65.めざめ
65.めざめ
ジグは消え去り、迷宮の入り口は完全に閉じた。
「うう〜ん」
駿河哲夫はうつ伏したまま、腕立てをしてその顔を上げた。
「いったい、私はどうしていたのかしら?」
橘由樹はまだ周囲の状況を整理出来ない面持ちで、ラビが変異していた少女の顔を見た。
「亜矢、無事だったのね。良かった」
少女が由樹の後ろを指差す。
「ううん、亜矢は、ほらママの後ろに……」
由樹が振り返ると、まだ眠ったままの亜矢が見えた。再び少女に向き直った由樹の目に映ったのは、娘と見紛った少女ではすでになかった。
「サラ、サラか?」
息を吹き返した趙は、その少女を抱き寄せた。するりとラビの体から抜け出したのは、逞しい二人の男だ。
「由樹、ただいま」
「あなた……」
「お邪魔かな? 俺は」
日高が懐かしい笑顔で二人を冷やかした。
「馬鹿言うな」
続いて美樹を分離すると、サラは趙に向き合った。
「もう少し、サラの身体には役目がある、すぐ済みます、ミスター・趙」
声で解った、サラの体を借りているのはやはりルツに違いない。
「ママ、亜矢ちゃんの中に行ってきます」
「その声はラビ、良かった……」
由樹は喜びの声を上げた、しかしラビの声は決して明るくはない。亜矢はまだ眠り続けていたのだった。
「サムル・チムール・ゲノレ……」
聞き取りにくい古い言語とともに亜矢の中にサラは入っていく。そして数分後亜矢の体がむくりと起き上がった。左右の半身が変異をはじめた。正確には左半身から奇妙なムチの様なものが伸び始めた。
「これが、シノの羽化なのか」
哲生がその姿に見入っていた。それは植物の発芽に似ている。しかし大きく違うのは「蛹化」した後に発芽するということだった。蛹の中で様々な遺伝子情報が絡み合い、新たなシードを作るのだ。そのシードは生きている、そしてたったひとつの「マスター・シード」は万物を生み出す「もの」に変異していた。
「あれは、なんだろう?」
趙がその枝葉のように茂ったミトコンドリアの管に絡まっている、ちいさな赤いまゆを見つけた。
「シノのブラック・ボックスだわ、こっちへ降りてくる」
サラがミトコンドリアの管をかき分けてようやく這い出てきた。降りてきたマユを受け取ると、そっと由樹に渡した。
「サラ!」
母はついに戻らなかったが、サラは趙に抱きすくめられて満面の笑顔だ。
「お父さん!」
「見ろ、羽化が終わった様だ。シノがまるで溶けるように消えていく」
哲生が再び亜矢の体に変わっていくシノを見てそう皆に伝えた。
「ミトコンドリアの管がすっかり無くなってしまったわ」
美樹が哲生に寄り添ったまま、そう話した。相変わらず眠り続ける亜矢とその赤いまゆを残し、シノは完全に消えてしまった。そして亜矢が目覚め、母が大事そうに抱えているマユを見つけて聞いた。
「ママ、それなあに?」
「うーん、そうね。お月様の落とし物かしらね?」
「変なのー」
「ロイヤル・スーパー・ムーンまでひと月、その時『86』は何かまた僕たちに教えてくれる」
雄馬はそう言い、由樹の肩を抱いた。
「来月、亜矢の家でみんなとお月見の会をしましょうね」
それを合図に各々は立ち去っていった。亜矢は由樹からマユをだっこする役を取り上げて、得意気に二人の後をついて歩いた。迎えの車が到着するまで、いい加減な子守唄を歌っていた。
「オモチャじゃないぞ、亜矢」
「だって、マー君ちの赤ちゃん、こんなのに入ってたもん」
「赤ちゃんにしたら大きすぎるだろ、ははははっ」
確かにマユは少し大きかった。しかも見かけよりも随分軽かったのである。




