第100話:行ってらっしゃい。アオイ
新しく完成した『アリフィ商会』の事務所には、初夏の爽やかな朝日と、真新しい木と亜麻仁油の心地よい香りが満ちていた。
大きなアイランド型のデスクで、私は淹れたてのハーブティーの湯気を吸い込み、深く息を吐き出す。
「アオイさん! 色付きのスタンプを押すだけで報告できる、新しい帳簿の試作品ができました!」
フィナさんが、インクの匂いが残る羊皮紙と、色分けされた木製のスタンプを嬉しそうに持ってきた。
「素晴らしいです、フィナさん! 字が読めない依頼人でも直感的に使えるUI/UXの極致ですね。これなら記入漏れも起きません。今度、ギルドの冒険者の皆さんにテストプレイ(試用)してもらいましょう!」
私が大絶賛していると、入り口に鎮座するミスリル銀製の『ポス郎』が、「オキャクサマデス!」と元気な声で告げた。
扉を開けて入ってきたのは、私にとって異世界生活の「原点」である白鷺亭の女将・マルグリットさんをはじめとする、王都の商店やギルドの顔役たちだった。
「アオイちゃん。実は今日、あんたたちアリフィ商会に頼みがあって来たんだ」
マルグリットさんが、いつになく真剣な表情で私を見つめる。
「王都の復興と平和を祝う、大規模な『感謝祭』。……その総合プロデュース(総責任者)を、あんたたちに任せたいんだよ」
これまでの縁が結実した、街の全ステークホルダーからの共同依頼。
私はバインダーを胸に抱き、少しだけ震える声で「お任せください!」と深く頭を下げた。
*
そこからは、怒涛のような、それでいて信じられないほど充実した日々だった。
私は王都の地図を広げ、巨大なガントチャート(工程表)とクリティカルパスを引き直し、これまでに縁を結んだ仲間たちをフル動員した。
会場の設営はイリスさんとカグラさんの師弟コンビに一任し、夜のイルミネーション(魔導具照明)はゼノアから呼んだローガンさんとエリアンさんに発注。
若葉の剣のレオ君やカイト君たちには当日の巡回警備を、ラインハルトさん率いる騎士団には安全な交通整理(導線確保)を依頼した。
パン屋のボルクさんや果物屋のハンスさんも、屋台の目玉として新商品を開発してくれている。
完璧な分業体制。
一切の無駄を排したスケジューリング。
「いかなるイレギュラーも起き得ない、完璧なプロジェクトです。私、すっかり立派なプロマネですね」
祭りの前日の夕暮れ。見事に完成したメイン会場を見上げながら、私はリナさんとフィナさんに向かって誇らしく微笑んだ。
――しかし。
私の甘い見通しは、大自然の気まぐれによって、無残にも打ち砕かれることになる。
*
祭りの当日未明。
過去に例を見ないレベルの、天災クラスの異常な暴風雨が王都を直撃した。
「アオイ! メイン会場の装飾が吹き飛んで、足場の一部が崩れかかってる!」
ずぶ濡れで駆けつけてきたリナさんの報告に、私は血の気が引く思いで現場へ向かった。
横殴りの雨が頬を打ちつけ、視界は泥と水しぶきで最悪だった。
イリスさんが組んだ頑丈なはずの足場ですら強風で軋み、物流を担う馬車はぬかるみに足を取られて立ち往生している。
完璧に引いたはずのガントチャートは白紙となり、予定していたマニュアルは完全に崩壊していた。
(……ダメです)
現場の凄惨な状況を見た私の脳裏に、限界事務員としての冷徹な『ビジネスロジック』が弾き出された。
(これ以上の強行は無謀です。ここで無理に祭りを開催すれば、足場が倒壊して二次災害の危険があります。機材や食料の全損は免れず、王都と商会の信用も完全に失墜する。……ここはこれまでの労力を『サンクコスト(埋没費用)』と割り切り、『損切り(撤退)』して祭りを来年に延期するのが、最も被害を抑えられる『最適解』です!)
私は大きく息を吸い込み、冷たい雨の中で声を張り上げようとした。
「皆さん、危険です! 祭りは中止――」
――ビシィィィィィッ!!!
その瞬間。私の体内に備わったスキル『反復拒否』が、猛烈な勢いで起動した。
しかし、今回はいつものような「警告のエラー音」ではなかった。
(えっ!?うそでしょ!??)
私の体は自らの意思を完全に離れ、超高速で稼働した。
胸の前で両腕を力強く交差させて巨大なバツ印(✖)を作り、顔は一切の感情を排した冷徹な表情に固定される。そ
れはまるで、『これ以上の投資は無駄です、即時撤退を!』と無慈悲に宣告する、外資系ファンドのCEOのようなポーズだった。
(ぃぃっ! なんですかこのポーズは! ……いや、それより、《《スキルが『肯定』している……!?》》)
私は氷のような姿勢のまま、内心で戦慄した。
これまでのスキルは、私がブラック企業的な「間違った選択」をしようとした時に発動し、私を恥ずかしいポーズで戒めてきた。
だが今回は違う。「そうだ、それが最も正しい最適解だ。失敗して傷つく前に、無難に逃げろ」と、私の撤退判断を『大正解』として全力でアシストし、安全圏へ退避させようとしているのだ。
(そう……これが正しいんです。前世の私なら、絶対にこの道を選んでいました)
失敗して、怒られて、責任を負わされるのが怖かった。
だから、自分の心を守るためには「何もしないこと」「無難に逃げること」が一番安全だった。
しかし。
私の視界の先には、撤退の合図など微塵も待っていない仲間たちの姿があった。
「アオイ、まだやれるよ! 柱の補強、私に任せて!」
泥だらけになりながら、倒れかけた太い柱を長剣の柄と持ち前の筋力で必死に支えるリナさん。
「アオイさん! 私が風除けの結界を張りますから、諦めないで!」
ずぶ濡れになりながら杖を握りしめ、巨大な魔力障壁を展開しようとするフィナさん。
「きゅぅぅっ!!ボサッとすんな社長!!」
小さな体で資材のロープを咥え、泥だらけになって引っ張るギルさん。
イリスさんも、ローガンさんも、マルグリットさんも。誰一人として、この祭りを諦めてなどいなかった。
(……私には、もう)
私は、自分を「無難で安全な道」に縛り付けようとする、スキルの見えない拘束に抗った。
かつての私は一人だった。
ミスをすればすべて自分が被る綱渡りの毎日だった。
でも今は違う。
間違えても、転んでも。
一緒に泥だらけになってリカバリーしてくれる、最高のセーフティーネット(仲間たち)が、目の前にいるのだ。
「……ふざけ、ないで、ください……っ!」
ギリギリと骨が鳴るような感覚。
逆らえなかったスキルの強制力を、私は全身の筋肉と、魂の底から湧き上がる精神力を振り絞って、物理的に押し除けようともがいた。
「効率や、最適解がなんだっていうんですか! 失敗したっていい……私が、私たちが全員で修正します! それが『なんでも屋』の仕事です!!」
パリンッ!!!
私の中で、私自身を縛り続けていた「絶対に失敗できない呪い」が、確かに砕け散る音がした。
交差していた腕を力任せに振り解き、私は泥水の中に自ら力強く一歩を踏み出した。
「イリスさん、足場は安全第一で即席の補強を! フィナさんとローガンさんは結界魔法と防壁の魔導具で雨除けのキャノピーを形成! 若葉の剣の皆さんとリナさんは、物資のピストン輸送をお願いします! 現場の判断で動いてください!」
私は指揮棒を捨て、自ら泥水の中に飛び込んで現場を走り回った。倒れた資材を運び、濡れた幌を張り直す。
完璧な計画は崩れ去った。
だが、皆の『感覚』と『絆』という属人的な力が、奇跡的な連携を生み出していく。
「おうっ! アオイがそう言うなら、やってやろうじゃねえか!」
イリスさんが泥だらけで笑い、職人たちが一斉に吠える。
数時間後。
嵐が嘘のように去り、雲の隙間から眩しい青空が顔を覗かせた。
少し不格好で、泥の跡が残るメイン会場。
だがそこには、完璧なマニュアル以上の熱気と、作り上げた人々の体温が宿っていた。
王都の人々の熱狂的な大歓声に包まれ、私たちアリフィ商会の集大成である『感謝祭』は、これまでで一番の笑顔と共に幕を開けたのだった。
*
祭りの翌日の午後。
いつもの新事務所で、私は経理の書類を整理していた。
祭りの疲労がまだ少し残っていたのだろう。
私はうっかり手を滑らせ、机の上のインク瓶をパタンと倒してしまった。
黒いインクが、真っ白な羊皮紙にじわっと広がっていく。
「あっ……!」
私はビクッと肩をすくめ、目を閉じてスキルの発動(強制停止)を待った。
……しかし、何も起きない。
筋肉は硬直せず、頭の中の警告音も完全に鳴りを潜めていた。
「あーあ、アオイさん、間違えちゃいましたね」
向かいの席から、フィナさんがクスクスと笑いながら新しい羊皮紙と色付きスタンプの帳簿を持ってくる。
「大丈夫、大丈夫! 私が雑巾で拭くの手伝うよ!」
リナさんが元気よく走ってきて、ササッと手際よく机を拭いてくれる。
「やれやれ、手のかかる社長だ。仕方ねえな」
ギルさんが渋い声で呆れたようにため息をつきつつ、乾いた布を咥えて私の足元に持ってきてくれた。
私は、インクで少し汚れた自分の手を見つめた。
窓から吹き込む初夏の風が、温かいカモミールティーの香りと、インクの匂いを優しく揺らしている。
私はふわりと、心からの笑顔を浮かべた。
「ええ。……ごめんなさい。これからは、たくさん失敗して、みんなで直していきましょう」
私はもう、失敗できない限界事務員ではない。
大切な仲間たちと共に、この愛おしい異世界で、等身大の私として生きていくのだ。
*
――視界を覆う、淡い乳白色の靄。
上も下もない、何もない静かな空間で、二つの気配が柔らかく揺れた。
「あの子、ついに手放したわね」
「ああ。我々が与えた『失敗しないという安全な枷』を、自らの意志でな」
「ええ。最初はあんなに間違えることを恐れて、震えていたのに。まさか、誰かを守るために自ら『失敗するかもしれない道』を選ぶようになるなんて」
「今の彼女には、もうあのスキルは必要ないのだろう。間違えて転んだとしても、一緒に泥だらけになって直してくれる仲間たちがいるのだから」
「ふふっ。本当に、立派な『道標』になったわね」
「ああ。……だが、あの彼女の抑圧された本心が爆発した奇抜なポーズ、もう見られないかと思うと少し寂しい気もするがな」
「もう、あなたってば。本人は最後までクレームを入れて嫌がっていたじゃない」
「ははは、そうだったな」
靄が少しずつ晴れ、遠くに温かな光が見え始める。
「……ねえ」
「なんだい」
「あの子、今すごく幸せそうよ。もう二度と、一人で自分を責めたりなんかしないわ」
「ああ。これからは何かに縛られることなく、彼女自身の足で歩いていけるさ」
「ええ。たくさん間違えて、たくさん笑って。……行ってらっしゃい、アオイ」
「ああ。君の、新しくて愛おしい日常へ」
光の向こうから聞こえる賑やかな笑い声に、二つの気配は優しく微笑み、そして静かに溶けて消えていった。
『魔女のバインダー』を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
「失敗しない方法」を探し続けることは、きっと悪いことではありません。
私たちは誰だって、怒られたくないし、迷惑をかけたくないし、できることなら転びたくないから。
でも、この物語を書きながら、私自身が一番感じたのは――
【人は、失敗しなくなることで強くなるのではなく、失敗しても立ち上がれることで強くなる】
そんな当たり前のようで、忘れがちなことでした。
アオイは最後に「失敗してもいい」と思えたわけではありません。
「失敗しても、一緒に直してくれる人がいる」と知ったから、一歩踏み出せるようになったのです。
現実は、小説ほど都合よくはいかないかもしれません。
それでも、もし今日うまくいかなかったことがあったなら、どうか思い出してください。
インクはこぼれても拭けばいい。
帳簿は書き直せばいい。
そして人生も、案外そんなふうにできています。
明日のあなたが少しだけ肩の力を抜いて笑えたなら、この物語はきっと役目を果たせたのでしょう。
それではまた、どこか別の物語で。
本当に、ありがとうございました。
「失敗は、終わりではない。誰かと笑いながら直せたその日、それは『思い出』になる。」




