だいちゃんとたいちゃんの夏休み ④
カランコロン
「おはようございます……」
世間は夏休み。ラジオ体操が始まるまでの時間もまだたっぷりとある早朝。
その、消え入りそうな声に、リスさんと私は驚いて振り返った。
すべての覇気を夏空に吸い取られてしまったかのようなお嬢さんが、蒼白な顔で、ベッカライウグイスの重たい扉に凭れていたのだ。
JKたいちゃんであった。
リスさんと私は、仰天して駆け寄った。
いつものたいちゃんとのあまりの違いように、声すら上手く出なかった。
「たいちゃん、どうしたの……」
「大丈夫……?」
たいちゃんは、気だるげな様子で、何とか立っているという感じで、リスさんと私は慌ててその体を支えた。
一体、何があったというのか。
私は、窓から外を見渡した。
5時30分という時間に、外を歩いている人は稀である。今日も、まだ誰一人として見当たらない、静謐な朝である。
リスさんは、たいちゃんに尋ねた。
「たいちゃん、どうやって来たの?地下鉄もバスもまだよね?」
尋ねながら、たいちゃんを支えてカウンター席までやってくると、椅子に座らせた。
私は、たいちゃんに冷たい水を運んだ。
「たいちゃん、飲んでみて」
たいちゃんは、力なくコップを受け取った。
そして、一口だけ、こくりと飲むと、圧縮されたような声を出した。
「親が……そこまで……送ってくれました」
よかった。
リスさんと私は、とりあえずほっと息をついた。そこまで親御さんが一緒なら、たいちゃんは無事にここへやって来た、ということである。
たいちゃんは、端正な顔立ちで、いつもならこの年頃の女の子らしく、髪型にとても気をつかっていた。真っ直ぐに整えた髪を後れ毛のないよう、綺麗に後ろにまとめ、薄くお化粧もしていたと思う。
だが、今日のたえちゃんは違う。
顔色も悪く、血色がない。
髪は飾りのないゴムで、手づかみのままにまとめられただけだった。
加えて、眉間には、まるでこれから気の進まないことがあるかのようにくっきりと皺が寄り、気持ちも体もこの上なくだるそうに見えた。
熱があるのだろうか。いや、それにしては、頬に赤みというものがまるでない。私たちは、心配した。
「あの、たいちゃん、大丈夫?」
「どこか具合が悪いんじゃない?……ご飯は食べられた?」
たいちゃんは、少しむくんだぶすっとした表情で、口角を下げた。すべてが、緩慢だった。
「ちょ、ちょっと休んでよっか、ここで。無理しないで。ね、来春さん」
リスさんは、私に同意を求めた。
私は、何かに怯えた様子のリスさんを初めて見た。不審者にも動じないタイプであるのに……。
「いえ」
可愛らしい顔立ちを憤慨したように険しくし、嗄れた低い声でたいちゃんが言った。
「私、……朝、弱いだけなんで、……大丈夫です」
えっ?
本当にそれだけなのか、と私は、脳内で問いかけずにはいられなかった。それほど、たいちゃんはいつものたいちゃんではなかった。
「とにかく、一時間くらい休んでからにしましょう、たいちゃん」
リスさんがそう言うと、たいちゃんの重たい瞼の代わりに、眉がゆっくりと上がった。
「え?」
そして、リスさんに尋ねる。
「……だいちゃんは、何時から始めたんですか?」
「えっと、だいちゃんは、5時30分からでしたね。ね、来春さん」
私は、こくこくと、たいちゃんに頷いて見せた。
「だめだぁー」
突然、たいちゃんが頭を抱えて悶え始めた。
「たいちゃん!」
椅子がぐらついた。あまりの不安定さに、りすさんと私は、横からたいちゃんを抱えようとした。たいちゃんが倒れるかと思ったのだ。
たいちゃんは、力ない上半身で、カウンターにしがみついた。
「あぁ……あ……」
苦しそうである。
リスさんが、たいちゃんの背をさすった。
「大丈夫?とにかく、休みましょう、たいちゃん。椅子から落ちそうになってる……」
私たちは、たいちゃんを深く座り直させ、もう一度コップを持たせた。
「ふぅ」
たいちゃんが、水を半分ほど飲むと、深い溜息を吐いた。
「私……ほんとに、今日、楽しみだったのに…………」
たいちゃんは、半分べそをかきだした。
早朝のベッカライウグイスで、リスさんと私は、もうどうしていいのか分からなくなっていた。
ティッシュを持って来て、たいちゃんの横に置くと、何枚か弾き出して手渡した。たいちゃんの、半袖から伸びだした腕をさすったりして慰めた。
たいちゃんは、少しずつ現実を理解しはじめた。
「うっ……すみません。私…………、今日ほんとに、ずっと待ってたんです……」
リスさんが言った。
「いいのよ。楽しみにしてくれてて、ありがとうね。
誰だって、体調の悪いときがあるし、朝の弱い人がいれば、夜が弱い人もいるのよ。だから、大丈夫よ」
「ごめんなさい……。時間、……遅くなっちゃって……仕事があるのに……」
たいちゃんは、言葉を詰まらせた。
「大丈夫、大丈夫。昨日から発酵させている生地もあるから、大丈夫なのよ」
たいちゃんは、ぐっと堪えて、何とか態勢を整えようとした。
「たいちゃん、まだ6時前だから、あと1、2時間くらい休んでいて。それでも学校だと始業時間くらいでしょ?」
たいちゃんは、泣くのをぐっと堪えると、息とともにやるせなさを吐きだし、その代わりに、リスさんの言葉を飲み込んだ。
「……はい。すみません。少し、休ませてください……」
たいちゃんは、情けなさそうに手のひらで顔を覆うと、カウンターに突っ伏した。
私は、リスさんの家へ戻り、持って来た薄い羽織る物を、たいちゃんの背中に、そっと掛けた。
後は、静かに、リスさんと私は、それぞれ朝の作業を進めていった。
すっかりお店の準備が整った頃、そろそろ様子を見ようかな、と私は、カウンター前の大きな窓のシェードを半分ほど引き上げた。
朝日が、ベッカライウグイスの床に伸び、焦げ茶色の木目が艶やかに鈍く光った。
たいちゃんが、むくりと起き上がった。
「大丈夫?」
私は、たいちゃんの隣に座ると、その顔色を確かめた。
2時間前よりは、ずっと頬に赤みが差し、引き締まった目元をしている。
たいちゃんは、ややしばらく無言だったが、次第にはっきりと覚醒し、ものすごく驚いた表情で私を見た。
「す、すみません!」
早朝とは、声も違い、動きも機敏だった。
「今、何時ですか?!」
たいちゃんが、勢いよく立ち上がろうとしたので、私はそれを押しとどめた。
「急に立ち上がると、危ないから。大丈夫だから、まず座って、ね?」
たいちゃんは、素直に腰掛けると、辺りをきょろきょろと見回した。時計を探しているのだ。
「今、まだ8時半くらいよ。ちょうど、朝のパンが焼き上がって、これから休憩なの。ご飯、食べられそうなら、一緒に朝ご飯にしましょう。リスさんのスープ、美味しいわよー。従業員しか、食べられないから!」
たいちゃんは、おずおずと頷いた。
「はーい。今朝は、ミネストローネと、たいちゃんがいるから、特別にさっき焼けたばかりのコーンパンです」
リスさんが、トレイを持ってやってきたので、私はコーヒーを入れに行った。
私たちは、カウンターに三人並んで、朝食をとった。
たいちゃんが、ふぅふぅいいながらミネストローネを口に運んでいるのを見て、安心した。
「たいちゃん、今日、無理しないで、別の日にして構わないわよ」
リスさんが声を掛けると、たいちゃんは、申し訳なさそうに言った。
「私、朝がほんとうに苦手で、別の日にしても同じことになっちゃうと思うんで、今日、このままさせてもらってもいいですか?」
リスさんが、私を見て言った。
「私たちは、構わないけど、体調はどう?」
たいちゃんは、溜息を吐いた。
「よく、朝会で倒れちゃう子っているじゃないですか?私、そのタイプで、とにかく、朝はふらっふらなんです。親も心配してて、病院にも連れて行かれたんです。でも、血圧の変動しか原因がなくって」
可哀想に……。私には、たいちゃんを励ます言葉も思いつかなかった。
ところが、リスさんが何でもないように言ったのだ。
「大丈夫!大人になると、直るわよ、きっと」
「私の友達でね、やっぱりものすごく朝の弱い子がいて、それこそ真っ青になって朝礼の時に倒れたり、一時間目の体育なんてもう動けなくなっちゃうくらいだったんだけど、大人になって会ってみたら、成人式の時になんだけれど、見違えるほど元気になってたの。成人式って、始まる時間も準備する時間もとにかく朝早いから、私心配で、聞いたのよ。そしたら、その子、19歳くらいからだんだん良くなってきて、今は早起きが自分に合ってると思う、って言ってたの。もう、私たちびっくりしちゃったけどね、その時。
もちろん、その子なりに気を付けたこととか努力したこととか、色々あったんだとは思うけれど。
多分、人それぞれ体のことは分からないし、違うんだけど、自分の体がどんなか分かって、慣れてきて、少しずつコントロールできるようになるんじゃないかな、って思うのよ。少し、薬の助けを借りたりとかもあると思うけれど。
たいちゃんだって、ずっとそのままじゃないと思うわ。たいちゃんの家族とか、お母さんはなんて?」
「お母さんは……朝、お風呂の準備をして、私がちゃんと起きて入っているように気を付けてみていてくれたり、栄養にも気を配ったりしてくれてるんですけど、なかなかよくならなくて……。このくらいの時間からは、だんだん平気になるんですけど……」
私は、時計を見て言った。
「今、9時だから、世の中的には、このくらいの時間にしゃんとしていたら十分大丈夫だし、別に、朝からじゃない仕事も色々あると思うから、たいちゃんが、まず無事で、つらくなかったらいいんだけれど……」
たいちゃんは、頭を下げた。
「……ありがとうございます……。私、今までも練習してきたんですけれど、諦めずに、早く起きてしゃんとしていられるように、努力します」
りすさんが、微笑んだ。
「無理しないでね。倒れるのは、だめよ。ほんとう、打ち付けると危ないから、約束してね」
「はい。約束します」
たいちゃんは、リスさんのスープを美味しそうに飲み干し、コーンパンも二つ食べた。
「これ、やっと食べられました!私が来る時間だと、コーンパンって書いてある表示しか残ってなくって、幻のパンだったんです。あ~美味しぃ!」
たいちゃんがあまりにもしみじみと言うので、リスさんと私は、笑いながら立ち上がった。
「じゃ、開店準備を始めますか」
「はいっ」
たいちゃんも立ち上がって返事をした。
真っ白い調理制服に着替えたたいちゃんは、まるで別人のように立ち働いた。
即戦力、という言葉がぴったりなくらい、お客さんの応対も上手く、なにより驚いたのは、パン作りに対する知識の豊富さと、迷いのないその手つきだった。
たいちゃんは、ベテランのように、ベンチタイムに向かうパンを、二つずつ一度に両手で丸めた。
「たいちゃん、パン屋さんでバイトしたことあるの?」
リスさんがそう聞くほどだった。
だが、たいちゃんは、まだバイトは未経験だという。
「私、実は、パン作りが大好きなんです。パンというか、製菓というか……」
「そうだったの」
たいちゃんは、リスさんの隣で、真似をしながらどんどんパンを成形していった。私ならば、ここはどうするのだろう、と思った部分を、既にどうやるのか分かっていて、リスさんの手つきを確認しているに過ぎない。
「ふんふふん♪」
しかも、たいちゃんは、鼻歌を歌うほど楽しそうである。
リスさんのレシピやコツを知る度に、深く頷いたり、目を輝かせたり、「一日パン屋さん」を満喫していた。
「ふーっ。このぷくぷくした、色白の、うぅ~ん、もちもち!触っちゃうよ!最高!」
たいちゃんは、パン屋さんでしかお目にかかれない、大きなパン生地に、時折話しかけ、褒めちぎった。




