波紋
*
ゴールデンウィーク明けは業務が忙しい。
パソコンの業務画面にはいつも目にする倍以上の未払い客がリストアップされている。「五月病」などになっている暇はないな、とミコトは思った。
忙しい事は忙しいが、今日は朝から良いことが二つあった。ひとつは例の小学生、『ミズサワ カナ』ちゃん。彼女の家に近い現場を回っていると、「いってきま~す!」の声と共に元気に飛び出してゆく後姿を見かけた。未納金も支払い済みになっていたから、親が帰ってきたのだろう。あとで飯田に報告しなくては。もうひとつは、あの「被害妄想の変人」こと『カネモチ フク』がミコトに支払いをしてくれたのだ。さらに、老婆はどういう風の吹き回しか、庭でとれたという大量のビワまでおみやげに持たせてくれたのだった。
「ネコフンも今日は撒いてなかったし、とにかく良かった」
上機嫌でフロアに戻ると、坂井課長の席の周りを、他係の人間がぐるりと囲んでいた。
紺色のつなぎの作業服は配電課の作業グループの制服だ。配電課は、実際に電柱に登って変圧器や電線を扱ったりする部署のことだ。電流を流したままの活線作業は、感電死亡事故と背中合わせの危険な作業である。ミコトのいるこの事業所では扱っていないが、六万六千ボルトの高圧電流が流れる送電線の担当部署は、その作業環境が地上数十メートルの上空なのだ。高所恐怖症のミコトには、考えられない仕事をしている、といつも思う。
「高所作業車で電柱に取り付けられてるトランス(変圧器)を交換してたら、マンションの住人が「のぞき」だって苦情を言ってきて、うちの若いモンが殴られた」
配電課で一番偉い配電課長が呻るように言った。飲み会の席で、ミコトを捕まえて散々ビールを飲ませたハゲオヤジだった。あの時はただの酔っ払いだったが、今は威厳たっぷりで、そのうえ日焼けしていて迫力満点だ。
「それで、どうしてうちの係にそんな話をしに来たのです?」
坂井課長が、意味がわからないという顔で問い返す。
「殴った若い男は、ガラの悪いヤツでね。ソイツがこう言ったらしい」
配電課長は坂井課長をギロリと睨むと言った。
「文句があるなら、集金員の飯田に言えって」
「ええ?」坂井は眉をひそめた。
飯田の名前が出て、ミコトは思わずビワの入った袋を取り落としてしまった。ころころと転がっていくオレンジの果実を拾い集めるフリで、ミコトは坂井課長の席近くににじり寄った。
左目のふちを赤く腫らしている若い作業員が言った。
「最初は部屋をのぞいたの何のって、文句をつけていたんですが、そのうち、飯田って知ってるかって話になって……」
バタンと派手な音を立てて、ドアが開いた。半長靴の足音も高らかに、飯田が入ってきた。咥えタバコかと思いきや、彼は棒付きキャンディーをしゃぶっている。
坂井の小さな目が吊り上がった。
「飯田くん、ちょっと!」
オレ、忙しいんですけど……と、面倒くさそうに言って、そばに歩いて来た飯田の口から、坂井は棒付きキャンディーを取り上げた。
「あ……」と言って、飯田は自分を囲むように詰め寄る他係の人間をぐるりと見回した。
「オレに何の用っすか?」
飯田はへらりと笑って、長い前髪をかき上げた。ミコトはハラハラしながら見守った。
ふと背後を振り返ると、岩佐以外の全員が、わくわくした表情で見詰めている。ミコトはとても不愉快な気持ちになった。
「おまえのせいで、殴られたんだ」
若い作業員が飯田を睨みながら言った。
飯田はキョトンとして、作業員を見詰めた。
「二丁目のレンガ色のマンションの住人だ。『タクミ商会』って言えばわかるって言ってたぞ。おまえ、何やってんだよ!」
ミコトはハッとしてビワをつかんだまま動きを止めた。
『タクミ商会』……それはミコトが先日 先付け小切手をもらってしまった暴力団だ。田村という名前のこわもてに、羽交い絞めにされた恐怖は、今でも時々夢に出てきたりする。あの時軟禁された事を、飯田は上司に報告してなかったのだろうか? いや、ひょっとして、先付け小切手の事も黙っているのでは?
ミコトは嫌な予感がした。
「ああ……あのヘタレ暴力団ね。別に何もしてねえよ。ただ、今朝いちばんで、送電停止予告の紙、手渡してきたけどな」
「それだけで殴るかよっ。フツー!」怒りを露わにする作業員に、飯田がしれっとして言った。
「あそこのマンションは女社長とその愛人が住んでる。オレよりはイケてねぇけど、そいつ、なかなかいい男だったろ?」
意味がわからず、作業員は目をぱちくりさせる。飯田が言った。
「オレのせいだとか言って、ホントにのぞいてたんじゃねぇの? オ・マ・エ」
作業員の顔が真っ赤になった。一緒に来ていた配電課長も、飯田がわざとからかうような事を言ったのだと気付いたらしかった。さすがにヤバイと思ったのか、坂井課長が揉み手をせんばかりに笑みを浮かべて、飯田を自分の背後に押しやった。
「停止予告は、飯田の与えられた業務です。それについてお客様にやめろと文句をつけられても、こちらも困ってしまいます。情報を、……暴力団関係の情報を流さなかったのは、うちの落ち度ですけど……でも」
「うちだって、ただ殴られてきたわけじゃない!」配電課長は難しい顔で声を荒げた。
首をかしげる坂井に、配電課長は言った。
「支払い済みの領収証を見せられて、払ったにもかかわらず、電気を止めるつもりかって怒鳴られたそうだ」
坂井の温厚そうな顔が一気にこわばった。
「申し訳ないが……」坂井は苦しげな表情で、絞り出すように言った。
「事実関係を確認させてくれないか」
配電課の作業員たちは、ぞろぞろと課長の後について無言で料金課のフロアを出て行った。彼らが居なくなると、坂井は飯田を振り返った。
「飯田くん、ちょっと食堂へ行って、二人でコーヒーを飲もうじゃないか」
飯田はじっと坂井の小さな目を見詰めていたが、やがて「へーい、ごちそうになります」と言って彼についてフロアを出て行った。
島をはじめとする、反・飯田勢力の面々は、面白そうにヒソヒソと何かをささやきあっては声を殺して笑った。
ミコトは蒼白な顔で立ち尽くしていた。
自分の冒した失敗が、今頃になって大きな波紋を広げている。
血の気の無い顔で、ふらふらと料金課のフロアを出て行こうとするミコトの腕を、誰かがつかんだ。
「どこに行くつもり?」
振り返ると露崎めぐみが立っていた。
「食事にはまだちょっと時間、早いよ」
後から歩いて来た酒場ちづるがのほほんと言った。
出鼻をくじかれ、唇を噛みしめているミコトに、露崎が言った。
「もう、あんたの出る幕じゃあないよ。キチンと上に報告をしていなかった、飯田の責任だ」
「でも……」言い淀むミコトの肩をポンと叩いて、酒場が言った。
「ここが飯田くんの……いや、坂井課長と飯田くんの正念場だよ」
「え?」ミコトは怪訝そうに酒場を見た。この二人も、もしかして反・飯田派だったのか?
「みんな、見てるよ……」露崎が低い声で言う。
ミコトは周りを見回した。誰も見ていない。みんな机に向かって仕事をしている。なんだか薄気味悪くなり、もの問いたげな表情を浮かべていると、酒場が、これまた低い声で言った。
「そう……こういう場面にこそ、新課長の力量がわかるってもんだよ。それから、飯田くんの実力もね。元・課長、石塚さんが、何故あんなに早く出世できたのか、坂井さんは石塚さんのようにうまく飯田を使えるのか……みんな、見てるんだよ」
怖い! と思った。
組織の中で、上に立つ者に向けられる目は厳しい。無能と知れれば、即座に部下は離れてゆく。
ミコトは軟禁されたときの飯田の落ち着き払った態度を思い出した。暴力団相手に彼は言った。
―――当社は規定どおりに手続きを進めさせていただきます。
ミコトが小切手を受け取ってしまった為に、事実上小切手の日付まで延伸したわけだが、電気を止めるためには必ず踏まなくてはならない手続きがある。督促状を送ったり、予告状を手渡ししたり。
「飯田さんは、小切手が不渡りになったらすぐに電気を止められるように手続きをしているのか」
ミコトの言葉に、露崎は頷いたが、茶色く描いた眉をちょっとひそめた。
「でも、本当は払ってないとはいえ、領収書を持っている人に対して、督促状や予告状を置いてくるのは、マズイよね。」
「飯田くん、何か勝算があるのかなあ?」酒場も首をかしげた。
「パチンコしてて、フィーバー中に電気切れたら、露崎さんはどうします?」
ミコトの問いかけに、そうね……と、露崎は赤い唇の端を上げた。
「パチンコ屋の店長を殴り倒して、それから帝都電力を訴える」
なんだか露崎が、あの女社長に見えてきて、ミコトは眩暈を感じた。
冗談よ! と笑う酒場の声など耳に入らず、ミコトは放心状態で自分の席に戻って行った。
何だか胃のあたりが重かった。
昼休みだというのに、ミコトは昼食も取らずにふらふらと屋上への階段を上って行った。
外の風に当たろうと思い、重い鉄扉を開けると、眩しい五月の日差しに目が眩んだ。
手をかざしてぐるりと屋上を見渡すと、日当たりの良いフェンスを背にして男性が胡坐を掻いている。紺のつなぎの作業服は、配電課の人間だ。
男性はミコトのほうを振り向いて、気弱そうな笑みを浮かべ、ちょこっと会釈した。
ミコトも黙って頭を下げる。
男性の胸には黄色の縫いとりで『野口』とネームが入っていた。
配電課の野口は、料金課の先輩で入社五年目の岩佐と同期だ。二人は結構仲が良く、一緒にいるところを何度も見かけた。
野口は手にしたボロ布で、作業員用の黒革の半長靴を手入れしていた。彼のまわりには、感電防止の施された作業用手袋やヘルメット、工具一式が広げられている。日向ぼっこで靴磨きとは、少々変わっているなと思った。
ミコトが突っ立ったまま興味深げに眺めていると、野口がチラリとこちらを見て言った。
「キミも作業靴、手入れしたほうがいいよ。泥だらけだ」
ミコトは自分の足元を見た。運動靴はネコフンを踏んで以来履いていない。ミコトの足元も、野口と同じ作業員用の黒革の半長靴だった。野口は余ったボロ布をミコトに放り投げた。
「あ……ありがと、ございます」
ミコトは野口の隣に腰を下ろすと、靴を脱いで乾いた泥をボロ布を使ってこそげ落とした。
野口は何も言わず黙々と作業を続けている。何か話さなくちゃいけないかな、と思い口を開け閉めするミコトに、野口が言った。
「今どきは、第一印象が大切っていうか……。ほら、キレイな家が多いでしょう? 汚れた靴で訪問すると、嫌がられたりする」
「ああ……」確かにそうかもしれない、とミコトは目からウロコだった。
「それに、ボクらの場合はキチンと手入れしておかないと命取りになる」
「え?」ミコトは野口の日に焼けた、真面目そうな横顔を見た。
「この靴や手袋は、感電防止の絶縁仕様になっている。でも、もしも穴が開いていたりしたら、そこから電気が通ってしまうから、意味がないんだ。日頃の手入れが大切なんだ」
そういって、野口はまた単調な作業に戻った。
「でも、入社して以来、道具類の手入れをしている人、見たことないですけど?」
「うん。はっきり言って面倒くさいから、みんなやらないみたいだね。ボクはいつも後輩に手入れするように言ってるんだけど……。今どきの新人は、人の言うこと、あまり聞かないから……」
言ってしまってから、野口は あ……という表情をした。目の前にも「今どきの新人」が居ることに気付いたようだ。
「あ……キミの事じゃないよ。うちの課の若いヤツの事だよ。今日も殴られて帰ってきて。ハラハラするような物言いをするヤツだから、きっと相手の気分を害してしまったのかもしれないな」
野口は「余計なこと言っちゃった」と、小声でつぶやいて道具を片付け始めた。
ミコトは言った。
「殴られた人は、運が悪かったんですよ。相手が暴力団だったから。それに……飯田さんの名前も出てたし。なんか、ワケアリっていうか……」
「そうかもね。ボクも聞いたよ。飯田のせいで殴られたって。でも、飯田のせいかもしれないけど……そうじゃないかもしれない」
ミコトは手際よく片づけをする野口の手元を見詰めていた。野口はミコトの視線に気付き、自嘲気味に言った。
「肝心なアドバイスは聞く耳持たないくせに、そういう事だけは、良く知りもせず誰かの言葉を鵜呑みにする。なんか、ヘンだと思わない?」
野口はミコトの顔を見て、目だけで微笑むと、ピカピカになった半長靴を履いた。ミコトは慌てて立ち上がると、お礼を言ってボロ布を返そうとした。野口は「また使いなよ」と言って、道具一式を抱えて屋上から出て行った。
野口との会話は、何だかいつまでもミコトの胸の中に残っていた。やわらかい言い方だったが、そこには仕事に対する、真面目な姿勢と、社会人としての厳しい目があった。
「うちの係にも、野口さんみたいな人が居ればいいのに」
ミコトは自分の部署のメンバーを思い浮かべた。ミコトの失敗を指さして笑い、飯田のトラブルを面白そうにウワサする人たち。
昼休みの休憩時間も終わりだった。
「飯田さん、あの後どうなったのかな」
ミコトはボロ布を手に、屋上を後にした。
自席に着くなり、ミコトは飯田に呼ばれた。
「篠原、今日からお前が入金、行ってこい」
「ええっ! 今日から……毎日、ですか?」
ミコトは眉をひそめた。収入になった現金は、極力手元に置かないのが厳正管理のルールだ。面倒な事だといつも思っていたが、仕方が無い。入金の担当になると、午後二時までに集まった金を合計して、銀行の窓口に預けに行くのだ。この仕事は、大抵飯田がやっていた。仕事の早い飯田だからこそ、毎日やれるのだとミコトは気付いた。昼抜きで頑張って、やっと四時ごろに帰社しているペースの自分が、二時の入金までに帰ってくることなど、地球がひっくり返ったって無理に決まっている。
「飯田さん、無理っすよ! ぜーったい、無理!」
飯田は形の良い眉をピクリと動かした。切れ長の目がゆっくりと動いて、ミコトを見据えた。
「無理じゃねえよ。やれっつってんだよ!」
何だか物凄く不機嫌そうだった。迫力のある飯田の目つきに圧倒され、小声で「わかりました」と言うと、ミコトは車のキーを取りに行くために腰を浮かせた。追いかけるように飯田が怒鳴った。
「営業窓口の女の子も一緒に行くから、声をかけてやれ」
なんで、他係の人なんか?
口に出そうになった時、刺すような視線を感じた。チラリと目を上げると、書類トレイの隙間から、飯田が眼光鋭い睨みを利かせている。これ以上文句を言ったら、タダでは済まなそうな気配だった。ミコトは慌てて金を集計し、逃げるようにフロアを出た。
現金の入ったジュラルミンの手提げカバンを抱えて一階の営業課に顔を出すと、いきなり上条ありさに背中を思いっきり叩かれた。
「痛いなあっ、何するんだよ!」
「それは、こちらのセリフです!」
人を叩いておきながら、お嬢さまはふくれっ面でミコトを睨みつけた。見ると彼女も同じようなジュラルミンの手提げを持っている。
「どうして、ミコちゃんなのよ」
「はあ?」ミコトは怒るのも忘れて首をかしげた。意味がわからない。
上条ありさは、次第に涙目になり、ガックリと肩を落とした。哀愁漂うメロディーが聴こえてきそうな様子に、ミコトはうんざりした声で訊いた。
「いったい、何なの?」
「私、今日初めて入金行く事になって、朝からずーっと、飯田さんとのラブラブ入金デートを楽しみにしていたのに」
今度はミコトがガックリと肩を落とした。こっちだって、上条ありさでは願い下げだ。
飯田に「毎日の入金」という、ミコトにとって非常に理不尽な業務を押し付けられ、プリプリしていたとき、岩佐が彼にそっと耳打ちしたのだ。
「篠原、そう嫌なモンでもないさ。営業課の入金担当は、事業所一の美人、窪田圭子さんだぞ」
「ええ!」ミコトは胸がドキドキした。
憧れの先輩、窪田圭子さん。新入社員で、初めてこの事業所に来たとき、彼女は一番窓口で接客をしていた。今どきカラーリングしていない真っ直ぐな黒髪、長い睫毛と大きな瞳、まるで日本人形のように美しくそして儚げな印象は、ミコトのハートを一瞬にして虜にしたのだった。
今、この時代の日本女性の中に、彼女のようなしとやかな乙女が存在する事自体が、奇跡だ。
「いらっしゃいませ」
鈴を転がすような声で言われ、ミコトは腰が抜けるか思うほどに、動揺してしまったのを思い出す。それ以来、ミコトは一階のフロアに行くたびに、彼女の姿を見ることを密かな楽しみにしていたのだ。
「あーん、飯田さんじゃなきゃ、いーやーよー。私、ミコたんとじゃ、行かないもン」
ムカツクほどに甘えた言い方で、上条ありさはゴネまくる。しかも、どさくさに紛れて「ミコたん」って……なんだよっ!
ミコトはホトホト嫌になってきた。
「オレだって、窪田さんだとばかり思っていたのに……」
ミコトはハッとして口を押さえた。上条ありさがミコトの顔を見て、にんまりと笑っている。目が三日月型だ。
「と、とにかく、時間が無いから。嫌なら一人で行けよな」ミコトはしどろもどろになりながら、クルリとありさに背を向けた。
すると、男性の声で叱られた。
「今日、うちの制服の人間が殴られたばかりだぞ。女性を一人で行かせるわけにいかないでしょう」
振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔で坂井課長が立っていた。飯田とお茶を飲みに行った後、二人の間の話はどうなったのだろうか。ミコトは何気ないそぶりで尋ねた。
「殴られた配電の人は、飯田さんがどうのって、言ってましたけど。そういえば、どうなったんですか?」
「キミには関係の無い事でしょ。さっさと入金に行きなさい。銀行が閉まってしまいますよ」
不機嫌な言葉に眉根を寄せつつ、ミコトは頭を下げると駐車場へ向かった。今の坂井の言い方では、飯田は小切手に関するミコトの失敗を隠し続けているようだ。彼は、あくまでも自分一人で何とかする気なのだと気付いた。
「ねえ、やっぱり飯田さんが何かヘマをやらかしてしまったのぉ?」
背後から甘ったれた言い方で声をかけられ、ミコトは振り返るなりキッと上条ありさを睨みつけた。ヘマをしたのは飯田ではなく自分なのに、このままではみんなに誤解を招く。
ミコトは仕方なく、銀行に向かう車の中で、ありさに、自分の失敗から飯田が窮地に立たされていることを白状した。
「ふ~ん、何だか難しくて、よくわかんないけどぉ~、がんばってね」
ありさの気の抜けるような反応に、言わなきゃ良かった、と後悔しながらミコトは銀行の駐車場に車を停めた。
午後三時前の銀行は、かなり混雑していた。順番待ちの札を取ってくると、上条ありさはちゃっかりソファに腰掛けて、備え付けのファッション雑誌をめくっていた。お嬢さまは、どこに居てもマイペースなのだ。
「明日来るときは、読みたい雑誌を持って来ようっと」
やはり、明日の入金もお前か! ミコトはがっかりとうなだれて、ありさの隣に腰を下ろした。
「こんなに混んでいたら、飯田さんとたくさんお話出来たのになあ」
ため息と共にカチンとくる台詞を再び吐く上条ありさを睨んだとき、誰かに声をかけられた。
「篠原さん、こんにちは」
声の方を振り返ると、艶のある黒のビジネススーツを着た男性が、にこやかに微笑んでいた。
「あ、ニワ トリオさんの息子さん」
「その節はどうも」
ミコトが現場で救急車を呼んで助けてあげた、ニワ トリオの息子の丹羽鳥彦だった。
「父が先週退院したんです。見違えるように元気になったので、近いうちに篠原さんに改めて御礼を言いに伺おうと話していたところだったんですよ」
「そんな、何度もいいですよ」
照れ隠しに頭を掻くミコトに、丹羽鳥彦はそうだ、と何か思いついたように内ポケットの中に手を突っ込むと、数枚のチケットを取り出した。彼はミコトの手にそれを押し付けながら、ニコニコと言った。
「今度うちのお店に遊びにきてください。カウンターでそれを出していただければ、一枚につきドル箱を一箱サービスしますから」
よくわからず「いったい何だろう」と、ミコトがチケットをしげしげと眺めている間に、丹羽はサッと席を立ち、それじゃ! と爽やかに去っていってしまった。
「ねえ、ミコりん。今の人だあれ?」
隣で雑誌を読んでいたはずのありさが、興味津々で訊ねた。しかも呼び方がまたまた進化を遂げている。何だよ「ミコりん」って!
「この前窓口に来たじゃないか。確かあの人、パチンコ屋の店長さんだっけ」
「ステキな人ね」
ふーん、とミコトはありさを横目で見た。飯田にしろ、丹羽鳥彦にしろ、どうやらスリムで長身なのが好みらしい。自分が彼女のストライクゾーンから外れていて良かった、とホッとしつつ入金を終えると、ミコトは急いで会社に戻った。
自席に戻るなり、岩佐に肩をつかまれて、ミコトは目をぱちくりさせた。
「岩佐さん?」
岩佐は注意深く周りを見回すと、ミコトの耳元でささやいた。
「ちょっと話がある。屋上に来い」
先に行っているぞ、と言い、岩佐はフロアを出て行った。
屋上に上がると、夕方の逆光の中に二つのシルエットがあった。
飯田と岩佐がこちらに背を向けてフェンスにもたれかかっている。飯田はタバコを吸っていた。
「話ってなんでしょうか?」
近づいていくと、飯田が岩佐に向かって声を荒げた。
「ちょっと、岩佐さん。コイツ呼んで、どうするつもりですか。使えねぇヤツはいらないんだよ!」
登場するなりあんまりなセリフを言われ、ミコトは何だか悲しくなってきた。
岩佐が穏やかな声で諭すように話しかけた。
「タクミ商会のことはあきらめろ。課長があの調子ではいくらお前が頑張ったって、限度がある。万が一、事が大きくなっても、坂井課長はお前をかばっちゃくれない。あの人は凡人だ。前・課長の石塚さんとは違う」
「岩佐さん、もう放っておいてくれ。オレは何が何でもタクミ商会に支払いをさせる。払わなきゃ、オレが柱に登っても電気切ってやる!」
言うなり、飯田はタバコを投げ捨てると、履いていたビーチサンダルで踏みつけた。
「一度甘い顔したら、もうダメなんだぜ。カッコつけるわけじゃねぇけど、暴力団には屈しないのが、取立て屋ん時からのオレのポリシーだ」
屋上を去る間際、くるりと振り返って飯田がバカにしたように笑った。
「タクミ商会は他にもたくさん支店を持っている。他の事業所と足並みを揃えないと、後々までやりにくくなるんだぜ……って、腰抜け課長に言っといてくれないかな。センパイ」
ドカンと扉を乱暴に蹴り開けて、飯田の姿が消えた。
「あの~」
心配顔で立ち尽くす岩佐に向かって、ミコトは声をかけた。岩佐が力なく笑ってミコトに向き直った。
「呼び出してゴメン。もう、いいんだ」
「いったい何があったんですか?」
岩佐はため息をつくと言った。
「飯田の持ち分で、パチンコ屋の『タクミ商会』って知ってるよね。それが、どうやら不渡りを出したようで」
「やっぱり!」
え? という表情で、ミコトを見詰めて岩佐が尋ねた。
「うちの管轄の事じゃないんだけど、篠原、知ってるの?」
今度はミコトが「え?」と聞き返した。
「うちの隣で、K市を担当する事業所の管轄内のことなんだけどね」
岩佐は難しい顔で説明した。暴力団、タクミ商会の経営する風俗店は、隣のK市にも五口ほど契約があるらしい。そこで、やはり同じように先付け小切手をつかまされた担当者がおり、強気な上司の元、不渡りになった時点で送電停止を強行したところ、配電の現場作業員と暴力団の何人かが小競り合いをおこし、流血沙汰になったらしい。
「それを聞いた坂井課長がビビッちまってさ。そこに、今朝の配電の担当者が殴られた事件があったものだから、課長は飯田を担当から外して、穏便な解決策を模索する、とか言い出したらしくて」
―――暴力団と取引なんか、しねえよ
タクミ商会の事務所で軟禁されたときの飯田のタンカがミコトの脳裏をよぎった。
「それでね、飯田と坂井課長はとことんやりあっちゃったらしいんだよ。そうしたら、ほらアイツ最近、忙しいだろ? 債権回収率や個人の成績が落ち込んでることを課長につつかれて……」
あ……ミコトは口に手をやった。
「オレのせいだ。飯田さん、オレのこと面倒見てくれてるから、自分の仕事溜まっちゃってて、それで」ミコトはうなだれた。
「うん、篠原本人がわかってるなら、言い易いから言うけど、オレたちで課長の所に侘びを入れに行こうと思ってたんだ。……飯田本人も連れてね。ところがアイツはあの調子でさ……」
お手上げという仕草で、屋上から立ち去ろうとする岩佐に、ミコトは、今が全部を話す時だと決心した。
「先付けつかまされて、領収証切ったの、オレなんです」
くるりと振り返った岩佐が、コクンと頷いた。
「わかってたよ。飯田は何も言わないけど、四枚領収証の控えが見当たらなくて、探したらタクミ商会の名義でキミの印鑑が押してあるのが出てきた」
「その後、飯田さん すぐに取り返しに行ったんだけど、オレがドジを踏んだせいで事務所に二人して軟禁されちゃって」
「ええ!」岩佐が目を丸くして叫んだ。
「軟禁って……。どうしてそんなことがあったの、黙っていたの?」
どうして黙っていたのか、ミコト自身にもわからない。たぶんあまりにも飯田が平然と対応していたせいで、日常茶飯事なんだろうと、勘違いしてしまったのかもしれない。
「アイツ、マジで危ない橋渡ってやがる。やっぱり石塚さんに相談するしかないか」
「石塚さんって、元課長の?」
ミコトの問いかけに、岩佐は硬い表情で頷いた。
「飯田はあの人の言う事なら聞くから。今は本店の債権確保部門のトップにいる」
坂井課長を差し置いて、他所の上司に直談判など、いいのだろうか……? 疑問に思いつつも、そもそもの原因である自分が口出しするべき事でないのは良くわかっていたので、ミコトは口をつぐんでいた。ただ、今更とは思ったが、岩佐に尋ねてみた。
「あのぉ、岩佐さん。小切手の件、オレのミスだって事、坂井課長に報告しておいた方がいいですか?」
岩佐は首を横に振ると、目を伏せた。
「いや、言わなくていいよ。たぶん課長も知ってると思うよ。あえて言えば、飯田に言わされたんだと勘違いされて、また彼の立場が悪くなる。後輩に言い訳をさせて……とか、なんとかね」
ハァ……とミコトはため息をついた。
「なんか、手伝える事、ないですか?」
無いね、とあっさり言われ、シュンとしていると、岩佐が飯田のようにミコトのネコッ毛頭をポンポンと軽く叩いた。
「仕事では篠原に出来る事は無いけど、飯田はあの通りの性格だから、気を使わずにしゃべれる相手は少ないんだ。力になれなくても、話を聞いてやってよ」
本当にそんな事くらいしか出来ない自分を情けなく思いながら、ミコトは岩佐に向かって小さく微笑んだ。
「飯田さん、今日飲みに行きませんか?」
終業時刻もとっくに過ぎ、料金課のフロアにはいつものメンバーだけが残っていた。飯田とミコト、それに夜間集金の業務を専門にしている委託員のおじさんだ。
「悪いが、金、無ぇんだ。それに仕事もある」
あっさりと断られ、一瞬諦めかけたが、こんな事では本当の役立たずだと思い直し、ミコトはもう一度声をかけた。
「金はいいです。この間、ほらイベントの時ご馳走になったから、今日はおごりです」
飯田はチラリとミコトの顔を見ただけで、また視線を手元の書類に戻すと小声で言った。
「サンキューな。気持ちだけ、ご馳走になっておくよ」
ミコトは大きな瞳をいっそう見開いて、まじまじと飯田の整った顔をみつめた。こんなふうに言われるとは思わなかった。もうこれ以上しつこく誘えなくなってしまった。
所詮役立たずだった、と反省しつつ机の上を片付け始めると、数枚の紙切れが引き出しから出てきた。
「あ……丹羽さんにもらったパチンコのチケットか。こんなの要らないよ、どうせなら景品のチョコレートの方が良かったな」
ブツブツつぶやいていると、ふと視線を感じた。目を上げると、飯田が書類トレイの陰からじっとミコトの手元を見ている。
何だか飯田の目つきがいつもと違うような? ミコトは恐る恐る尋ねた。
「もしかしてコレ、欲しいですか?」
飯田はハッとしたように目を背けたが、どうやら図星だったようだ。信じられないぐらいに赤面している。すると、委託集金員のおじさんがニコニコ声をかけてきた。
「飯田くん、パチンコ得意だもんね。行ったらまたタバコとってきてよ」
飲みには行かないけど、これなら行くかもしれない。
ミコトはニッコリ笑ってチケットを差し出した。
「あの、コレどうぞ。実はオレ、パチンコやったことなくて。でも、前から一度やってみたかったんですよね。もしよかったら一緒に行ってくれませんか?」
飯田は顔を赤らめてチケットとミコトを交互に見ていたが、「しょーがねぇな」と言って机を片付け始めた。
何をやらしてもソツの無い飯田の才能は、こんな所にも花開いていた。あっという間に足元にドル箱を積み上げる飯田を見詰めて、ミコトはあっけに取られていた。
「ここんとこ忙しくて、ゼンゼンやってなかったからな。この新台おもしれぇな」
持ち玉もすっかり底をつき、それでもさっぱり出ないミコトは、つまらなくなり、すでに閉店終了状態で飯田の隣に座っていた。
「やあ、早速遊びに来てくれたんですか!」
丹羽店長がポンとミコトの肩を叩いた。初めて声を聞いた時は、地声のでかい人だと思ったが、職業柄、自然と大きな声になってしまうのも頷けた。この騒々しい中に一日中いるのだから仕方が無い。
「ボクは出ませんでしたけど、先輩が出たので奢ってもらうんです」
ニコニコ笑うミコトに、飯田は「そんな事言ってない」といいたげな顔で一瞥をくれた。
「お友達を誘ってまた来てくださいよ。今度は出血大サービスデイのダイレクトメール送りますから」
ははは…と苦笑いのミコトに、店長は頭を掻きながら言った。
「ライバルのパチンコ店が次々と新台入れ替えるものだから、なかなかお客が固定しなくて。まったくグランドホールさんは羽振りがいいこと。駅前に新店舗を出すらしいし……」
「なに?」飯田が凄い目つきで振り返った。
何事かと問いかけるミコトを無視して、飯田は丹羽店長に詰め寄った。
「グランドホールの新店舗って、本当か?」
「え、ええ。本当です」
「いつオープンか知ってるか?」飯田の迫力に、丹羽店長はビックリしながら答えた。
「来月の八日です。末広がりで大安吉日ですから」
連チャンモードもストップしたので、飯田は積み上がったドル箱を換金すると、早々にパチンコ屋を出た。丹羽店長と話してから、難しい顔をして押し黙っていたが、ミコトの腹の虫が鳴いたのを聞くと、飯田はフッと表情を弛めた。
「久々に遊んだし、たくさん出てストレス解消になったから、メシ食いに行こうぜ。何でも奢ってやるよ」
「チョコレートたくさんもらった上に、メシまでいいの?」大きな瞳をキラキラさせるミコトのネコッ毛頭を軽く撫でると、飯田は「ついてこい」というように長い足で大股に歩き出した。
焼肉屋で食べまくり、その隣の居酒屋で飲みまくったミコトは、ヘロヘロになっていた。こんなに飲んだのは、大学の卒業コンパ以来だ。真っ直ぐに歩けない。
「おい、ミコト! もう一軒行くぞ!」
やはり、昼間の事が尾を引いているのか、飯田もいつになく大量に飲んで酔っ払っていた。ただし、飯田は飲んでも仕事のグチをこぼしたり、訳もなく絡んだりするタイプでは無いらしかった。それどころか、人格が変わったように明るく楽しい酔っ払いだった事に、ミコトはビックリした。
「飯田さん、もうオレ、飲めましぇん」
ふらつく足元で、しなだれかかったミコトに、飯田は極上の笑みを見せたかと思うと、いきなり近くの道路標識に走って行った。
明るい酔っ払いは、古くからのジャイアンツファンらしく、ポールに片手を巻きつけてくるくると回りながらタツノリのテーマを大声で歌いだした。
ミコトが近寄ってゆくと、飯田は歌いながらスキップ状態で先に行ってしまう。
「飯田さ~ん、待ってぇ~」
上条ありさのようなしゃべり方をしている事に気付かぬまま、ミコトは帰ればいいのに懸命に飯田の後をついて行った。
「それゆけタツノリ~ 原監督サイコー! オレの上司はサイテー!」
飯田は歩道橋の上から通り過ぎる車に向かって大声で叫んでいる。ようやく追いついたミコトに、不敵な笑みを見せ、飯田は言い放った。
「アメリカはテロに屈しない! オレは暴力団に屈しない! わははは」
乱心の飯田を見て、ミコトの酔いが少しだけ醒めた。ミコトは飯田の背中を押すようにして歩道橋を渡り切ると、階段に座り込む飯田を乗せる為に、通りを流すタクシーに向かって手を振った。
タクシーの後部シートに乗り込むと、飯田はミコトの肩にもたれて居眠りを始めた。
なんだかんだ言っても、彼は、根は真面目な人間なのだ。だから毎日遅くまで一人でも頑張っているのだ。本音を言うとサラリーマンなんて、言われた事だけやっていればいいと思っていた。確かにそれでも給料をもらえて、うまくやっていけるだろう。現にそういう人はたくさん居る。だけど、それじゃあきっと人生つまらないし、もらった給料にもありがたみが無いような気がする。
ミコトはいつも飯田が自分にするように、彼の長髪ヘアをくしゃっと撫でた。
ミコトの肩にもたれていた飯田が、少し身じろぎをしてボソリと言った。
「オレはなんだかんだで、やりたいようにやってるけど、お前はまだ新人だ。有名一流大学卒で、将来もある。だから……」
何を言いたいのだろう?
首をかしげるミコトの耳元に、飯田は吐息と共にささやいた。
「もう……オレにかまうな」




