さくらさんの粘土探しツアー ①
雨の日が続いていた。
天気予報では、長い前線が横切った後、すぐに次の前線が移動してくるという。
ベッカライウグイスの、大きな窓を伝う雨だれは、まるで透明な血管に見えた。
ひっきりなしに枝分かれを繰り返し、同じ軌跡を通らずに硝子を流れ、落ちていく。色のない血液は、歪んだ庭の景色を閉じ込めては、波のように蠢いて窓を濡らし続けた。
私が、新しいコーヒーを注ぎに行くと、みっちゃんが溜息を漏らした。
みっちゃんは、みずほさんがいなくなってから、溜息をつく日が多くなった。
けれど、今日のみっちゃんの憂鬱は、みずほさんのことだけではなかっただろう。
リスさんはじめ、ベッカライウグイスの面々は、近づいてきた「さくらさんの粘土探しツアー」が無事開催できるのかどうか、この雨続きに気を揉んでいたのである。
カランコロン
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ」
「雨ですね」
雨も二日目になると、お客さんたちは必ずといっていいほどお天気のことを口にされた。
何人かお客さんが訪れた後、窓の外に弘子さんとさくらさんの姿が見えた。
二人は、入り口の屋根の下で、ぱたぱたと振った傘を畳み、傘立てに入れると扉を押した。
カランコロン
「こんにちは」
「雨だねー」
ツアーの責任者、さくらさんは、雨をものともしない朗らかさで、ショーケースの奥のリスさんと私に声を掛けた。
「天気予報、心配ですよね」
私は小さな溜息を吐き、リスさんは、湿度を濃く帯びてきた店内を案じ、エアコンのスイッチを入れた。
「ね、停滞しないで欲しいよね」
あまりにおおらかで、どこか人ごとな様子のさくらさんである。
今日のさくらさんは、白いブラウスの上に青磁色のカーディガン、その上に濃いグリーンのレインコートを重ねている。初夏が、雨に紛れて近づいてきたような出で立ちである。
そんなさくらさんを、弘子さんが取りなした。
「さくらさんね、雨が好きなのよ」
「でも、さくらさん、粘土探しツアーが……」
さくらさんは、気にも留めていない口ぶりで答えた。
「あんまり降ると、川縁は危ないからね、中止の方がいいのよ」
さくらさんの言葉に、みっちゃんが振り向いた。
「あ、みっちゃんは中止になっちゃ困るわよね。みずほさん、前から予約してたから来るかも知れないものね」
みっちゃんと目が合ったさくらさんは、その心を、さくっと抉った。
弘子さんは、現実の心構えをみっちゃんに告げる。
「みっちゃん、みずほさん、来ないかも知れないわよ。仕事してるでしょうし、ぱっと来られないところに住んでるかも知れないでしょう?」
みっちゃんが、疑いを含んだ目を向けた。
「ぱっと来られないところって?」
弘子さんが溜息交じりに言った。
「近くに住んでるとは限らないでしょ?」
みっちゃんは、返す言葉もなく、再び雨に濡れた庭へ目を向けた。
窓があまりに大きいので、じっと雨模様の庭を見ていると、こちらの方が水槽の中にいるように思えてくる。私たちは、雨に沈殿するように気落ちしていった。さくらさんを除いては。
が、その午後、予想もしていなかった人物が、別の土地から太陽を連れてきたかのように、ベッカライウグイスを訪れたのだった。
カランコロン
その人は、扉を勢いよく押して、お店の中に飛び込んできた。
「こんにちは!リスちゃん!元気だった?…………あら、みんな何て顔してるの?」
「羽鳥さん!!」
リスさんが、レジ横のカウンターを跳ね上げて駆け寄るのと同時に、カウンターの全員が入り口を振り返った。
「羽鳥さんー!帰ってきたんですか?」
「リスちゃん!そうよー!」
羽鳥さんとリスさんは、手を取り合って喜び合った。
弘子さんも、席を離れてやってきた。
「羽鳥さん、お久しぶり!」
「弘子さん!お変わりなかった?」
「ええ、みんな元気よ!羽鳥さん、もっと早く帰ってくるかと思ってたわよ!」
「そうなのよ……。こっちの家を見に来なくちゃ、と思っていても、一度引っ越してしまうと、なかなか、ね」
さくらさんが、大きなジェスチャーで手招きをした。
「早く!こっちにいらっしゃいよ!」
羽鳥さんは、弘子さんと肩を並べてカウンター席へ向かった。
羽鳥さんは、去年の四月まで、ベッカライウグイスの従業員だった方である。ご近所の方で、長い間リスさんを支え、早朝からパンを作り、お店を盛り立ててきたのだが、ご主人の転勤について行かなければならない事情があり、その入れ替わりの人員として、私が就職したのであった。
羽鳥さんは、引っ越すぎりぎりまで、ベッカライウグイスに勤め続け、私にたくさんのことを教えてくれた。
羽鳥さんから受け継いだ、お店の床磨きは、私にとって、愛すべき重要な仕事の一つである。
リスさんが、新しいコーヒーを淹れはじめた匂いが漂い、羽鳥さんは、私を振り返って晴れやかに言った。
「三多さん!床、綺麗ね!」
「あぁ!羽鳥さん、ミタさんね、ほんとはサンタさんっていう読みだったのよ!」
リスさんが笑いながら声を掛け、私も快活に応えた。
「床磨き、教わった通り大事にしてます」
羽鳥さんは、何が何だか分からない様子で
「三多さん、サンタさんだったの?!」
と辺りに確認しだした。
雨による湿気と続いていた溜息が、強力な乾燥機で乾かされたように、羽鳥さんを囲んで和やかな時間が訪れた。
カランコロン
羽鳥さんは、家の片付けのために一度引き上げたが、夕方、お店が閉まる頃、再びやってきた。
「あら、みっちゃんもう帰っちゃった?みずほさんに会いたいなーと思って来たんだけど」
リスさんと私は、思わず顔を見合わせ口を噤んだ。
羽鳥さんは、まだ知らなかったのである。
「ん?……みずほさん、どうかしたの……?」
リスさんが、言いよどみながらカウンターを跳ね上げた。
「そうなの、羽鳥さん……。実は、みずほさんね、」
私は、コーヒーを淹れ、リスさんは羽鳥さんに事情を話した。
「……そうなの……。みっちゃん、見たときにおかしいな、とは思ったのよね」
「そんなに?」
「うーん、なんていうのか、すごくじゃないけど、格好や雰囲気が、ね、違うでしょ?」
リスさんと私は、カウンターでコーヒーを手に、顔を見合わせた。
毎日見ている人と、しばらくぶりに見る人とでは、気づく部分が違うのかもしれない。
庭の芝生にできた水溜まりに、雨はしとしとと音をたてて落ちた。
「みずほさん、今どうしてるの?知ってる?」
リスさんは、工場からスマートフォンを持ってくると、羽鳥さんに見せた。
みずほさんがSNSに上げる写真は、少しずつ増えていた。
染められた美しい反物、その絵柄、染められていく課程、先日は、綺麗な組紐も上がっていた。
「そう。みずほさん、とりあえずは元気なのね」
そう言って、羽鳥さんはリスさんにスマートフォンを返した。
羽鳥さんの柔和な表情が鳴りを潜め、少し辛そうにに眉を寄せたまま語り出した。
「みずほさんと私って、家が近いし年も近いじゃない?
ここへも、同じ頃に家を建てて引っ越してきたのよ。
知歌子さんの方が、私たちより少し先人で、色々教えてもらったの。それからのご縁。
知歌子さんはお店をやっていたから忙しかったけど、たまに三人で集まってデパートに行ったり、うちの子が小さかったから一緒に動物園に行ったり……色々話したものよ。
うちは、単身赴任も多かったから、みずほさんと知歌子さんがいてくれて、とっても心強かった。
でもね、みずほさんは、自分の悩みを話したりしない人だった。そういう人もいると思うし、私たちはみずほさんのことがよく分かっていたし、…………話してくれたら、とは思ったけど、みずほさんがそれでいいならって、悩みの部分では距離をとっていたのかもしれないわね。ずけずけと踏み込むのもって。ただ、いつでも三人が集まった時には、楽しい気持ちで楽しい時間を過ごそうって…………だから、みずほさんとみっちゃんがこうなるなんて。
みずほさんのことだから、急にこうなったわけじゃないと思うのよ?
きっと、長い時間の積み重ねだと思う。
…………もっと前から、みずほさんの話を聞いていれば良かったって、思うわ……」
羽鳥さんは、項垂れた。
コーヒーを持った手を膝の上に載せたまま、それをじっと見ていた。
リスさんが言った。
「みずほさんは、私にも何も言わなかったんです。……多分、みっちゃんのことを気にして。みっちゃんに知られないように、少しずつ計画して、実行して。
みっちゃんは、毎日ここへ来るから、羽鳥さんや私にも知られないようにしていたんだと思うんです……」
リスさんは、弘子さんたちがみずほさんの計画をすべて知っていたことを、羽鳥さんには話さなかった。
みずほさんには、みずほさんの理由がある。
リスさんは、この二か月あまりでそれを噛み砕きながら、飲み込んだ。みっちゃんは、まだ飲み込みきれてはいないだろうし、羽鳥さんはこれからになるのだろう。
「私は、近くにいられないから、リスちゃん、みずほさんのこと、何かあったら教えてね」
リスさんは、頷いた。
羽鳥さんは、私にも言い含めた。
「みっちゃん、一人になったことないから……大丈夫だとは思うけど、気を付けてあげてね」
私も頷いた。
雨は少しずつ降る量を加減していき、後からやってくる前線は、この街を少し逸れた。強く吹いた風が、鈍色の曇天を薄く削っていき、川縁を乾かした。
連休が終わると、羽鳥さんは再びご主人とともに、その赴任先へと帰って行った。
羽鳥さんに言われ、私は、出会った頃のみっちゃんを思い出しながら、今のみっちゃんと比べるようになった。
そして、みっちゃんの様子を注意深く見るようになった。
リスさんと私は、みずほさんがいなくなったショックから立ち直りつつ、みっちゃんの様子に気を付けてきたつもりではあった。
最初の頃は、さくらさんと弘子さんが、みっちゃんの家へ行き、困らない程度に食事を作ったり、あるいは食事に連れ出したと聞いていた。
それから、リスさんと私は話し合い、さすがに毎晩だとみっちゃんも負担に思うかも、と二日に一度、みっちゃんの家へ、夕食のおかずと朝食用の常備菜を届けるようになった。
それでも、よく見るとみっちゃんは痩せたように思う。
もともと体育の教師だったので、中肉中背ではあるものの筋肉質で均整の取れた体つきだった。
少し前までは、椅子に座るにしても背もたれが必要ないほどの筋力だった。胸を張って直立不動であるかに腰掛けたその後ろ姿は、優雅にさえ見えた。けれど今では、前屈みになり、両肘をカウンターのテーブルに据え、体を支えているように見える。
そしてそれは、みっちゃんの目に見える部分にすぎない。
みっちゃんがベッカライウグイスへやってこなくなってから、再びカウンター席に座るようになるまで、どんな葛藤があったのか私たちは誰も、みっちゃんの心の中を知らなかった。
みっちゃんは、まるで変わらない様子を装い、ベッカライウグイスにやってくる。
いつものように、カウンターの左端の席に腰掛け、コーヒーと好みのパンを愉しむ。庭を眺め、常連さんがやってくると気の置けない話をする。
けれどそれは、みずほさんが迎えに来るのを待っているようにしか見えない。
みっちゃんの日々は、すっかり虚ろになってしまったのだ。
そう知ったのは、一度は雨で流れ、予備日となっていたさくらさんの粘土探しツアーが目前に迫った夜だった。
リスさんと私は、いつものように夕食といくつかの常備菜を持って、みっちゃんの家を二人で訪ねた。
「こんばんはーみっちゃーん」
インターホンを鳴らしても応答がない。
ふと嫌な考えが頭を掠め、私たちは、慌ててみっちゃんの家へ駆け込んだ。玄関に鍵は掛っていなかった。
「みっちゃん!」
「みっちゃん!」
急いで靴を脱ぐと、上がりかまちへ上がり、時々お邪魔していたリビングのドアを開けた。
「みっちゃん!」
キッチンから、水の流れる音がした。
二人でそちらへ飛んで行くと、そこには、呆然として立ち尽くすみっちゃんの、後ろ姿があった。
「みっちゃん……?」
私たちは、みっちゃんの無事にとりあえずほっとすると、その隣へ並んだ。
みっちゃんの手元へ、水が勢いよく注がれていた。手元には、ザルに入った挽肉があった。それは、もはや色が変わっていた。みっちゃんは、挽肉を洗っていたのである。
「……みっちゃん……」
ザルに入れられた挽肉が、白くバラバラに、シンクにまで散らばっていた。
みっちゃんは、口を半分開け、放心したようにこちらを振り向いた。
リスさんは、水道を止め、すっかり冷たくなったみっちゃんの手を握り、ザルを離させた。
「……みっちゃん、ご飯持ってきたから一緒に食べましょう?」
リスさんは、みっちゃんをそのままソファへ連れて行き、タオルで手を拭いてあげた。私は、すっかり勝手知ったる状態になったみっちゃんの家のキッチンで、お味噌汁を温めたり、お皿を出して作ってきたものをよそったりして食事の準備を整えた。
リスさんに連れられ、食卓に座ったみっちゃんが、ぽつりと言った。
「みずほさんは、洗ってたんだ……」
リスさんが聞いた。
「……洗ってたって、挽肉を……?」
みっちゃんは、黙って頷くと、もそもそと食事をはじめた。私たち胸には疑念にも不信にもつかない気持ちが募り、食事も喉に通らなかった。




