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電力少年  作者: 冴木 昴
5/10

トラブル続発!

「えーっと、次の現場は……っと」

『加藤シゲゾウ商店』

 商店と名がついている割には、その場所は町外れの一角だった。

「うー、自転車だと結構遠いなあ」

 ミコトは背中に大汗をかいて、現地に向かった。

 錆びの浮いた金網に囲まれた敷地内に、『加藤シゲゾウ商店』はあった。ミコトの目を奪ったのは、たくさん並んだ自動販売機だ。その並び方は、中身の品物を販売する為ではなく、自動販売機自体を扱っているらしい。ドミノのようにズラリと並んでいる本体は、お馴染みの飲料メーカーの物や、タバコ、珍しい所では観葉植物(いったい誰が買うんだろう?)の自動販売機など、種類は色々だった。

 立て付けの悪い引き戸を開けて、事務所を覗き込むと、机に座っていたおじさんが顔を上げた。

「あ、電気屋さん?」

「こんにちは」ミコトは元気良く挨拶をした。

 こっちに来て座って、と言われて、事務所の机に座らせられたミコトの前に、おじさんはバケツを一つ、ドンと置いた。

「へ?」キョトンとしてミコトが覗き込むと、大量の硬貨が入っていた。動きの止まっているミコトに、おじさんは言った。

「飯田さんはお休みかい?」

「え? いいえ、今日は他をまわっているので、代わりにボクが来ました。篠原といいます」

「そうですか。じゃあ篠原さん、ここから電気代、遅れてる分だけ、二月の分だっけ……持ってってくださいよ。確か十三万ちょっとだったよね」

「うえあああ?」ミコトは妙な声をあげてしまった。再びバケツの中を覗き込む。

 銅貨ばかりが目立つ中から、十三万円持ってってと言われても。

「何か飲み物もってくるよ。缶ジュースなら何でもあるよ。飯田さんはいつもコーヒーだけど、キミは?」

「あ……コーラください」

 おじさんはミコトと大量の十円玉(バケツ入り)を残して事務所を出て行った。

「十円玉で十三万円って……百個で千円、千個で一万円、じゃあ……一万三千個数えるの?」ミコトは始める前から泣きたくなってきた。

 五百個ほど数えたとき、おじさんがコーラを持って戻ってきた。

「あれ? 機械持って来なかったの?」

「機械?」ミコトが首をかしげた。

「飯田さん、いつも機械で数えてるんだよ。ほら、銀行や郵便局にあって、お金をザラザラ入れると、自動でカウントしてくれるやつ」

「えー! そうだったの?」

 ミコトは機械を持って出直して来ますと言い、コーラをもらっただけで『加藤シゲゾウ商店』を出た。

「機械が必要なら、カードに記入しておくべきだ!」ミコトはプリプリしながら自転車にまたがった。

 それにしても……。

 小切手の次は大量のジャラ銭。いつもと違う現場に戸惑いつつ、ミコトは次の現場へと自転車を漕ぎ出した。


 飯田は焦っていた。足順どおりに追いかけているのに、ミコトの足取りがつかめない。トップに行くはずの現場に行くと「まだ誰も来ていません」と言われてしまった。お客さんが嘘をつくはずもない。

「あいつ、順番バラバラでまわってるみたいだな」

 飯田はミコトの携帯に電話をした。さっきから何回もかけているが、同じメッセージだ。

 ――お客様のお掛けになった番号は、電波の届かない所に居るか、電源が入っていない為掛かりません。

「……しょーがねェな。ったく!」

 飯田は勘を頼りに次の現場へ移動した。


 まだ二件しか行っていないのに、ドッと疲れてしまい、ミコトは通りすがりの公園のベンチでさっきもらったコーラを飲んでいた。飲みながら、次の現場を地図で確認する。

「あれぇ? ここ、さっき通ったじゃん。自販機の会社に行く前に寄れたのに……もしかして、足順違ってたりして?」

 嫌な予感に全部の現場を地図で確認すると、まったくバラバラであることがわかった。ミコトは乾いた笑いを漏らす。良く確認しなかった自分のミスだ。仕方がないので、手当たり次第に近くの現場からまわる事にした。

「えーと、『ミシマ ヤヨイ』S大病院看護師寮。看護婦さんか……ふふ」

 何故か顔を赤らめる。

「ばあちゃんが入院してた病院の看護婦さんは、全員が美人で優しかったよなぁ」

 看護師寮についたミコトは、ウキウキしながら建物に入って行った。寮と言っても、まったく普通のマンションだ。一階のロビーの奥に、オートロックのガラス扉がある。

「困ったな、入れない」

 ちょうどいいタイミングで中から人が出てきた。ミコトは入れ違いにマンションの中に入る事に成功した。

『ミシマ ヤヨイ』の部屋は最上階だった。

 エレベーターで上がり、表札を確認してインターホンを押すが、応答は無い。

「チェッ、せっかくここまで来たのに、不在かよ」

 ミコトはしつこく二回、三回とインターホンのボタンを押した。

『いいかげんにしないと警察呼ぶわよ! 何時だと思っているのよ!』

 留守だと思っていたところに、いきなり大声が返ってきて、ミコトは慌てた。

「あ、あの……」

 すごい勢いでドアが開けられ、中から太ったおじさんのようなおばさんが出てきた。

 げ! これがヤヨイちゃん?

 想像を見事に打ち砕かれて呆然としているミコトに、おばさんは大声を張り上げた。

「何時だと思っているのよ!」

「え?」

 時間? 午前十時はべつに非常識な時間でもなんでもないが……。

「まったく、何度言ったらわかるの? 夜勤明けでやっと休んだところなのに!」

「あ……」ミコトはハッと思った。

 世間では常識の時間でも、看護師など夜勤の人にとっては非常識なのだ。

「だいたい、オートロックなのにどうやって入ったのよ。不法侵入で訴えるわよ」

「す、すみません。ボク初めてで、知らなくて。ごめんなさい」

 フンと鼻を鳴らしてドアを閉めようとする『ヤヨイちゃん』に、ミコトはおずおずと声をかける。

「あの、電気代お支払いいただけますか?」

『ヤヨイちゃん』はジロリとミコトを見て、一旦奥に引っ込むと、財布を持って現れた。

「今日は払うけど、今度またこんな時間に来たら二度と払わないわよ。お金が無いわけじゃなくて、あなたたちの仕事に対する態度が気に入らないのよ」

「え?」ミコトは『ヤヨイちゃん』の顔をじっと見た。

「何度言っても同じ間違いをする。私たちの職場でそんなことされたら、患者さんはいくら命があっても足りないのよ」

 まったくそのとおりであった。顧客カードをよくよく見ると、飯田の文字で「午後三時以降」と書いてあった。ミコトは再度謝って看護師寮を後にした。

 また、ドジを踏んでしまった。

 ミコトはうなだれて自転車にまたがった。

「でも、払ってもらえただけ良かったかな」

 なんとか、自分を励ますと次の現場へ向かって自転車をこぎだした。

「さて、次は……っと『カネモチ フク』。おばあさんだな」

 今度こそ失敗しないように、顧客カードに隅々まで目を走らせる。カードには、かなり古い日付でごちゃごちゃと書き込まれていた。

「勝手に入ってはいけない・頭上注意・足元注意・電卓を見せてはいけない・工具を見せてはいけない……なに? これ」

 何人もの担当者が記入したらしい記録の、一番最後に、飯田の文字で簡潔に記されているコメントを見て、ミコトは『カネモチ フク』の人格を理解した。「被害妄想の変人」


 その家は呼び鈴がついていなかった。

「こんにちは。帝都電力です」

 ミコトはガラスの引き戸を軽くノックして、大声を張り上げた。

 いきなり引き戸が開いたかと思うと、怒鳴り声と共にグレーの背広の男性が後ずさりで出てきた。

「帰れったら、帰れ!」

 中から思いっきり突き飛ばされた男性は、すぐ後ろに居たミコトにぶつかり、二人して地面に尻餅をついた。

「いててて!」下敷きになったミコトは、ズレたメガネを掛けなおして、上に乗っている人物の尻を押しやった。

「す、すみません。大丈夫ですか?」

 グレーの背広の男性は、慌てて立ち上がると、ミコトの手を取って立ち上がらせた。

「あ、はい……大丈夫です」

 ミコトはズボンの尻をはたいて、男性の陰にいるおばあさんを見た。しわくちゃで、すごく腰が曲がっている。そのせいか、子供のように小さかった。大人の男性を突き飛ばすほどの力が出る事が驚きだ。

「あたしゃ、何度も詐欺にあっているからね。そう簡単には、ハンコは押さないんだよ」

 おばあさんは、グレーの背広の男性に勝ち誇ったように言った。

「いえ、先程から申し上げてますけど、私は生活福祉課の職員で、生活保護の手続きをしようとしてるだけですよ」男性はうんざりしたように、白髪の混ざり始めた頭を掻いた。

 ミコトは彼が気の毒になってきた。

 男性の背後から、おばあさんの様子をうかがうと、おばあさんは、精一杯背伸びをしてキーキー言った。

「うるさい、うるさい! 頼みもしないのに来るヤツは、全員怪しいんだよ!」

『被害妄想の変人』確かに飯田のコメントはピッタリだ。ミコトは思わずクスッと笑ってしまった。

「ちょっと、メガネのあんた。今、笑ったね」

 おばあさんは背広の男性を回りこんで、ヨチヨチとこちらにやってきた。

 ミコトは後ずさりをしながら言った。

「あ、あのボクは帝都電力の集金員で、篠原と言います。お取り込み中みたいなので、夕方また、寄らせていただいてもいいですか?」

「何時に?」おばあさんはミコトの顔を睨んだまま言った。

「四時半はいかがでしょう」ミコトは引きつった顔で笑った。おばあさんは、ふっと表情を弛めると「あいわかった」と言って、背広の男性に向き直った。

 二人が話をし始めたので、ミコトはそそくさと逃げるように『カネモチ フク』の家を出た。出るときに、門のそばにあった猫の糞を、思いっきり踏んずけてしまった。

「足元注意って、この事かよ……」ミコトはため息をついて、がっくりと肩を落とした。

 カネモチ宅から目と鼻の先にある神社の境内に自転車を止め、階段に座り込んで、ミコトは運動靴のみぞに詰まった猫の糞と格闘していた。木の枝を拾って掻き出そうとするたびに、細い枝はポキリと折れた。

「あーん、この靴お気に入りだったのに」

 神社の玉砂利を踏む音と共に、頭の上から声がした。

「クソ踏んでんじゃねえよ」

 顔を上げると、すらりと背の高い男性が立っていた。

「飯田さん?」

 飯田は作業用の腰道具の袋から、長めのクギを取り出すとミコトに手渡した。

「す、すいません……」ミコトはクギを受け取ると、真っ赤になってうつむいた。靴の裏の糞を取っているという、情けない姿を見られてしまった。

 飯田はミコトの隣に腰を下ろすとボソリと言った。

「オレも以前、踏んだ」

「へ?」ポカンとするミコトに、飯田は面白そうにニヤリと笑って言った。

「あれは、ババアがわざと置いてるんだぜ」

「ええ?」そんな事して、いったい何が楽しいのかわからない。

「頭にきたから、フンだらけの靴で、ババアの家の周りを一周してやった」

 げげっ! な、なんて事をするんだ。この人は!

 おばあさんに負けず劣らず、性格の悪い飯田の所業に、ミコトは絶句する。

「なーんか、雨降りそうだな」飯田は空を見上げてタバコを咥えた。

「あの、飯田さん? 現場、終わったんですか?」

 やけにまったりとしている飯田に、ミコトは怪訝そうな顔で尋ねた。

「お前、本当にわかってねぇな」

「は?」飯田が何を言っているのかさっぱりわからない。

 フウ……と飯田はため息をついた。

「お前、オレの現場まわってんだよ」

「え……?」

「おまえのはこっち」そう言って渡されたカードを見ると、もうすでに飯田が作業を済ませていた。

「オレのって……ええっ!」どうりで普通じゃない現場や、人物に遭遇するわけだ。

「でも、何件か集金できましたよ」

「うそ!」

 ミコトが間違えて持っていたカードを手渡すと、飯田が目を丸くした。

「タクミ商会、金払ったのかよ! 信じらんねぇ」

「女社長さんの所ですよね」

 ほら、このとおり、とミコトは集金カバンの中から、女社長に渡された小切手を取り出した。手に取って、眺めていた飯田の顔が険しくなった。

「何でこんなのもらうかなぁ」

「え?」訳が解らず、ミコトは首をかしげた。

「先付け小切手は、もらっちゃいけないんだよ」飯田はトホホな表情で、髪の毛をかきむしった。

 先付け……?

 何のことやらますますわからない。

「しょうがねえなあ。預かり書、出してみな」

 飯田がミコトの集金カバンを取り上げた。咥えタバコでカバンを引っ掻き回していた飯田の口元から、ポトリとタバコが落ちた。集金済みの領収証の控えを凝視している。

「飯田さん……?」なんだか、嫌な予感がして、ミコトは飯田の端正な横顔を覗き込んだ。

「お前、もう会社に帰っていいよ」

 そう言って、飯田はスッと立ち上がった。

「オレ、なんかマズイ事、しました?」

 恐る恐る訊ねるミコトの頭をポンポンと軽く叩くと、飯田は玉砂利を踏んで車の方へ戻って行く。

「飯田さん、どうしたんです?」

 ミコトの声など聞こえていないかのように、飯田はさっさと車に乗り込むと、どこかへ行ってしまった。今日は、飯田の前ではまだドジを踏んでないと思っていたのに。いったい何がいけなかったのだろう?

 腑に落ちないまま、ミコトは会社への道を自転車で戻り始めた。


 会社に戻ったミコトは、自席に座って業務マニュアルを引っ張り出した。しかし、新入社員用のマニュアルには、『先付け小切手』についての項目などは載っていなかった。

「誰に訊いたらいいのかな」

 ぐるりと職場を見渡すと、露崎と酒場が談笑しながらフロアを出てゆくのが目に入った。

 ミコトは席を立って、二人を追いかけた。

 廊下の一画にある喫煙コーナーでタバコを吸っていた二人は、ミコトの話に一様に険しい顔をした。

「先付けもらって領収証きっちゃった……? めちゃめちゃマズイじゃん」

 露崎が眉間にシワを寄せたまま言った。

 どうして? と言うように首をかしげるミコトに、酒場が丁寧に説明してくれた。

「先付け小切手は、記入されている期日が来ないと現金化できないのよ。だから期日が来るまでは、ただの紙切れよ。したがって、この場合もらわない方がいいんだけど。でも、どうしても受け取らなきゃいけない場合は、電気料金領収証ではなく、小切手預り証を書くの。そして、現金化して収入になった時点で領収証と預り証を交換するのよ」

「……じゃあ、オレは」

「そう、払ってもらってないのに、レシートを渡しちゃったのよ」

 そうだったのか! 知らなかったとはいえ、大変な失敗をしてしまった。

「あ、でも期日が来れば収入になるんですよねぇ。期日はいつだっけかなあ?」

 呑気なミコトの言葉に、酒場が苦笑した。

「信用のおける相手だったらいいけどね。タクミ商会は暴力団だよ」

「ええ!」ミコトの脳裏にあの田村と呼ばれたこわもての顔が浮かんだ。知らないと言うのは、本当に恐ろしい事だ。

「たぶん、期日に現金は入らないよ」露崎がフウーと煙を吐いた。

「それってもしかして、不渡り……?」

 女性二人が同時にうなずいた。ミコトは真っ青になった。

「せっかく飯田が女社長のご機嫌とって、毎月キチンと払ってもらってたのに、今のままじゃ、期日まで事実上延伸だね。挙句の果てに不渡りになったら、また支払いのサイクルを軌道に乗せるのは大変だよ」

 露崎は唇の端を上げて、「さあ、どうするの?」と言った。

 ミコトは二人に頭を下げると、自転車のキーを持って外に飛び出して行った。

 外はいつの間にか、雨になっていた。風を伴って吹き付ける春の雨が、ミコトのメガネを曇らせた。

飯田はきっとタクミ商会に小切手を返しに行ったに違いない。自分が無知なばっかりに、また飯田に迷惑をかけてしまう。ミコトは悔しくて涙が出そうだった。

 ほとんど役に立たないメガネを外し、ぼやけた視界のまま、タクミ商会へと自転車を走らせた。


            *


「返せといわれてもねぇ、飯田クン。そちらが勝手に渡したんでしょ。私は領収証をくれなんて、一言も言ってないわよ」

 そう言って、女社長は飯田の整った顔を楽しそうに覗き込んだ。ボルドーのスーツの胸元から、豊かな谷間が覗いても、飯田は顔色一つ変えない。その様子を見て、女社長は面白くなさそうに言った。

「それに、領収証はもう金融機関に回してしまったわ」

「金を、借りたんですか」飯田の目が大きく見開かれた。

「いやだ、そういう言い方。融資してもらったのよ。公共料金の領収証はまじめに商売をしていますって証明になるからね。信用に値するってわけ」

 あなたの所のレシートって、すごく魅力的よね……と言って、女社長は飯田のあごに手を添えると、チュッと音を立ててキスをした。

「キミがそんな堅気の制服で現れた時には、さすがに驚いたけど……ま、これからも仲良くやりましょうよ」

 飯田は無表情な顔のまま、汚らわしいと言うように、袖でぐいと口を拭った。ドアのそばに立って、じっとこちらを見ていた田村が、ハッとしたように女社長を盗み見た。女社長は飯田の態度に、唇の端を引きつらせて言った。

「せっかく可愛がってあげてるのに、ナマイキな坊やね」

「領収証が無いなら、もうここには用は無い」

 飯田はスッと立ち上がった。

「どうするつもりなの?」女社長は鋭い口調で言った。

「あんたの融資元に行って、領収証を回収する」

「何処で借りたかなんて、知らないくせに」女社長は、鼻先でフフンと笑った。

 飯田は女社長に向かって、ふてぶてしい態度でニヤリと笑い返した。

「調べる方法はいくらでもあるんだよ。……なにしろオレは、元オレンジファイナンスの取立屋だったんだから」

 不敵に微笑む飯田を見て、女社長はギリリと唇を噛んだ。

と……その時、ノックと共にドアが開き、ずぶぬれのミコトが駆け込んできた。

「お願いです、お願いです。領収証、返してください。僕がいけないんです」

 飯田は驚いて目をみはった。

 篠原、バカヤロウ! のこのこ来やがって!

 飯田が動くより、田村の方が一瞬早かった。 田村はミコトを羽交い絞めにし、あごの下に回した腕に力を込めた。

「く…くるし……」

 メガネも掛けずに飛び込んで来たミコトは、何が起きたのか解らず、パニック状態になって目を白黒させた。

 女社長が高笑いした。

「あーはっは。なーんていいタイミングなんでしょうね、飯田クン。ヘタな真似したら、田村がうっかり怪力を発揮しちゃうかもよ」


 飯田とミコトは応接セットに座らされ、目の前に書類を突きつけられた。

 出入り口には、田村のほかにあと二人、合計三人の男が立って、こちらを睨んでいる。事実上の軟禁状態だった。

「この念書に、早くサインをちょうだいよ」

 女社長はワイン色のマニキュアを塗った爪で、テーブルの上の書類をチョンチョンつついた。

「暴力団と取引なんか、しねえよ」

 これだけヤバイ状況にも係わらず、落ち着き払っている飯田に、ミコトは内心舌をまいた。

「取引じゃないわ、確認事項よ。あの領収証にはもう手を出さないって事と、今回は小切手の期日まで、電気代の件はどんな事があろうと持ち出さない。たったそれだけよ」

 お互いイイ関係を保ちたいし……と言って、女社長は妖艶に笑った。

「小切手の期日は一ヶ月も先じゃねえか。その間、さらに四月分の電気代が発生する。もし、小切手が不渡りになったら、即刻電気止まるぜ」飯田がギロリと女社長を睨んだ。

「脅したって無駄よ。予告もせずにいきなり止めたりしない事くらい知ってるわよ。それに、うちはパチンコ店よ。営業中に電気切ったらお客への迷惑料込みで、たっぷり補償金払ってもらうわよ」

 切れるものなら、切ってごらんよ! と女社長は本性を露わにして凄んだ。すごい迫力に、ミコトは思わず目をつぶった。

 女社長を睨んだまま、飯田はぐっと唇を噛んだ。その表情に満足したのか、女社長はフッと表情をゆるめた。

「わかったら、早くサインして」

 飯田は腕を組んだまま動こうとしない。その様子を見て、彼女はミコトに向き直った。

「じゃあ、あなたでいいわ。そういえば、さっきの領収証もあなたの印鑑だったものね」

「絶対サインするなよ、篠原」飯田が横から口を出す。

 パシッ! 女社長は飯田の頬に平手打ちをした。

「あ!」ミコトは思わず声を上げた。

「ん? どうしたの、メガネの坊や」

「ぼ、暴力振るうと、傷害で、け、けーさつ呼びますよ」ミコトは震える唇で、絞り出すように言った。すると、入口に立っている田村が面白そうに言った。

「サツを呼ぶ前に、ここから無事に出られるといいな」

 ミコトの顔からサーッと血の気が引いた時、来客を告げるチャイムが鳴った。

「すみません、警察ですけど」

 覗き穴から覗いた田村が顔色を変えた。

「社長、本物の警察ですよ」

 とんでもなくいいタイミングに、女社長は物凄い目つきで飯田を睨んだ。飯田はミコトの腕をつかんで立ち上がると、素早い動作で田村の横をすり抜けてドアを開けた。

「ご苦労様です」飯田はニコニコしてドアの外の警察官に挨拶をした。そして、何事も無かったように、女社長に向き直って言った。

「どうも長居して申し訳ありませんでした。それでは、当社は規定どおりに手続きを進めさせていただきます。毎度ありがとうございました」

 ミコトは訳がわからず、飯田の後について雑居ビルを出た。とにかく偶然いいタイミングで警察が来てくれて良かった。

 二人の後からビルを出てきた警察官は、飯田を呼び止めて免許証の提示を求めると言った。

「困るよ電気屋さん。車をあんな停め方したら交通の邪魔になるよ。今回は大目に見るけど、次やったら、レッカー移動するよ」

「どうも申し訳ありません」飯田は笑いながらペコペコと頭を下げた。

 ミコトが車の方を見ると、それはほとんど路肩に寄せぬままに停めてあった。作業中の札を出していても、これじゃあ警察が怒るのも無理は無い。

 パトカーが行ってしまうと、ミコトはホッと胸を撫で下ろして言った。

「本当に良かったですね、警察」

「ああ、駐禁覚悟だったけど、お咎め無しってヤツだな」

え……? それって……

「まさか、飯田さん 警察の人が呼びにくるのを見越してこんな迷惑駐車を?」

「実際に事務所まで呼びに来るとは期待してなかったけど、会社に連絡ぐらいは行くかなってさ。そうしたらきっと誰か来てくれるし」

 ミコトは改めて飯田の機転に驚いた。

 それに比べて自分は……。

 何にも考えず暴力団の事務所に乗り込んで行って、逆に捕まってしまうなんて。小切手の事でミスをした上に、足手まといになってしまった。

「飯田さん、ごめんなさい。迷惑掛けて、ごめんなさい。オレ……」

 メガネをはずして涙を拭っているミコトの頭に、飯田の手のひらがポンと乗っかった。

「自転車は駐禁切符、切られないと思うから、どこか邪魔にならない所に置いて来い。雨がひどいから車に乗れよ」

 仕方ないな、と言う彼の口調の中に温かなものが混ざり始めている事に気付き、ミコトは曇ったメガネを拭きながら、飯田の顔を盗み見た。

 こっぴどく叱られるかと思っていたのに、意外だった。

 ミコトはクスンとひとつ、鼻をすすって助手席に乗り込んだ。


 雨はますますひどくなった。

 フロントガラスに叩きつける雨粒を見ながら、ミコトは働き始めた頭で必死に考えていた。失敗は反省し、そして二度と繰り返さぬことだ。泣いてなどいられない。

 会社に向かおうとする飯田に、ミコトはおずおずと話しかけた。

「あの、飯田さん。じつはオレ、二件ほど約束してしまったところがあるんですけど」

「え? 何時にどこだ?」飯田が嫌そうな顔でチラリとミコトを見て、また前方に視線を戻す。

「自販機の会社。金をカウントする機械を持っていかなかったので、後で行くって言っちゃったんです」

「機械はこの車に積んであるから、そこは後でオレが行く。おまえは別のところを……」

 言いかけた飯田を遮って、ミコトは激しくかぶりを振った。

「オレが約束したから、オレが行くんです!」

 とにかく、最後まで責任を持つこと……昨日、露崎が言っていたではないか。

 何だか変に気合が入っているミコトの様子に、「まあいいか」と頷いて飯田は『加藤シゲゾウ商店』に向かう為に、交差点を左折した。


 再び自動販売機の並ぶ『加藤シゲゾウ商店』を訪れたミコトは、飯田と共に立て付けの悪い事務所のドアを引き開けた。

「こんにちは、帝都電力です。先程はどうも」

 さっきコーラをくれたおじさんが、事務机から顔を上げた。

「電気屋さん? 何で二人?」おじさんは怪訝そうな顔をした。ミコトの背後から飯田が首を伸ばして挨拶した。

「加藤さん、ドモ!」

「ああ、飯田さんか。びっくりした。以前電気を止められた時、二人連れで来た事を思い出してしまって」おじさんはホッとしたようにニコッと笑って、硬貨入りのバケツを取りに奥へ引っ込んだ。

「いつもと違う顔ぶれだと、お客さんが怪しむ。特に金に関係する事はな。良く覚えておけよ」飯田がボソリと言った。

 ああ、そういう事にも気をつけないといけないのか。信用を得るのは大変なのに、信用を失うのは簡単なんだと気がついた。

 飯田は電気料金を数えて集金をし終わると、機械を置きっぱなしのままで事務所を出た。

 雨の中、自動販売機のドミノを横目で見ながら、ミコトは飯田に追いついて声をかけた。

「飯田さん、機械、忘れてる! 取りに行かないと」ミコトが引きかえそうとすると、飯田は彼の襟首をはっしと掴んだ。

「いいんだよ」

 どうして? と首をかしげるミコトの耳元に唇を寄せて、飯田は囁いた。

「誰にも言うなよ」飯田の吐息が耳にかかり、ミコトはビクッと肩を震わせた。

「あそこは売り上げのほとんどがジャラ銭なんだ。だけど、あの機械はすごく高いから、毎月おやじさんが手で数えて入金している。それで、気の毒だから、忘れたフリして毎月貸してあげることにしたんだ」

「じゃあ、カードに書かなかったのはわざと?」

 飯田が頷いてミコトに傘を差しかけた。

「会社の備品を他人に貸し出すのは違反だ。あれは、オレが勝手にしていることだ。担当が変わった時、引き継いだりしない事は、加藤さんも承知している」

 ミコトは改めて飯田の事を、尊敬のこもった眼差しで見詰めた。

 ミコトの熱い視線を感じたのか、飯田は咳払いすると照れ隠しのように軽口を叩いた。

「ま、こうやって恩を売っておくのも、何かあった時、有効なんだぜ。これも覚えておきな。坊や」

「坊やって呼ぶな!」

 膨れるミコトに向かって「アハハハ」と笑うと、飯田は車に乗り込んだ。

「さて、一旦会社に戻るか」

 エンジンをかける飯田に、申し訳無さそうにミコトが小声で囁いた。

「飯田さん、実はもう一件あるんです……」

「んああ?」飯田の形の良い眉が、片方だけ吊り上がった。

「被害妄想の変人の家」

 飯田はがっくりとハンドルに突っ伏した。

 被害妄想の変人こと『カネモチ フク』の訪問時間は四時半だ。まだ時間があるということで、先に飯田の用事を済ませることになった。

「どこに行くんですか?」

 ミコトの問いに答えず、飯田は運転しながらタバコに火をつけた。

 立ち昇る白い煙越しに、飯田の端正な横顔を盗み見ながら、ミコトは密かに決心していた。

 料金課のほとんどの人間が、飯田をどう思っていようと、自分の尊敬できる先輩はこの人しかいない。何があっても飯田について行くぞ、と。


 飯田は商店街の一画に車を停めると、「駐禁取られるといけないから、車内で待っていろ」と言い置いて近くの建物へ入って行った。

「帝都ガス?」

 看板を見て、ミコトは首をかしげた。いったいライバルとも言うべきガス会社に、何の用事なのだろう?

 五分もしないうちに飯田は戻ってきて、「次行くぞ」と言って商店街を離れた。

 雨はだいぶ小降りになってきたが、小学生の集団が傘をさしている所を見ると、まだ傘がいらないほどではなさそうだ。飯田は信号の無い横断歩道で小学生の列に道を譲った。

 ぞろぞろとつながって横断する小学生を眺めながら、飯田はボソリと言った。

「次のところ、お前も来い」

 飯田が自分の現場に、自らミコトを同行させるのは、初めてのような気がする。何だか少し認めてもらえたようで嬉しかった。

 いったい何処なんだろう、と考えているうちに、飯田は小学校の正門前に車を停めた。

「降りろよ」

「え? ここ、小学校ですけど……?」

 飯田は車をロックすると、正門から一番近い校舎に向かって歩いて行った。

 正門から出てきた子供たちが、帝都電力のロゴ入りの看板車を見て、でかい声でCMソングを口ずさんだ。

「てーいーとーで~ん~りょく~」

 ミコトはなんだか気恥ずかしくなり、顔を隠すようにして飯田の後を追った。

 昇降口を入ると、すぐ横に事務室の窓口がある。飯田は事務員と窓越しに二言、三言話した後、スリッパにはき替えて廊下を進んだ。ミコトも事務員に頭を下げると、飯田に続いた。

 小学校に足を踏み入れるのは何年ぶりだろう。飯田とミコトは廊下に貼り出された、たくさんの水彩画や、墨で半紙に書かれた「明日の光」という書道作品の列を眺めながら、職員室を目指した。

 事務から連絡が行っていたのだろう。職員室の前に、中年の女性教師が立っていた。上下紺色のジャージ姿で、いかにも先生らしく、化粧っ気が無い。

「こんにちは、こちらへどうぞ」女性教師は、職員室の並びの空き教室へ入って行った。

「こんにちは、帝都電力で支払いを担当しています、飯田です」飯田は女性教師に名刺を渡した。飯田にヒジでつつかれ、ミコトも名前だけ名乗った。

「同じく、帝都電力の篠原です」

 女性教師は「どうぞ」と子供用の机を指さして、二人に座るようにうながすと、自分も椅子を一つ引き寄せた。困ったような顔をして、名刺と飯田の顔を交互に見ていた女性教師が、口を開く前に飯田が話しはじめた。

「水沢カナちゃんの担任の先生ですよね」

「はい、水沢カナは私のクラスの生徒です」

「先生、週に一度ずつカナちゃんのお宅に行ってますよね」

 ミコトは二人のやり取りを少しはなれた位置で聞いていた。

 水沢? ミズサワ……ミズサワ……どこかで聞いたような?

「はい……不登校になってしまって、算数と国語のプリントだけでもやってほしいと思い、いつも金曜日に……」

「ご両親とは会いましたか?」

 飯田の言葉に女性教師は明らかに警戒の色を強めた。なぜ電気屋さんに生徒のプライバシーに関することを訊かれなければいけないのか、そんな顔だ。飯田も、先生の表情から察したのか、自分の方の話をしはじめた。

「じつは、先日電気料金を集金に行ったのですが……水沢さんのお宅は、かなり滞納していまして」

 女性教師がハッと目をみひらいた。

 べつに先生に払ってなんて、いいませんよ! と、飯田は見た事も無いような優しげな顔をして見せた。

「カナちゃんが出てきて、修学旅行の積立金を払おうとしたんです」

「ええ?」女性教師はさすがに動揺した様子だった。

 ミコトは話を聞いていて、ようやく思い出した。電気を止めないで、と涙を流していた小学生のことを。

 飯田はカバンから顧客カードと帝都ガスのマーク入りの書類を取り出した。

「ボク、ずっと水沢さんの家を担当してるんですけど、ここ数ヶ月、いつ行っても、カナちゃんしかいないんです」

 顧客カードには、行った日付と時間を記入する事になっている。飯田は先生にカードを見せ、さらにガス会社の書類も見せた。ミコトも書類を覗き込む。

「ボクも、頻繁に行っているわけではないので、ガス会社の人にも資料を借りてきたのですが」

 ガス会社の書類も、同じように行った日付と時間と交渉内容が載っていた。それは、どう見ても帝都ガスの社外秘だ。飯田はいったい誰から借りてきたのだろう? 外勤者同士のコネがあるのだろうか?

ミコトは関係ないことで絶句する。

 先生は観念したように話し出した。

「実は、カナちゃんのご両親と連絡がつかないんです。勤め先に電話をしたら、お辞めになっていて。でも、カナちゃんには連絡が入るらしくて、行方不明というわけでもないらしいのです。心配して、何度もあの子の所に行ったのですが、生活費も銀行から下ろしているから、先生には関係ないと言われて」

 行方不明ではない、と娘が言うのだから警察にも行けず、キチンと生活もしていると本人が言い張るのだから、福祉のほうでも様子を見るだけだし、先生もさぞ困っていたのだろう。

 飯田が言った。

「たぶん、お金が底をついたのかもしれません。ガスは先日止められてしまったそうです。昨日訪問したときは、何も食べていない様子でした」

「ああ、何てことでしょう!」先生はハンカチを取り出して目頭を押さえた。

「これだけ資料があるなら、行政の方も動くと思いますから、すぐにでも児童福祉課に行ってください。これは二一八条・保護責任者遺棄です。犯罪ですよ」

「犯罪」と聞いて、先生は慌てふためき、資料を持って校長室へ行ってしまった。

「んじゃ、用事は済んだから、ババアのところに行くか」

 よっこらしょ、と子供用の椅子から立ち上がると飯田はちょっと身をかがめるようにして空き教室を出た。

 ミコトは放心していた。

 飯田は、あの少女の家に毎日行ってたのだ。自分はあの時お金をもらわなかっただけで「いい事した」みたいに満足していたけど、その後あの子がどうしてるかなんて、考えなかった。それどころかすっかり忘れていた。


 外に出ると、雨は上がっていた。夕方の空は紫色の雲がひろがっている。ミコトは飯田の背中に向かって声をかけた。

「あの子、かわいそうですね」

「まあな、親が悪いって言えば、それまでだけど、周りの大人もいけねぇよな。本当はもっと早く助けてほしいって顔、してたと思うぜ。でも、あの年頃はビミョーだからな」

 ミコトが考え込んでいると、飯田が振り向いて言った。

「昨日、食いもん買って覗きに行ったら、あのコ、何て言ったと思う?」

 ミコトが首をかしげると、飯田は吐き捨てるように言った。

「お金が無いから、体で払えばいいですかって……。まさかそんな事、要求された事があるのかなんて、恐ろしくって訊けなかったよ。誰も信用しなくなる訳だよな」

 ハァ……とため息をついて、飯田は車に乗り込んだ。

 なんだかどんよりとした空気のまま、二人は「被害妄想の変人」こと『カネモチ フク』の家に向かった。

 ぼうっとしていたミコトは、飯田が車を停めて「降りろ」というまで、まったく周りの風景が目に入っていなかった。窓の外の風景は『カネモチ フク』の家ではない。

「降りろって、……え?」

そこはあの怖い暴力団事務所、タクミ商会のそばだった。ぐずぐずしているミコトに、飯田は冷たく言った。

「おまえ、ここで降りて自転車で行け。雨、上がったし。ババアと約束したのはお前だからな。……オレは他に行く所がある」

「ええー? 飯田さん、行かないの?」

 飯田はニヤリと笑い、長い手を伸ばして助手席のドアを開けると、ミコトを車外に追い出した。

「クソ、ふむなよ!」と、親切なセリフを残し、飯田の運転する車は見えなくなった。ミコトは呆けたようにしばらく佇んでいたが、ふっとタクミ商会のビルが目に入ると、正気に返った。

「また、怖いお兄さんに捕まったら大変だ」

 ミコトは近くに置いておいた自転車に乗って、すばやくその場から立ち去った。


『カネモチ フク』の家についたとき、四時半を少し回っていた。

 ミコトは自転車を脇に停めて、カネモチさんの家の門を開けた。猫の糞を踏まないように、足元を見ながらゆっくり足を踏み入れた途端に、頭上から何かが落ちてきて、足元の地面に当たって飛び散った。

「うひゃあ!」ミコトはビックリして飛びすさった拍子に、水溜りに右足を突っ込んでしまった。落ちてきた物を確認し、自分の右足を救出して、それからゆっくりと顔を上げた。

 落ちてきた物は生卵。右足は靴下までびしょ濡れ。そして二階の窓から顔を出している老婆は、歯の無い口元でニッと笑ったように見えた。

「カネモチさん! いきなり何するんですか!」ミコトは腹が立ってきた。

 さっきはネコ糞を踏まされ、今度は卵攻撃。いったい何なんだ!

「あんた、約束を守らなかったね」

「約束?」ミコトは怒りを堪えて、老婆を睨み上げた。

「四時半に来るって言っただろ。もう四時四十三分だ」

 ミコトは二階の老婆を見上げたままキョトンとした。彼の様子に、老婆はイライラした口調で怒鳴った。

「四時半って言ったら、ぴったり四時半に来なきゃ約束違反だ」

「え……だ、だって十分やそこら遅れたからって……」

「ダメだ、ダメだ!」老婆はキーキー喚いた。

「約束の日から一日遅れただけで電気止めるくせに、何言ってんだ。今日は払わない。あたしのせいじゃないよ、おまえが悪いんだからな!」怒鳴り散らして、老婆はぴしゃりと二階の窓を閉めてしまった。

 その後ミコトは何度も玄関から呼んだが、とうとう『カネモチ フク』は姿を見せなかった。

「何だよ! くそババアめっ」

 ネコフンは踏まなかったが、右足はびしょ濡れで気持ちが悪かった。ミコトは右の靴下だけ脱ぐと、作業ズボンのポケットに突っ込んだ。あまりに悔しいので、こうなったら金をもらうまで、毎日しつこく来てやろうと決心した。

 ミコトはカネモチフクの玄関先で、ありったけの大声で叫んだ。

「今日は帰るけど、明日 また来るぞ!」 

 二階のカーテンがふわりと揺れた。



『カネモチ フク』の家の話をすると、飯田は大爆笑した。

「だっせーな、おまえ!」

 笑いすぎて涙目の飯田に、ミコトは顔を真っ赤にして怒鳴った。

「そもそも飯田さんにだって、責任あるんですよ! 素直に車で乗せて行ってくれたら、時間に間に合ったんですからっ」

 背後で二人のやり取りを聞いていた先輩の岩佐が、笑いを堪えながら言った。

「あのばあさん、まだそんな事やってるのか」

え? と言う表情で振り返ったミコトに、岩佐が面白そうに言った。

「担当が変わると、最初の三回くらいは絶対払わないんだよ。だから、もし篠原が間に合ってたとしても、何かテキトーな理由つけて払わなかったと思うよ」

 ミコトはすごい勢いで、今度は飯田の方を振り返った。

「飯田さんもその事、知ってたんですか?」

 ニヤニヤ笑いの飯田の顔が全てを物語っている。ミコトはあまりの事に、呼吸困難になりかけた。

「ひ、人が悪いにもほどがある! ちょっと教えてくれればいいのに」

「ネコ糞と、タマゴと水溜りか。すげえな、三つ揃って大当たりだ。アハハハ」

 飯田の軽口は、いつもの事だ。でも、今日のミコトは心身ともに疲労しきっていた。

「今日はオレ、三つどころじゃないっす……」

 ミコトはボソリとつぶやくと、飯田と岩佐に背を向け、唇をグッと噛んでフロアを出て行った。


 ミコトがトイレで顔を洗って戻ってくると、デスクの上に肉まんとペットボトルのお茶が乗っていた。

「あれ?」誰がくれたのだろうと見回すと、飯田が同じペットボトルのお茶を飲んでいるのが見えた。今日は忙しくて、昼ごはんも食べないうちにもう夕方だった。

「飯田さん?」ミコトが肉まんをつまみあげると、飯田が器用に片目をつぶって見せた。

 肉まんくらいで、懐柔されると思ったら、大間違いだぞ、と心の中でつぶやいて、ミコトはそれをほおばった。

「うまいっ」昼抜きの肉まんはめちゃめちゃ美味かった。夢中で食べ終わる頃には、ミコトのご機嫌もすっかり直ってしまっていた。

 


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