか兄の声に似ていた気がした。
それが最初の、最大の過ちだった。




