9.奪われた香り、揺れる真実
ジュードが香水瓶に手を伸ばすのを、私は静かに見つめていた。
彼の指先が、そっと香水瓶の蓋になぞる。
その動きはまるで、大切な記憶に触れようとするかのように、慎重で、やさしかった。
瓶は小さく、手のひらにすっぽり収まるほどのサイズだ。
すりガラスでできた柔らかな曲線には、白金で繊細な蔦模様が描かれ、中心にはごく控えめに王家の紋章が刻まれている。
光が差し込むと、淡く乳白色に透けて見え、まるで彼女の面影がそのまま閉じ込められているようだった。
彼は蓋を開け、そして、静かに香りを吸い込んだ。
一瞬で、空気が変わった。
ジュードの顔に浮かんだのは、驚きと懐かしさ。
そして、深い感動だった。
「……これは」
こみ上げる想いを押し殺すように、彼は静かに口を開いた。
「間違いない。姉上の香りだ」
私は黙って見守ることしかできなかった。
ジュードはそのまま目を閉じ、香りを抱きしめるように、深く息を吸い込む。
「庭園で、本を読んでいた姉上の隣に座ったときのこと……」
ぽつりと、彼は語り始めた。
「静かで、あたたかな風が吹いて。やわらかな花の香りと共に、姉上の香りがふわっと僕の鼻をかすめる……。あの瞬間が、僕は本当に大好きだったんだ」
私はそっと目を伏せた。
この香りは、たしかにクレアを思い出させてくれる、かけがえのない記憶だ。
「君が、ここまで再現してくれるなんて……本当に、ありがとう」
その言葉を最後に、ジュードの目から、一粒の涙がすっと零れた。
私の胸がきゅっと締めつけられた。
彼の姉への愛情の深さを、まざまざと見せつけられたのだ。
それと同時に、私が見てはいけない彼の領域に触れてしまった気がした。
「殿下……」
声をかけようとしたそのとき。
ジュードが、ふいに私を抱きしめた。
「……っ!」
驚きとともに、身体が一瞬、硬直する。
けれどその腕は、やさしくて、震えていた。
「ありがとう、エマ。……本当に、ありがとう」
胸元に顔を埋めた彼の声は、かすかにかすれていた。
私はどうしていいかわからず、ただじっと、そのぬくもりを受け入れていた。
――あたたかい。
心まで包み込まれるような、そんな感覚に、私は思わず目を閉じる。
鼓動が、どんどん早くなっていく。
(だめだわ。彼は私の正体も知らないのに……)
思わず、そっと彼の胸に手を置いた。
拒むというよりは、気持ちを落ち着かせたくて。
そのとき、ジュードが小さく息をついて、私からゆっくりと身を離した。
「でも、やっぱりこの香り……」
彼の表情が、ほんの少しだけ曇った。
「姉上の香りは、確かにこれだ。でもこの香りを、最近別のひとから感じたんだ」
ジュードは私をまっすぐに見つめたまま、静かに告げた。
「第一王子の、新しい婚約者。聖女ヴァネッサ。彼女が、この香りをまとっていた」
その名を聞いた瞬間、背筋がぞくりとした。
聖女ヴァネッサ。
私からすべてを奪った人物。
そして、この世界の乙女ゲームの主人公。
彼女が、あの香りを?
私とクレアしか知らないはずの、秘密の香りなのに。
「そのときは、似ているだけだと思った。でも、今こうして君の作った本物を嗅いで、わかった」
ジュードの声は静かだったけれど、その瞳の奥に宿った光は鋭かった。
「彼女は、姉上の香りを盗んだ。まるで、姉になり替わるように」
私は言葉を失った。
それは、真実を知る私にとって、あまりにも重い告白だった。
(でも、ジュードに言えるわけないじゃない。私の正体なんて)
心臓が張り裂けそうだった。
私は動揺を隠すように、震える指先をそっと握りしめる。
どうしてヴァネッサが、この香りをまとっているの?
この香りは、クレアだけのものだった。
奪われるはずなんて、なかったのに。
私は、自分の中で膨れ上がる怒りと悲しみを、必死に飲み込んだ。
嫌な想像が頭の中に広がっていく。
もしかしてあの聖女が、クレアを殺したのではないだろうか。
そして、私をおとしいれ、彼女の香りまで奪おうとしている?
もしもそれが真実だとしたら、私はどこまで奪われれば気が済むのだろう。
それでも。私は、何も言えない。
“エマ”という名で生きる私が、“エメリナ”だったことを明かした瞬間、すべてが崩れて去ってしまう。
ジュードの信頼も、彼のやさしさも。
きっと戻ってはこない。
私には、証明するものがない。
ただの言葉だけで、「クレアを殺したのは私じゃない」と訴えたところで、誰が信じてくれるだろう。
それよりもきっと、「王都から追放された公爵令嬢が、嫉妬心から聖女を貶めようとしている」と受け取られるのが関の山だ。
唇を噛みしめる。
どうすればいいのだろう。
私は、声を上げることもできずに、心の奥で叫び続けていた。