第二章 ガラス細工の恋情
第二章 硝子細工の恋情
雨の日は嫌いだった。
窓を叩く音が、地下牢の滴る水音を思い出させるから。冷えた石床に座らされ、暗闇の中で自分の呼吸だけを聞いていた幼い頃の記憶が、湿気を含んだ空気に溶けて蘇るから。
セレナは窓辺に腰掛けながら、ぼんやりと灰色の空を見上げていた。
公爵家の屋敷は広い。広すぎるほどに広い。けれどそのどこにも、彼女の居場所はなかった。豪奢な調度品に囲まれた自室ですら、セレナにとっては美しく飾られた檻に過ぎない。磨き上げられた鏡も、天蓋付きの寝台も、赤いビロードの長椅子も、すべて「公爵令嬢セレナ・アンブレラ」を作り上げるための舞台装置だった。
「お嬢様、本日の茶会のドレスですが……」
侍女が恐る恐る話しかける。
セレナは振り返りもしない。
「赤」
「え……?」
「赤がいいわ。薔薇みたいな色。誰より目立つものを持ってきて」
侍女は一瞬だけ困ったように眉を下げたが、すぐに頭を下げて部屋を出ていった。その背中を見送りながら、セレナは薄く笑う。
――また下品だって言われるかしら。
でも、それでよかった。
地味な色を着ても、慎ましく笑ってみても、アレクシスは一度だって優しくしてくれなかったから。それならせめて、目障りなくらい鮮やかでいたかった。彼の瞳に映るのなら、嫌悪でもいいから焼き付いていたかった。
その時、扉がノックされた。
「セレナ」
低く落ち着いた声だった。
セレナの肩がぴくりと揺れる。
「……お兄様?」
扉の前に立っていたのは、ルカだった。黒髪を後ろへ流し、深紅の瞳をわずかに細めてこちらを見ている。整った顔立ちは冷たく見えやすいが、セレナには分かっていた。彼はアンブレラ家の中で唯一、自分を人間扱いしてくれる存在だと。
「また随分派手な色を選ぶな」
「いいじゃない。わたくし、赤が好きなの」
「いや、お前は嫌いだろう」
静かな声音だった。
セレナは一瞬だけ目を逸らす。
ルカは知っている。セレナが、本当は赤を愛していないことを。血みたいな瞳も、燃えるような金髪も、自分のことを“悪趣味で気持ち悪い”と思っていることを。
「……お兄様には関係ないわ」
「あるさ」
ルカはため息を吐きながら部屋へ入ってくると、窓辺のセレナの髪をひと房掬った。金糸みたいな巻き髪が彼の指に絡まる。
「お前はもう少し、自分を大事にした方がいい」
その言葉に、セレナは笑ってしまった。
からからと乾いた笑いだった。
「無理よ」
即答だった。
「だって誰も、わたくしを大事になんかしないもの」
ルカの眉が寄る。
セレナは気づかないふりをして、窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
灰色の空の向こうに、アレクシスの姿を思い浮かべる。騎士服を纏い、真っ直ぐ剣を握る彼の姿を。
きっと今日も美しい。
きっと今日も、わたくしを嫌っている。
それだけで胸が苦しくなるのに、どうしてまだ好きなのだろう。
「……今日は王宮の茶会だろう」
ルカが言った。
「ダイアナ殿下もいらっしゃる」
その名前を聞いた瞬間、セレナの睫毛が震えた。
ダイアナ。
第二王女。
陽だまりみたいな女。
茶色がかった赤毛は光に透けると柔らかく輝き、エメラルドの瞳は穏やかで、誰に対しても余裕のある微笑みを崩さない。気品があって、美しくて、人に愛されることに慣れている女。
アレクシスは、彼女の護衛騎士だった。
そしてセレナは知っている。
アレクシスがダイアナを見る時だけ、あの冷たい目を少し和らげることを。
胸の奥が、どろりと濁る。
「……嫌い」
ぽつりと零れる。
「ダイアナ様?」
「違うわ」
セレナは笑った。
「羨ましいの」
その笑顔は妙に幼かった。
「わたくし、ああいう風になれないもの」
ルカは何も言わなかった。
言えなかった。
アンブレラ公爵夫妻が、セレナをどう育てたか知っているから。愛されるどころか、失敗をすれば地下牢へ閉じ込められ、逆らえば鞭で打たれ、「醜い」「下品」「公爵家の恥」と言われ続けた妹が、まともな愛情表現を知らないことを知っているから。
だから彼女は、愛されたい時ほど相手を傷つける。
捨てられるのが怖いから、先に檻へ閉じ込めたがる。
セレナは窓に額を預けた。
冷たい硝子が心地良い。
「……アレクシスは、優しい女が好きなのかしら」
「さあな」
「わたくし、全然優しくないもの」
そう言って笑った横顔は、酷く寂しそうだった。
◇
王宮の茶会は、甘い香りに満ちていた。
焼き菓子。
花。
紅茶。
香水。
全部が混ざって、くらくらするほど甘ったるい。
セレナは深紅のドレスの裾を揺らしながら、ゆっくり会場を歩いていた。視線が集まる。囁き声が聞こえる。でももう慣れていた。
悪女。
嫉妬深い女。
恐ろしい婚約者。
そう言われるたび、胸の奥では小さな少女が泣いているのに、セレナは完璧な笑みで塗り潰してしまう。
「セレナ様」
柔らかな声がした。
振り向けば、ダイアナがいた。
淡い緑のドレスを纏った彼女は、春そのものみたいに穏やかだった。隣には当然のようにアレクシスが立っている。
その光景だけで、喉が苦しくなる。
「ごきげんよう、ダイアナ様」
「今日は一段と綺麗ね、そのドレス」
「ありがとうございます」
セレナは笑う。
綺麗。
そう言われるたび、胸が痛む。
アレクシスは一度だって、そんなことを言ってくれなかったから。
ダイアナはふと目を細めた。
「あなた、本当にアレクシスが好きなのね」
その瞬間、空気が止まった気がした。
アレクシスの眉が僅かに動く。
セレナは扇の奥で微笑んだ。
「ええ、愛しておりますわ」
迷いなく言い切る。
アレクシスは露骨に顔を顰めた。
それでもセレナは笑っていた。
だって、好きだから。
どうしようもないほど。狂っていると言われても構わないくらいに。
その時だった。
「アレクシス様、このあと少しお時間を――」
若い令嬢が声をかける。
瞬間。
セレナの赤い瞳が細くなる。
空気が張り詰めた。
令嬢の顔が引き攣る。
アレクシスは深くため息を吐いた。
「……セレナ」
「なあに?」
「頼むから黙っていてくれ」
その声音には、疲労と嫌悪が滲んでいた。
セレナは一瞬だけ目を見開き、それから、にっこり笑った。
「無理よ」
胸の奥で、何かが軋む音がした。まるで硝子細工に無理やりひびを入れるみたいに、静かで、致命的な音だった。




