小猿さん ①
リスさんと、私は、静かに待っていた。
春告げ鳥のように、背の高いお客さんが訪れるのを。
石竹を植えてくれると、去年の秋に約束した稗田さんである。
リスさんの予感は当たる。
去年も、リスさんが言ったとおり、雪虫と稗田さんは競うようにやってきた。
春の風が吹いた。
桜が息苦しいほど枝を埋め尽くしたあと、ゆるやかな風に乗って、小さな雲のように散り散りに離れた朝、リスさんは言った。
「そろそろ来てくれる頃ね」
その先をリスさんは言わなかった。私がもう分かっていると知っていたからだった。
私たちが、いつものようにカウンターで朝食を終えた時刻だった。
カランコロン
ベッカライウグイスの扉が音を立てて押され、扉の上枠にぶつからないようにと、頭を屈めて稗田さんがやってきた。
「おはよう」
「いらっしゃいませ」
「お待ちしてました」
「開店記念日には、鉢植えをありがとうございます」
リスさんと私は、揃って頭を下げた。
「元気にしてるかな」
稗田さんは、すぐにその鉢植えに目を留めると、歩んでいき、葉の様子を見た。
私は、すぐに稗田さんの席の準備を始めた。
稗田さんは、背が高い分、一歩がゆっくりとしていて大きい。ほんの2、3歩でショーケースの前へ戻ると、まるでそれを覆うように屈み込んで、パンを眺めた。
「ものすごくいい匂いだね」
「こちらに焼きたてもありますよ」
ベッカライウグイスでは、焼きたてはまだショーケースに入れず、木製のパン置き場に並べて粗熱を取る。リスさんは、稗田さんに焼きたてを勧めた。
「その、三つくっついたのは?」
「三食ぱんです。中は、伊予柑のジャムと、チーズと、カスタード」
「じゃあ、その、焼きたて三色ぱんをいただこうかな」
「はい」
リスさんは、木のトレイにパンを準備し、私は新しくコーヒーを落としたサーバーを持って稗田さんの元を訪れた。
「あれ?いつも付いてた?」
稗田さんは、私の襟に付いている小さなバゲットの形をしたブローチに目を留めた。
「開店記念日に、弘子さんとさくらさんからいただいたんです。リスさんは、ブレッツェルで」
稗田さんは、前から、みっちゃんたちと知り合いな様子だったので、私は弘子さんたちの名前を口にした。
「そう。いいね。素敵だ」
思いがけなく稗田さんに褒められ、私は小さな声でお礼を言った。
稗田さんは、注がれたコーヒーに、「ありがとう」と静かに言うと、再び庭へ目をやった。
リスさんは工場へ入った。私は焼き上がったパンを運んでパン置き場に並べたり、ショーケースへ移動したりとする。開店の時間には、できるだけたくさんの種類が並ぶように、リスさんと私は、細々とした仕事までをこなしていく。
時折、カウンターに目をやると、大きな嵌め殺しの窓に向かい、たった一人、稗田さんが庭を眺めている姿が、時間を閉じ込めたように見える。
腰掛けたその上背は、まるで小柄なリスさんの背丈と同じくらいだった。
稗田さんの心の中は分からないが、この半年間の庭の移ろいを回想しているるのかも知れない、そう思った。
ここを訪れない間、どのように季節に触れられたのか、太陽や雨水や風や雪にさらされて強く歩んだ庭を、稗田さんは愛おしく見つめている。
そして黙って、コーヒーを啜る。
小一時間ほど経ち、リスさんは、レジの下から踏み台と小さな看板を持ち出すと、外へ出た。
ベッカライウグイスの小さな看板が、深い黄緑色の壁に打ち付けられたフックに掛けられる。
開店の時間である。
ほどなくして、ほぼ同時にみっちゃんと古賀さんがやってきた。珍しいことである。
二人は、扉の前で挨拶をしたり譲り合ったりとなかなか入ってこなかったが、あれやこれやしながら結局、古賀さんに扉を押され、みっちゃんが先に顔を出した。
カランコロン
「こんにちは」
ベッカライウグイスの扉は、重たい。だが古賀さんは、みっちゃんが挟まれないようにしっかりと押していた。
「いらっしゃいませ」
リスさんと私は、ショーケースの奥から二人を迎えた。
みっちゃんは、すぐに稗田さんに気づくと、
「やぁ。こんにちは」
と挨拶をし、稗田さんも静かに頭を下げた。
「もう、そんな時期なんだね」
みっちゃんは、注文もそこそこに稗田さんの右隣に座ると、呟くように言った。
古賀さんは、相変わらずショーケースの前で短い至福の時を過ごした。
まるで、それが人生で一番の楽しみであるかのように吟味し、今日の一つを選ぶ。
にこにこと頬をパンのように膨らませた顔を上げ、リスさんに注文をする。
「今日は、三色ぱんをお願いします」
「はい」
「古賀さん、三食ぱんがお好きですよね?」
珍しくリスさんから尋ねられ、古賀さんの笑顔はいや増す。
「大好きです」
私は、離れたところから、二人をそっと見守った。
古賀さんは、ベッカライウグイスのカウンターに座る人には、誰にでも会釈をした。
稗田さんも、古賀さんに会釈を返す。
みっちゃんが、大好きなクリームパンを食べ、古賀さんは、持ってきた紙袋から、楽譜を出して見ている。時々、古賀さんのすっと伸びた上半身が揺れ、歌いそうになっているのが分かる。
大きな嵌め殺しの窓は、明るい午前の日差しに溢れていた。庭の若い春の風景に、そんな古賀さんの後ろ姿と、背の高い稗田さんの背中と、隅にいるみっちゃんの横顔がそれぞれの人生のひとときを浮かび上がらせた。
稗田さんは一番先に席を立つと、庭へ向かった。
駐車場の隅に停められた小さなトラックから、必要な物を降ろして作業を始める。
稗田さんは、プランターの土を広げた敷物の上にざっと出すと、篩に掛けてから新しい土と肥料とを足して混ぜた。
みっちゃんが、稗田さんの仕事をじっと見守っている。
古賀さんも、ふと楽譜から目を離し、窓の外へ視線を移した。
みっちゃんが、離れた席の古賀さんへ言った。
「土の匂いがここまでするみたいだね」
古賀さんは、みっちゃんに目尻の皺で応えて言った。
「そうですね」
稗田さんは、木の塀の下に、持って来た石竹の苗を移植していった。ほんの何輪か、咲き初めた桃色の花が見える。
それから、庭を移動して、球根から出た芽を、ひとつひとつ確認する。
最後に、大きな剪定ばさみで、シンパクとイチイの木をほんの少しだけ刈っていく。
リスさんが、みっちゃんと古賀さんにコーヒーのお代わりを注ぎに行き、三人でしばらく稗田さんを見守った。
カランコロン
稗田さんが戻ると、外の埃と土の混じった、懐かしい匂いが香った。
「ありがとうございます。石竹を植えてくださって」
「石竹、いいね。楽しみだよ」
「はい。私も楽しみです」
リスさんは、稗田さんに山ほどのパンを詰めた袋をお渡しした。
「ありがとうございます、稗田さん」
「こちらこそ、いつもたくさんありがとう」
そう言って、稗田さんはパンを受け取ると、私たちに尋ねた。
「秋には、何か植えたいものはある?」
リスさんと私は、あらかじめ次に植えたいものの相談をしていた。そこでリスさんは、
「ツルウメモドキを植えたいです」
「……ツルウメモドキ………その辺に絡まっているのを見たことがあるよ?」
つまり、わざわざ庭に植えなくても、ということなのだが、それでも私たちはベッカライウグイスの庭に、蔓が這い、黄色い実が弾けて中から赤い種が顔をのを見たかった。
「あの、木のフェンスに伝わせたら、きっと綺麗だなと思って」
稗田さんは、窓の外を見た。
「そうだね。じゃあ、そうしよう。植える前に、フェンスを塗っておくからね」
「ありがとうございます、助かります」
「じゃあ、また」
私たちは、稗田さんのお見送りのために、レジ横のカウンターを跳ね上げ、店内へ出た。
「ありがとうございます、稗田さん」
「どういたしまして」
稗田さんは、軽々とお店の扉を引いて、帰って行った。
庭木は、すっかり春の設えに変わり、温かな息を吹き込まれた。初夏を迎えるまでの間、移ろいながら、次々と開く植物の色彩で私たちとお客さんを愉しませてくれるだろう。
穏やかな時間が続き、お昼のお客さんの波が退くと、リスさんは、私に声を掛けた。
「切らしちゃったスパイスがあって、お夕食の買い出しと一緒にスーパーへ行ってきますね。来春さん、お店、おねがいします」
「はい。いってらっしゃい」
私が言う向こうで、古賀さんが急いで荷物をまとめだした。
「リスさん、僕も帰るんですけど、途中まで一緒に行きます!」
リスさんは、笑って快諾した。
「はい」
古賀さんは、さりげない風を装ってお会計を済ませると、仕事用の帽子を取ってバッグを肩に掛けたリスさんと並んでお店を出た。
カウンターから振り返ったみっちゃんが、言った。
「ラッキーだ」
私は、笑った。
古賀さんは、開店記念日のたまごで大当たりを引き当て、というかさくらさんから譲られ、掲示に名前を書かれた時からずっと、みっちゃんにそう呼ばれていた。
古賀さんは、知らないだろう。
ベッカライウグイス開店記念日の翌日に、飛行機を乗り継いでようやくここへたどり着いた夕刻、古賀さんは、リスさんに小さな包みを贈った。
それは、ごく薄いもので、さりげないお土産に見えた。
その後だった。
リスさんのお父さんの本棚に、見たことのないカードが飾られたのは。
リスさんのお父さんの本棚には、小さなお土産の品がたくさん飾られていた。人形や、提灯や、絵はがき。そこに、ひょっこりとそのカードは現われた。
私は、訳もなくカードに手を伸ばした。
裏を見ると、イタリアの修道院の名前が書かれていた。
古いフレスコ画が写されたカード。
そこには、ノアの箱舟に乗り込もうとしている、白いユニコーンの番いが描かれていた。
古賀さんだ、と思った。私は、そっとカードを元に戻し、このカードを送った意味と、この場所に飾られた意味を静かに思った。
二人は、どんな話をしながらスーパーに向かっているのかな。
私は、春がくつろいでいる、外の緩やかな風に何かを期待して、仕事に戻った。
カラッカラッカラン
不意に、入り口のベルが壊れたように揺れた。
みっちゃんが扉へ目をやり、私は急いでカウンターを跳ね上げるとそちらへ向かった。
重い扉を内側からゆっくり引くと、取っ手につかまっていた人が驚いたように、こちらを見上げた。
「おおっと」
小柄な、年配のお客さんだった。
「すみません、大丈夫ですか?突然開けてしまって、申し訳ありません」
私は、お客さんの様子を窺った。
「いや、大丈夫だよ」
私は、ほっと胸をなで下ろし、お客さんを中へ招いた。
「よかったです。どうぞ、いらっしゃいませ」
「ほほーぅ。久しぶりだね」
色褪せた作業服の下で、腰が僅かに曲がって見えた。
お客さんは、店内の空気を懐かしそうに吸い込むと、うーん、とその腰を反らせ、またもとの姿勢に戻った。それから、辺りをきょろきょろと見回した。
駐車場に車は止められていなかったから、近くのバス停か地下鉄の駅から歩いていらしたのだと思った。肩から斜めに提げた黒い鞄がとても重たそうで、私は内心心配になった。
だが、お客さんは、白髪交じりの豊かな眉毛を下げて、快活な笑顔を私に向けた。丸みのある輪郭に、たくさんの優しい皺が刻まれている。
楽しそうにショーケースを見ていた顔を上げ、注文した。
「今日はね、ウグイスあんパンにしておくね」
「はい。こちらでお召し上がりになりますか?」
「うん、そう。お願いね」
「コーヒーはいかがいたしましょう?」
「うん、お願いするよ」
お客さんはそう言うと、ゆっくりとカウンターへ歩んでいった。椅子を引き、どっかり腰を下ろすと、黒い鞄を床に置いた。それと同時に、なにか、とても固いものがたくさん折り重なった音が、響いた。鞄はとても使い込まれていて白っぽくも見え、床の上でくったりとその正体をなくした。
私は、ウグイスパンと熱いコーヒーを載せたトレイを、カウンターへ運んだ。
「お待たせいたしました」
お客さんは、おどけたように笑いながら私を見上げた。
「ちっとも待ってないよ」
そして、小柄な体をなお丸めるようにして、ウグイスパンを手に持った。
「いただきますね」
一口囓ると、綺麗な歯形がくっきりとパンに残った。
「知歌子さんのと、おんなじ味がするなぁ」
お客さんは、もぐもぐと、何度も何度もパンに歯形を付け、食べ続けた。ウグイスパンがその手からなくなった後は、ただじっと庭を眺めていた。
お客さんは、リスさんのお母さんの時代からのお客さんなのだ。
私は、時計を見上げた。古賀さんと一緒に出掛けた、リスさんのことが再び気になった。
間もなくだった。
カランコロン
「ただいま戻りました」
リスさんが帰ってきた。
工場用の帽子を被っていないので、リスの尻尾のような長い巻き毛が、春風を孕んで膨らんでいる。
「リスさん、お帰りなさい」
リスさんは、私に笑顔を見せながら、店内を確認する。
「あら……?」
リスさんの声に、そのお客さんは気づかない様子で、外を見ていた。耳の後ろに補聴器があった。
リスさんは、レジのカウンターに買い物袋を置くと、そっとそのお客さんに近づいた。
「……あの……もしかして、小猿さんじゃ……」
お客さんは、急に人の気配を感じて、ビクリと振り返ったが、すぐに破顔した。
「おや、リスちゃん」
「小猿さん!」
リスさんは、小猿さんと呼ぶお客さんの腕に、両手を置いた。
小猿さんは、しげしげとリスさんを見上げ、笑いながら言った。
「リスちゃん、大きくなったね!あぁ、さっきウグイスパンをいただいたんだけど、お母さんのと同じ味がしたよ。懐かしかった……」
「…………ありがとうございます。小猿さん、ほんとうに五年ぶりですね」
リスさんは、小猿さんの座っている場所に椅子を寄せ、腰掛けた。




