撤退
「こいつは不味いな……」
身の丈はある大剣を肩で担ぎながら、エネギオスは呟く。
それとほぼ同時だった。自分の後方に違和感があることに気がつく。エネギオスはそこに視線を向けることなく再び口を開いた。
「トルネオか?」
「はい……」
「撤退するぞ。殿は俺が引き受ける。お前は撤退の援護をしてくれ」
「はい……」
トルネオはエネギオスの言葉に頷くと、再び転移魔法でどこかに消えて行く。
配下の将を呼び寄せて撤退の準備を進めていると、エネギオスの周囲が急に騒がしくなった。周囲の将兵は上空を指差しながら、何事かをそれぞれが口にしている。
ちっ、早いな。
エネギオスは心の中で悪態をつく。
上空を見上げると五千、いや一万か。空を埋めつくすほどの勢いで、天使たちが舞い降りてきていた。
おそらく魔人の大軍も、やがては姿を見せることになるのだろう。
この数の魔人と天使。さすがに分が悪いと言わざるを得ない。
「いいか、お前ら! 撤退じゃねえぞ。逃げるんだ! 殿は四将筆頭、このエネギオスが引き受ける!」
エネギオスは言い放った。
総崩れになったバスガル侯が率いる左翼の状況も気になるが、クアトロたちも気になる。ヴァンエディオらがクアトロの近くにいる以上、最悪のことにはならないとは思うのだが。
その時だった。エネギオスの正面にある空間が大きく揺らいだ。一瞬、トルネオかと思ったが、どうやら違うらしい。
揺らぐ空間から現れたのは、エネギオスよりも三回りほど大きい体躯をした男だった。エネギオスはその男に向かって口を開いた。
「魔人か? 魔人はやたらに空間から現れるな。 お前らの住処は、その何もない空間か?」
「何も知らない魔族如きが、調子に乗りすぎだ」
男は見たことがないほどの巨大な斧を肩に担いでいた。
「お前らこそ、天使なんぞと手を組んだからって調子に乗るな。魔族を舐めるなよ?」
エネギオスが肩に担いでいた大剣を両手で目の前に構えた。
「馬鹿が。魔族が魔人相手に……」
「斬!」
エネギオスは魔人に向かって一歩踏をみ込むと、大剣を魔人目がけて振り下ろす。しかし、その大剣は魔人を捕らえることはなかった。地響きのような鈍い音を立てて、振り下ろした大剣の先端部が大地に深くめり込む。
その刹那、エネギオスの左肩口から鮮血が舞った。
どうやら簡単にはいかないようだった。
だが同時に面白いとも思う。
エネギオスはその顔に不適な笑みを浮かべるのだった。
「クアトロ様、ここは一度、引きましょう」
ヴァンエディオがクアトロにそう進言する。空を埋めつくすかのような天使たちを唖然として見ていたクアトロは、ヴァンエディオに赤い瞳を向ける。
「ふざけるな。俺が退くのは、魔族の皆が安全なところにまで逃げてからだ」
クアトロのその言葉にヴァンエディオは渋い顔をする。
「クアトロ様、やがて魔人たちも姿を現すでしょう。天使も魔人も狙いはアストリア様のはず。アストリア様がここにいるのは、危険だと言っているのです」
「ならば魔族の皆を見捨てろと?」
クアトロは強い口調で言葉を返した。アストリアが心配なのは当たり前だが、ここに集まった魔族の将兵たちを見捨てるわけにはいかない。彼らはアストリアを守るために集まったのだから。
「大丈夫よ、クアトロ」
マルネロがそんなクアトロを落ち着かせるかのように、ゆっくりとした口調で声をかけてくる。
「逃げ出す魔族には、手を出さないと思うわ。魔人も天使もアストリアが目的なのだから」
確かにマルネロの言う通りなのかもしれない。魔族の将兵がアストリアを守らずに逃げ出すだけであれば、魔人と天使たちからは執拗な追撃がないとも考えられる。
「分かった……マルネロ、将兵を可能な限り逃してくれ。頼むぞ」
マルネロは軽く頷くと、その場から立ち去って行く。
「ヴァンエディオ、アストリアとともに一度引くぞ。ダース、アストリアの傍を離れないでくれ」
ヴァンエディオとダースがほぼ同時に頷く。
「スタシアナ、エリンと一緒に……」
へ?
スタシアナさん?
クアトロがスタシアナに視線を向けると、スタシアナは手にしている杖をぐるぐる振り回しながら、ぷんすかと怒っていた。スタシアナの周りではエリンがあたわたと動き回っている。
「どうして天使たちがクアトロを虐めているんですかー?」
「スタシアナ姉様、少し落ち着いて。そんなに杖を振り回しては危ないですから!」
エリンはすでに悲鳴に近い声を上げている。
「むっきー! ミネルってば、もう許さないんですよー」
スタシアナはその漆黒の翼を広げると、杖を振り回しながら瞬く間に大空へと飛び立って行ってしまう。
「ま、待ってよー。スタシアナ姉様ー」
そんなスタシアナをエリンが慌てて白色の翼を広げて追って行く。




