VS暴力団!・・・それぞれの思惑
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それから数日間は何事もなく過ぎた。毎日二時の入金もなんとかこなし、ゴールデンウィーク明けの忙しさも一段落といったところだった。
とことん言い争ったと聞いていたが、坂井課長と飯田は、少なくとも表面上は穏やかな雰囲気で、必要なとき必要な事をキチンと話していた。そういうところが、良くも悪くも「大人」というものなのだろう。
そういえばオマケのような事だが、この数日間でミコトはおっとり不思議系お嬢さまの正体を知り、見る目が変わりつつあった。見た目のポヤンとした印象とは180度違って、上条ありさはかなりの切れ者で、しかも情報収集の達人だったのだ。まあ、その「情報」というのが、ミコトにとってはほとんど不要のものばかりだったが。
「○○課の△△さんと※※課長が不倫してるのよ!」などなど。
午後二時、銀行のお客様フロアでソファにもたれて居眠りをしているミコトに向かって、上条ありさが話しかけた。
「ちょっとミコりん、知ってた?」
どうやらミコトの呼び名は「ミコりん」に落ち着いたようだった。
「なに?」眠たげに片目だけを開けてありさを見たミコトに、彼女は久々の特ダネを吹き込んだ。
「私たち、夏に異動になるらしいよ」
「ええ?」まさに、寝耳に水とはこの事だ。
春に今の事業所に配属になったばかりで、もう夏に転勤とは、一体どういう事なのだろう。しかめっ面で眉根を寄せるミコトに、ありさは説明した。
「本店の方針でね、大学卒の新入社員を対象に幹部候補を育てるべく、教育が施されるんだって。私たち、三ヶ月間接客業務をやったら、次の三ヶ月は支店の管理部門に行くらしいよ」
「なんで? せっかく仕事に慣れて、これからって時に?」
聞かなきゃ良かったと思った。
―――お前はまだ新人だ。有名一流大学卒で、将来もある。
「ちくしょー!」
ミコトは飯田の言葉を噛みしめた。彼がこの情報を知っていたとは思えないが、ミコトと自分の立場は違うのだと飯田は初めから承知していたのだろう。こんなに早く居なくなるとは思っていなかったにしても、ミコトにはいずれ上に行くルートが開かれているという事を、暗に示唆していたのだ。
「だからって、オレのぶんまで失敗の尻拭いをする必要は無いのに」
ミコトは銀行の壁にかかったカレンダーを見た。七月初旬の異動シーズンまでは、残す所一ヶ月半。サラリーマンゆえのつらい所で、人事異動を覆すことは出来ない。せめて、自分の失敗だけは やはり自分の手で片付けなければ、社会人として納得がいかない。ミコトはぎゅっと拳を握り締めた。
銀行から帰って、自分のフロアに入ってゆくと、集金担当の社員が全員そろって坂井課長の席を囲んでいた。ただ一人、背の高い飯田の姿が見えない。なにやら不穏な空気が漂っていた。
そろそろと自席に座って様子を伺うミコトに、背後から女性の声がささやいた。
「タクミ商会、とうとう不渡り確定したわよ」
振り向くと、デスクの陰に隠れるようにして露崎がしゃがんでミコトを見上げていた。
ミコトは腕時計の日付を確認した。
「それで、あの騒ぎ?」チラリと課長の席に目をやるミコトに、目だけで頷いて、露崎が早口に言った。
「それで、飯田が飛び出していって……たぶん、女社長のところだと思うけど。後を追いかけようとした岩佐を課長が引き留めた為にあの騒ぎ」
「ええっ? 飯田さんを一人で行かせたんですか?」
信じられない、と声を上ずらせるミコトを、シーと黙らせて、露崎が聞き耳を立てた。
「予告も済んでいるのですから、即、停止するべきです!」珍しく岩佐が食い下がっていた。黙っている坂井に対して、さらに言い募る。
「とにかく、アイツを放っておくわけにはいきません。連れ戻して来ます」
「落ち着きなさい、岩佐くん。一緒に行って、キミにも何かあったらどうする気だ」チェックのハンカチで、額の汗を拭きながら坂井がもそもそと言う。
「じゃあ飯田なら何があってもいいんですか?」岩佐が声を張り上げた。
「そうじゃないが、飯田はあの女社長と懇意にしている。アイツならたぶん……」
曖昧に語尾を濁す坂井に、とうとう岩佐は遠慮の無い言い方になって怒鳴った。
「課長は何もわかっていない! この前、領収書を回収しようとして、飯田と篠原がタクミ商会の事務所に軟禁されたんだぞ!」
「ええっ!」坂井の小さな目が大きく見開かれた。
「それに、飯田の足。アイツ、現場でドーベルマンに噛まれたのに、労災申請しなかったのは、どうせ言ったって課長は自分の事を部下だと思ってないからって……」
坂井は口をつぐんだまま、岩佐の顔を見詰めているようだった。しかし、その小さな目は何か違うものを見ているような感じだった。
「あの、勘違いしないでください。飯田がそんな事、口に出したわけではありません。でも、はたから見ていてわかりますよ。アイツは確かに勝手な事をしすぎるし、手に負えないくらい態度も最悪です。でも、彼は……」
岩佐は一瞬、躊躇うかのように言葉を飲み込んで、やがて静かな声で言った。
「すでに辞表を出しているからって、今月いっぱいはあなたの部下なんですよ」
「じ、辞表!」
ミコトは思わず大声を上げて立ち上がった。
課長の周りに集まっていた社員たちは、一瞬ミコトのほうを振り返ったが、すぐに岩佐と課長のほうに注意を戻した。
「もう一度言います。即、停止作業を配電の作業グループへ要請してください。予告をしたのに止めなければ、ナメられるだけだ。それに、すでにバカにされているも同然の情報を飯田から聞いたでしょう」
ミコトは露崎の方を振り向いた。
「飯田さんの情報って?」
「駅前に新しくタクミ商会のパチンコ店がオープンするのよ。新店舗をオープンする金は有るのに、電気代を払わないんじゃ、どうせ強行手段など有りはしないって、バカにされてるようなものでしょ」
それはそうだが……。
「でも、どうして配電の作業グループが関係あるんですか?」
何も知らないのね、と半ば呆れたように露崎はため息をついた。
「工場や業務用のビルなんかは、家庭用の百や二百ボルトの電気と違って六千ボルトで供給されているの。そんなのをむやみに引っこ抜くわけにいかないでしょうが!」
「あ、そうか」
その場合の送電停止は開閉器作業といって、おおもとの設備の部分から遮断する方法を用いる事が多い。その開閉器を扱う為には特別な資格が必要で、配電課の作業員に限られているのだ。
「配電課長がOKするとは思えない。K市の事業所の停止作業時のトラブルはまだ記憶に新しいし、この間、うちの事業所の若い作業員が殴られた件もある。配電課の作業担当者たちも、予定されていない作業などに協力する気はないだろう」
薄くなった髪の間に汗の粒を浮かせて、坂井はハンカチを握りしめたまま言った。
「それを何とかするのが課長の仕事でしょう!」
声のトーンを上げその言葉を言ったのは、岩佐ではなく、なんといつも冷静な島だった。
「今回ばかりはボクも岩佐と同意見です。たとえK事業所と同じく流血沙汰になっても、やるべき事はやらないと」
ミコトは目をパチクリさせて相撲取りのような島を見詰めた。露崎が、ミコトの背後でクスッと笑ってつぶやいた。
「面白くなってきた」
詰め寄る部下に囲まれて、坂井が無意識に額の汗を拭ったとき、荒々しい足音を響かせて飯田が帰ってきた。
「飯田! 大丈夫だったのか!」
興奮状態で顔を真っ赤にして駆け寄った岩佐に、飯田は吐き捨てるように言った。
「あの女、留守だった。ひょっとすると事務所も移転するつもりかもしれない」
「どういうことだ?」島が聞き返すと、飯田が難しい顔で言った。
「あたらしくオープンするパチンコ店、グランドホールの登記簿は、タクミ商会ではなかった。ただ、あの女の名前は出てたから、名前を変えてまた新規で契約を興すつもりだ」
「なぜ、そんなことを?」他の男子社員が尋ねた。
「タクミ商会の名前は、大抵の取引先のブラックリストに載ってる。だけど、新しい店舗は別物よ、とでも言いたいんだろう。よくある手だ」
島が坂井に向き直って言った。
「もはや考えている時間はありませんよ。早速パチンコ屋の電気、止めましょう」
え? と言う顔で島を見た飯田に、岩佐が笑いかけた。
「料金課の担当者の意見は、今島さんが言ったとおりにまとまってる。お前、一人で頑張らなくていいんだからな」
自分が居ない間に、妙な風向きになっており、飯田は何と言ってよいかわからない様子でメンバー全員をぐるりと見渡した。
「ダメもとで、配電課に行って来る」
すっかり蚊帳の外の坂井課長が、観念したように、ようやく重い腰を上げたときには、午後四時を回っていた。
坂井について、島と岩佐が配電課長のところに行ってしまうと、ミコトは飯田のそばに駆け寄った。
「飯田さん、あの……」声をかけたものの、何からしゃべればいいのかわからない。
こめかみに汗の粒を浮かべて蒼ざめるミコトに、飯田は思いがけず優しく返事をした。
「なんだよ、泣きそうじゃねぇか。……にしても、みんなどうしちまったんだ? 島さんなんか、見たこともないくらい熱くなってさ」
「あんたの仕事に対する熱意に、みんな心を動かされたんじゃないの?」
露崎がからかうように笑いを含んだ声で言った。
「なんだそりゃ?」肩をすくめる飯田に、ミコトは涙目で言った。
「責任をとって、辞表を提出したって、嘘ですよね?」
飯田は切れ長の瞳を大きく見開いたが、何も言わずクルリと背を向けると、自席に戻って分厚いファイルをめくり始めた。
メガネを外して目元を拭っているミコトに、露崎がささやいた。
「さあて、これからよ。夕方のパチンコ屋の電気を止めるなんて事、本当にあの腰抜け課長どもに出来るのかしらね」
いつの間にそばに来ていたのか、酒場が楽しそうに言った。
「営業妨害だとか言って、ひどい事にならなきゃいいね。そういう場合、パチンコ屋としては、お客さんになんて言い訳するのかしら?」
酒場の言葉に、ミコトは頭の中で何かがひらめいた。こんな自分にも、飯田の為に出来る事があるかもしれない!
「露崎さん、ボクちょっと現場行ってきます!」
あっけに取られている露崎と酒場に見送られ、ミコトは勢い良くフロアを飛び出して行った。
一階の配電課フロアでは、課長同士がもめにもめていた。
「部下の安全が保証されない限り、うちの作業員は現場には行かせない」
ハゲ頭から湯気を噴かんばかりに、配電課長は声を荒げた。
「ですから、Y警察署のかたも、任意で立ち会ってくれるって事になったんですよ」
一方、温厚そうな坂井課長も、今回は一歩も引かない様子だった。部下の手前、二人とも引くに引けない微妙な均衡状態が続く。坂井の広くなった額に脂汗が浮き始めた。配電課長が脅すように声を低くして言った。
「相手は暴力団なんだぞ。おまわりさんが一人来てくれたからって、刃物や拳銃でも出されたら、それこそ死人が出るぞ!」
「作業員の安全は、出来る限りうちの部下がフォローしますから、時間が無いんですよ。お願いします」そう言いながら、坂井はがっくりと跪いた。激しい動悸と眩暈を感じて、立って居られなくなったのだ。
急に周囲がざわついた。
坂井は、この間の健康診断で、生活習慣病に要注意という結果が返ってきていたことを思い出した。
血圧か? 血糖値か? 体脂肪もかなり危険なラインだったが……。
彼は両膝をつき、四つん這いになって自分を支えた。こめかみに脂汗がひと筋流れる。息苦しさに胸を喘がせながら、これも、すべてあの飯田のせいなのだ! そう思って、怒りに唇を震わせて、じっと倒れそうな体を堪えていると、突然雲行きが変わった。
「配電課長、ボクが現場に行って、開閉器操作をやります。仕事の為に、こんなに一生懸命に頭を下げる管理職の姿を、ボクは初めて見ました」
配電課の野口だった。
「野口、おまえ、やってくれるのか?」
親友の岩佐が、感激したように野口を見詰めた。
すると、野口の一言に心を動かされた配電課の別の作業員たちも、協力すると申し出てきたのだ。
岩佐が坂井の隣にかがみこんだ。岩佐は坂井の腕を支えて立ち上がらせると言った。
「坂井課長、あなたは素晴らしい上司です。他係にも影響を与えるなんて。課長、さあ立ってください!」岩佐の目が潤んでいる。
「え? あ、いやその……」
坂井は、事の成り行きに呆然となった。彼の筋書きでは、ここはとりあえず交渉したが、配電課に拒否されたため停止は出来なかった、という事になるはずだったのだ。だいたいが、暴力団と面と向かって事を構えるなど、坂井のスタイルではない。
第一、危ないじゃないか! 常識で考えろ、これは茶番なのだから!
すがるように見詰める坂井の眼差しの意味を、完全に勘違いした配電課長は、ため息と共に大きく頷いた。
「坂井くんには負けたよ。うちの作業員の安全を保障してくれるのなら、今日これからパチンコ屋を止めに行こうじゃないか」
坂井は再びヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。




