33.過ぎ去りし日々と今の狭間で
私はダナヒューからの手紙を何度も手に取り、じっと見つめていた。
ただの紙切れに過ぎないのに、その重さが手のひらにずっしりと伝わってくるようだった。
かつて婚約していた第一王子の筆跡。
その文字を見るたびに、忘れかけていた記憶や感情が胸の中でざわめき始める。
期待も、不安も、戸惑いも混ざり合って、心が揺れていた。
この手紙が何を意味するのか、私はまだはっきりとわからなかった。
「行くしか、ありませんね」
言葉にすると、覚悟がよりいっそう重くのしかかってくる。
胸の奥に絡みつく複雑な感情を必死に押し込めながら、私は静かにジュードへと視線を向けた。
ジュードは言葉を発さず、ただ静かにうなずいた。
その沈黙の中に、彼の強い覚悟がはっきりと伝わってくる。
君の安全は僕が守る。
言葉にしなくても、その強い決意が全身から放たれていた。
彼は既に可能な限りの護衛を手配し、万全の態勢を整えてくれているのだろう。
その思いやりに胸が熱くなる。
けれど同時に、私の中に緊張と不安の波が押し寄せてくる。
何が待ち受けているのか、何が起きるのか、全く見当もつかない未来への恐怖。
私は深く息を吸い込み、気を引き締めた。
***
王宮の重厚な扉を静かに開けると、中は予想以上に静寂に包まれていた。
薄く差し込む窓の光が淡く室内を照らし出し、その中でダナヒューがひとり、椅子に腰掛けていた。
彼の姿は昔と変わらず凛としていて、その佇まいはまるで時間が止まったかのようだった。
しかし、その表情は冷静ながらも、どこか複雑なものを感じさせた。
ダナヒューの瞳は、いつもの鋭い光を保ちながらも、どこか遠く、届かない場所を見つめているようだった。胸がぎゅっと締めつけられる。
その目が私と交わった瞬間、懐かしさと切なさ、そして言葉にならない重みが心の奥底まで押し寄せてきた。
長い時間が経っても変わらない何かと、すれ違ってしまった現実がそこにあった。
私は静かに息をのみ、覚悟を胸に彼の前に立つ。
「……エメリナ、久しいな」
その言葉を口にしたダナヒューの声は低く、いつになく重みがあった。
彼はしばらく視線を落とし、言葉を探すように目を閉じる。
「なにを話そうか色々と考えていたんだが、こうしていざ対面すると、うまく言葉が出てこないものだな」
言葉を絞り出すように告げた後、ダナヒューは指先をテーブルの縁に滑らせた。
少しの間だけ沈黙が部屋を支配する。
そのしぐさには迷いや逡巡が見て取れ、いつもの冷静で威厳ある第一王子の姿とは違う、人間らしい弱さが垣間見えた。
私は息をのみ、彼の表情の微かな変化を見逃さないようにじっと見つめる。
「正直に言うと、ヴァネッサと君、どちらを信じればいいのか分からない」
そう言った彼は、目を伏せて、深く息を吐いた。
重い沈黙が流れる中、私の反応をうかがうように、ゆっくりと顔を上げて私を見つめた。
「それは、当然のことだと思いますわ」
私はできるだけ穏やかに、感情を抑えて言葉を選んだ。
責めたいわけではなかった。ただ、事実を事実として受け入れているという気持ちが、自然と声ににじんでいた。
ダナヒューはその言葉に顔をしかめることもなく、静かに目を伏せた。
わずかに肩の力が抜けたのは、きっと、そう言われることをどこかで予期していたからなのだろう。
しばしの沈黙のあと、彼は小さく息を吐き、低い声で続けた。
「……姉上が亡くなったとき、俺は混乱していて、何を信じればいいのか分からなかった」
その声音には、自嘲めいた響きが混じっていた。
「だが、君が追放されたとき、君の言葉に耳を傾けなかったこと――それだけは、心から後悔している。本当に、すまなかった」
まっすぐ私に向けられたダナヒューの声音には、飾りのない悔いと誠意が込められていた。
私は一瞬、返す言葉を失いかけながらも、胸の奥に静かに湧いたものを受け止めていた。
「過ぎたことですから」
そう答えながら、私はほんの少しだけ微笑んだつもりだった。
もう終わった話だと、自分に言い聞かせるように。
過去を責めるつもりはなかった。ただ、もうそこには戻れないと、自然と気づいていた。
ダナヒューはその表情を静かに見つめていたが、やがて視線を外し、小さく首を振った。
彼の顔に浮かんだのは、わずかに寂しさをにじませた、苦いような微笑だった。
「……俺たちはもう、昔のようには戻れないんだな」
低く落とされたその声は、自分自身に言い聞かせるようで、どこか名残惜しさがにじんでいた。
けれど、それを否定する言葉は、私の中にももう残ってはいなかった。
かつて、私とダナヒューは確かに愛し合っていた。
未来を語り合い、肩を並べて歩いていた日々が、遠い記憶の中に静かに横たわっている。
あの頃のまなざしも、言葉も、ぬくもりも。
すべてがやさしくて、あたたかくて、そして今となっては、取り戻すことのできないものだった。
部屋の中には、言葉にならない空気が満ちていた。
もう、なにかを無理に伝えようとする必要はないのだと、どちらともなく悟っていた。
やがて、私たちは言葉少なに、静かに別れを告げた。
それぞれの想いを胸の奥にしまい込んだまま、背を向ける。
足音も、扉の音も、静けさに溶けていく。
名を呼ぶこともなく、手を伸ばすこともない、
その距離は、もう昔に戻らないことを語っていた。
けれど、確かにあった想いだけは、どこにも行かずに私の心の奥に残っていた。




