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第四章 vsレオン


 XX38年十月。


 イアンは深夜のドライブが好きだった。暗い道を自分の速度で切り開いているとき、昼間の厄介ごとが一時きれいに遠のく。理由はそれだけだ。


 デルメル州、崖縁区。半島の高地に刻まれた望海道路は、ドライブ愛好家が口を揃えて薦める曲線の連続だった。山道を抜けると夜の海が開ける。そして海の上に、あれが見える。


 羅湾裂蝕ドーム。

 縹島を包んで浮かぶ、黒い半球。裂蝕界は通常、入った瞬間に空間分断で帰り道が断たれる。だがあのドームだけは違う。外周部で内外の連続性を保てているのは、縹島の星晶鉱脈のせいだと言われている。――証明された話ではないが、イアンは他に説明がつかないと思っていた。


 大裂蝕災以前に敷設されたロープウェイが、帆嵐峰と羅湾裂蝕ドームを忌まわしく結んでいる。あれに何かあれば自分の責任だ。帆嵐峰に住む採掘員は、明日の朝も何も考えずに乗り込むだろう。


 忌まわしくと思考しながら、気分は軽快だった。エンジンの重低音が夜風に溶け、ミッドシップの重心がカーブへ素直に応える。ヘッドライトが崖沿いのガードレールを白く浮かび上がらせ、ダウンヒルへ誘う。


 対戦相手に恵まれず、帰宅コースへ乗り移ろうとしたとき、着信が来た。コリンだ。


 丹凰先生の弟子。昨日の食事会に、宗主の代わりに顔を出した娘。兄弟子の范を連れて。

 イアンが丹凰先生を誘ったのは、羅湾での件があったからだ。劫災主教団を追い詰めた実績は、独立安全検証委員会に欲しい顔だった。断られた。代わりにコリンと范が来た。

 食事会の参加者の中でトラ獣人の范が一番大きく、コリンが一番小さかった。


 玄嶺宗の意思表示としては明快だとイアンは思う。仲良くするつもりはない。しかし無碍にもしない。ちょうどこちらと同じだ。


 コリンについては、情報屋から一点だけ余分な話を聞いていた。弟子になる以前、マッパーをしていたという。

 裂蝕界の空間分断状況と、分断予測データを仕立て上げる、違法の裂相図製作者だ。丹凰先生の眼力に感服するべきか、素行の怪しい人間を弟子にとる節操のなさを警戒するべきか、イアンはまだ決めかねていた。


 通話に出た。


「イアンさん、おいしい話がありますよ」


 コリンの声は違法業者あがりの娘の声としては、あまりにも明るかった。


 落ち合う場所を決めて、イアンはハンドルを切った。


 廃倉庫の灯りの下に三人いた。

 くりくり目でショートボブの小柄なコリン。それから令嬢、ガブリエル・ストロング。昨日の食事会でコリンと妙に打ち解けていた、レオンの愛娘。イアンは彼女に対しての負い目を、何故ここにいるのかという疑問と一緒に振り払う。


 三人目はカサンドラと名乗った。食事会には顔がなかったが委員会メンバーだ。

 肩までの髪には艶があり、ゆるいウェーブがかかっている。落ち着いた物腰で、しかし目だけが油断なく動く。軍属の組織犯罪研究家のはずだが、イアンの勘は違うと告げていた。


「要件を」とイアンは言った。


 コリンが話した。ガブリエルが補足した。カサンドラは補足の補足だけをした。


 骨子はこうだ。スカンダが証拠隠滅に動いている。羅湾裂蝕ドームの中に、万丈柚希という娘が取り残されている。ロープウェイを稼働させてほしい。


 聞いた話を、イアンは静かに整理していた。


 万丈柚希。劫災主教団の人体実験の被験者にされた娘。八年前、レオンが羅湾を訪れたとき、子供、柚希を見つけて逃がした。レオンはその後捕まり、殺された。事故に偽装されて。


 ガブリエルが、父親の死の真相に自分で辿り着いた。


 イアンは内心でそれだけをまず、強く、静かに喜んだ。自分が八年かけてできなかったことを、この娘はやってのけた。負い目が少し、別の形に変わった気がした。


 しかし喜んでいる場合ではなかった。


「整理させてもらいます」


 イアンは三人を見渡した。


「まず、ガブリエル嬢。貴方を危険な場所には行かせられません。これは交渉の余地がない」


 ガブリエルが口を開こうとした。イアンは続けた。


「次に、食事会に来たあとのスカンダの動きは逐一把握しています。部下が見張っています。教団との関係の証拠隠滅を試みたという事実が確定できれば、私には十分です」


 共同CEOは二人いる。スカンダとグラハだ。二人は均衡している。その均衡の上で、この自治区を預かっている。スカンダだけが先に倒れれば、権力はグラハに一極集中する。

 グラハの軍への贈賄の証拠は、まだ手元にない。両者を同時に失脚させるつもりで動いてきた。しかし今、台無しにされかかっている。


「以上の理由から、お断りします」


 コリンが「でも」と言う。イアンはそちらを見た。


「スカンダ失脚に貢献すれば、イアンさんはもう一人のCEOに軋轢なく付くことができる。悪い話ではないと思います」


 ガブリエルが続けた。「アンテロス鉱業にとっても、社内がクリーンになって良いことずくめのはずだわ」


 カサンドラは何も言わなかった。補足する補足がなかったのだろう。

 イアンは三人を見た。それから天井を見た。それから三人を見た。


 ひどい人たちだ、と思った。交渉の体を成していない。こちらの不利益を考慮せず、にっこり笑って「美味い話」と言う。語るべきことを語っていない人間に交渉はできない。共同CEO二人を同時失脚させたいなど、表に出せる話ではない。


 木箱に腰かけるガブリエルの髪は、レオンのくすんだ髪色より透き通った金髪だ。イアンは思った。こんな廃倉庫にいていいお嬢様ではないはずだが、彼女は望んでここにいる。暗がりに首を突っ込むと危ない、と。娘に言ってやってくれ、レオン。


 あの男は羅湾で子供を見つけて、逃がした。それだけのことをして、帰路につけずに殺された。野暮だが、なぜそうしたのかをイアンは問いたかった。きっといい酒が酌み交わせた。

 レオンはもういない。残ったのは、彼の可愛い娘と、彼の最後の選択が今はまだ生きているということ。


 均衡が崩れたあとを耐える理由さえあれば、要請を飲める。しかしその理由が今、ここにはない。


 結局イアンにできることは、レオンの忘れ形見に厳しくレッスンすることだけだった。それで彼女の安全も守られる。レッスン料は協力しないことで支払わせる。


「お断りします。お力になれず申し訳ない」


 イアンは立ち上がった。


「では、これまでの話は忘れていただけると?」


 カサンドラからようやく主体性ある言葉が出たが、この言葉はイアンの心を逆なでした。忘れられるわけがない。


 歩きだしたイアンは立ち止まらず短く肯定しようとしたとき、ガブリエルが声をあげた。


「ブラックさん、待って! できれば使いたくなかった提案があるわ」


 イアンは足を止めた。

 振り返った。


「要求の引き換え条件として、アンテロス鉱業が採掘員に配布している虹蝕緩和剤の特許を、無償で譲渡するよう祖父に話を通してあります」


 ガブリエルの顔は、先日の応接室で見たものと同じだったが、目だけが違った。レオンの目だ、とイアンは思った。一歩先を読んで、畳みかけてきたかと思えば静かに待つ目。


 均衡が崩れたあとを耐える理由が、今できた。


「……確認させてほしい」とイアンは言った。

 声が、自分でも思ったより静かだった。


「それはガブリエル嬢、あなた自身の判断で動かせるカードではない。祖父君の承認を得たということは、ストロング家が正式に動いているということですか」


「そのとおりよ」


 ガブリエルの背筋は微塵も揺らがない。


 イアンは少し考えた。考えるふりをしたが、答えはもう出ていた。

「わかりました」と言った。


「ただし条件があります。あなたはロープウェイに乗らないでください」


 イアンはロープウェイの操縦室の扉をマスターキーで開けた。鎮座する操作盤と職員のロッカー。壁にはシフト表。ゴミ箱は空で清掃が行き届いている。

 正面の窓から隙間風が入ってくるが、海の上にそそり立つ鉄柱と時折虹色に煌めく裂蝕ドームを一望できる屋内特等席だ。

 うらはらに大裂蝕災以前の運転制御装置は操作感も前時代的で、深夜に一人で相対するには陰鬱すぎる代物だった。


 ロープウェイに乗りこむチームの編成はこうなった。正体は軍人だったカサンドラの旗下から精鋭が三名。それから范。突入には十分な顔ぶれだ。コリンの裂相図をもとに動く。裂蝕観測局の正規データは朝まで更新がない。


 違法業者あがりの娘の仕事を信用するしかない状況は、カサンドラの身分に少し驚いた後だったので、イアンは特に感慨なく受け入れた。


 ガブリエルには帰るよう言ったが、聞かなかった。操縦室の隅で壁にもたれて待つと言い張った。気まずい空気というには語弊があるが、適切な言葉も思い当たらない沈黙が流れた。


 そこへ丹凰先生が来た。

 濃いアイシャドウと口紅。ライトブラウンの長い髪。切れ長の目に高い鼻筋。三十代半ばほどだろうか。だが長い脚で歩く姿には、年齢を超えた貫禄があった。

 彼女は何も言わなかった。ただ来て、ガブリエルの隣に立った。それだけで場が変わった。イアンは先生に一礼してから仕事にかかった。


 ロープウェイが動き始めた。帆嵐峰から羅湾裂蝕ドームへ、チームを乗せて、忌まわしいワイヤーが軋んだ。


 操作盤と送り出した籠を交互に見る。

 家に帰れるのは明け方だろう、とイアンは思った。


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