小猿さん ②
パン屋さんに、五年ぶりにやってくるお客さんというのは、かなり珍しいだろう。
パン屋さんは、割に日常的なお店である。このご近所から、五年前にお引っ越しされた方なのだろうか。
いつもならば、仕事中には、よほどみっちゃんたちから勧められない限りは座ることのないカウンター席に、リスさんが自ら座って、おしゃべりをしている。とても珍しいことである。
小猿さん……。
リスさんが呼ぶお客さんの名前を、どこかで聞いた気もしたが、私は思い出せなかった。
二人は、仲のよいお爺さんと孫娘のように、時折低い声で、あるいは笑いながら話していた。
私は、リスさんと小猿さんに熱いコーヒーを運んだ。
「ありがとう、来春さん」
「こはるさんっていうの?」
小猿さんが、小さく福々しい顔を上げて、私を見た。薄くなった白髪が、綺麗にその輪郭に撫でつけられている。
「はい」
私は頷き、リスさんが言い添えた。
「名字は、三多さんなのよ」
小猿さんが、落ちくぼんだ目を見開いた。
「ここは、面白い名前の人の集会所かね?」
みっちゃんが横で吹き出し、私たちは笑った。
それから、小猿さんは、よっこいしょ、と立ち上がると、再び腰を伸ばした。反らされた胸ポケットに、「小猿製作所 小猿」とオレンジ色の刺繍があることに私は気づいた。
「いいかな?」
そう言うと、小猿さんが屈んで鞄を持ち上げようとしたので、リスさんがそれを代わりに持った。
「私、持ちますよ」
それから、リスさんは、レジのカウンターを跳ね上げ、小猿さんを店舗から工場へ案内した。リスさんと私以外、お店から工場へ入る人ははじめてだった。
リスさんは、小猿さんにいつも智翠さんが使っているスリッパを並べ、小猿さんはそれに履き替えると狭い辺りを見回した。
「久しぶりだねぇ」
小猿さんは、誰にともなくそう言うと、使い込まれた大きなガスオーブンへ歩み寄った。
近寄ったかと思うと、するり、とオーブンの後ろに回り、壁の間に作られていた窪みに入り込んだ。
それはまるで、小猿さんの体格に合わせてできたような、隙間だった。
私は、その様子を見て、やっと思い出した。
以前、リスさんが「小猿さんがオーブンを見たらびっくりする」と言っていた、その小猿さんなのだ。
小猿さんが入り込んだところを覗き込むと、ちんまりと両膝を寄せて座り込む姿が見えた。
そうして、オーブンの裏を、小さな螺子一つ見落とさないよう、胸ポケットから眼鏡とペンライトを出して、詳らかに見ていった。下部を見終わると、立ち上がって背伸びをし、顔をぎりぎりの位置まで近づける。
「小猿さん、熱くないですか?一時間くらい前まで火を入れてたから」
リスさんが心配そうに覗き込んで、自分でも裏の金属板に手を触れた。
「なぁに。熱くはないよ。こんなもんさ。それよりリスちゃん、綺麗に使っとるね。裏まで掃除されとるよ。油も溜まっとらんわ」
リスさんは、非常用の懐中電灯を持ってくると、小猿さんが少しでも見やすいようにと、隙間を照らした。
「小猿さんが、そろそろ来てくれる頃かと思っていたんです。それで」
そう言って、笑った。
小猿さんは、思い出したように、オーブン裏の陰の中から顔を上げて私たちを見た。
「昔は、リスちゃんが、ここへ一緒に入り込んでわしの仕事を見とったもんだけど、もうそうもいかないね。わしの方がずいぶんちっちゃくなってしまった」
リスさんが、屈んで、小猿さんに言った。
「ふふふ。小猿さんと一緒に仕事をしてる気になってました」
「かわいかったよ。昔も今も、背の大きさくらいしか変わっとらん」
「……私、小猿さんが来てくれるの、ずっと待ってたんですよ。いつかなぁって。前に来てくださったときに、次は五年後、って言われて、ほんとに五年後でしたね」
「五年は、大丈夫だからね。でも今見たら、もっといけたかな、と思ったよ。まぁ、中を見んことにははっきりと断言できんけどね」
小猿さんはそう言って、黒い鞄を自分の手元へずるずると引き寄せると、ファスナーを開けた。中には、古いがよく手入れのされた工具が、大小様々入っていた。
これは、重たいに違いない。小猿さんは前屈みになった背で、それを肩に掛けてやってきたのだ。
「昔の、人が自分の手で作った機械は、嘘はつかん。五年大丈夫だってことは分かる。まぁ、言ってみれば、それだけ造りが単純で頑丈だっていうことだ。今の機械みたいなちっちゃい基盤は使かっとらんからね。さて、中を見てみるとするかね」
小猿さんは、隙間の中で、よいこらしょと体の位置をずらしながら、あちこちの螺子を回し、オーブンの裏側の金属板を外してしまった。それを、そっとリスさんの方へ押しやる。リスさんは、受け取ると、壁に立てかけた。
後ろを開けた中が、どのようになっているのか、私の立っている場所からは見えなかったが、小猿さんが、顔を近づけ、舐めるように調べていく姿はよくわかった。
小猿さんは、時々、中に手を入れたり、首をまげたりして配線や排気口までを調べた。
それから、金属のブラシで、ガスバーナーの汚れを、上から下まで力強くこすり落としていった。
「ちょっと、中の雑巾とってもらえるかな」
小猿さんに言われたリスさんは、黒い鞄の中から汚れた布を取り出して小猿さんに渡した。
小猿さんは、その布で、めぼしいところを拭いては「ふっ」と息を掛け、汚れを払った。
「ほい」
用事が済むと、小猿さんは油っぽくなった雑巾を、リスさんに渡した。
リスさんは、それを小猿さんの鞄に入れ、自分は別の雑巾を持ってくると、壁に立てかけた金属板の拭き掃除をはじめた。
金属板には、いくら拭いても取れない染みが、あちこちに付いていた。
作業は、一時間も掛らなかった。
「よし。りすちゃん、それ」
「はい」
リスさんは、金属板を、小猿さんとオーブンの隙間に、ぎりぎり差し込んだ。
小猿さんは、それを螺子で締め上げた。
それからようやく、嵌まり込んでいた窪みから、背中をほんの少し離して、ずりずりと体を擦らせながら出てきた。
「ほおっ」
小猿さんが溜息を吐いて、また体を反らせた。
「リスちゃん、大事に使っとるわ。お母さんも喜んどるよ、間違いない。ただね、これは古いからね、バーナーに汚れが溜まりやすくなっとる。次は、二年後かな」
小猿さんは、リスさんから受け取った雑巾を、黒い鞄にしまいながら続けた。
「この型は、もう残り少ない。わしが見とるだけで、全国に15台しか残っとらん。現役で使われとるのは、もっと少ない。わしの工場も、ガスの型を作るのは、もうずいぶん前に止めてしまったわ。今は、みんな電気。だがね、わしは、パンも米も、ガスの方がおいしいと思っとるから、リスちゃん、これからもよろしく頼むね」
「はい。大事に使います」
小猿さんは、胸ポケットからボールペンを出すと言った。
「あ、リスちゃん、ちょっとシールとってくれんかね?」
また、屈み込んで鞄を探すのがたいへんなのだろう、と思った。
リスさんは、思い出したように笑った。
「シール!ふふふ。子どもの頃、小猿さんにねだって、たくさんもらったことありましたよね」
そう言いながら、小猿さんの鞄を覗いた。
「ポケットの中、見てごらん」
リスさんは、内ポケットのファスナーを開けた。
「これ!」
中には、点検済みと書かれた四角いシールの束が入っていた。
「私がもらったのと同じ!」
小猿さんは、笑いながらその用紙の一枚を受け取った。
そして、そこから一枚だけシールを剥がし、自分の指に貼り付けると、残りの用紙をリスさんに差し出した。
「これ、リスちゃんにあげとくわ」
リスさんは、大きく頷いて、それを受け取った。
「ありがとうございます」
小猿さんは、そんなリスさんに目を細めると、オーブンの隙間から手を入れて、近い位置にシールを貼った。そして、手を伸ばし、ボールペンで記入した。
「さ、これで五年分のメンテナンスは終わった」
小猿さんは、工場を出てお店へ戻ると、真っ直ぐ戸口に向かった。
リスさんは、慌ててショーケースを開け、パンを袋に詰めた。それを、小猿さんに渡した。
「小猿さん、来てもらえて本当によかったです。ありがとうございます」
小猿さんは、嬉しそうに袋を受け取った。
眉毛の奥の目が見開かれその瞳が
「こちらこそ、大事に使って貰って、ありがとうね。次は、もう来られんかもしれんけど、若いもんによく言って、教えとくよ。わしほど小柄なもんがいるとは限らんが、できるだけ小さいやつを見つけて、教えとく」
そう言いながら何度も頷いて、小猿さんは、口元の皺を引き延ばし、形のいい歯をみせると愉しげに笑った。
「うちのオーブンは、小猿さんがいいんです。シール、大事にとっておきますから、次も来てください」
リスさんは、真面目な顔で言い、小猿さんはその気持ちを理解しながらも本当のことを伝えた。
「そんなこと言ってくれると、また来たくなるけど、わしももう八十越えとるからね。大丈夫、心配せんと。若いもんによく言っておくから」
小猿さんは、ベッカライウグイスを、ゆっくりと見渡した。
「人間は、新陳代謝していくもんだ。古いもんは根こそぎ消えて、新しいもんが伸びてく。わしは、この皺もなくなって、古い機械も、やがて消えてく。でも、それをゴミくずだとは、けっして思わん。わしがこの機械を作ったことは、……リスちゃんも、覚えとってくれるだろう?それでいいんだよ」
リスさんは、泣きそうになりながら、白い封筒を小猿さんに渡した。
「小猿さん、ありがとうございます」
「悪いね」
小猿さんは、そう言って封筒を受け取ると、胸のポケットにしまった。
「もし、なにかあったら、うちに電話掛けて、連絡するんだよ」
「はい」
リスさんは頷いた。
「わしは、りすちゃんが子どもの頃、一緒にあそこに潜り込んで、わしと一緒にメンテナンスしてたこと、忘れんからね。シールを両手で持ってよろこんどった」
リスさんは、泣き笑いのような表情を浮かべて頷いた。
「私も、忘れません」
「じゃ」
小猿さんは、曲がった腰を精一杯伸ばすと、工具の入った重たい鞄を斜めに掛けた。
私たちは、小猿さんの姿が見えなくなるまで、お店の外で見送った。
小猿さんは、周りの風景に溶け込むように、小さく霞んで見えなくなった。




