第2章:ヒーローがカッコいいとは限らない
カーテンの隙間から差し込む光と、無造作に開けられた窓から舞い込む冷たい風に触れて瞼を開ける。
「なんで、窓開いてんだよ」
下の階からは忙しない足音や掃除機音などがしていて、今日から誠司さんと真桜ちゃんがこの家に越してくるんだということを思い出す。
ついにこの日が来たな、と思いながらスマホの画面を開くと真桜ちゃんからのメッセージが来ていた。
『今日からお世話になります』
メッセージが来ていたのは朝七時のことで、現在の時刻は十一時。
少し寝過ぎてしまったが、ベットから体を起こして真桜ちゃんへの返信をする。
『何時くらいに来るの?』
すぐに既読はつかなかった。
誠司さん達が改めて挨拶に来てくれた入学式の日。
真桜ちゃんに会ったあの日からメッセージは途切れることなく続いていた。
会話の節々で固さというか生真面目さは感じるけれど、メッセージでのやり取りは本当に普通だった。
だからこそ彼女の不登校という現状は両親の離婚やその他外的要因から連なる結果なんだと思えた。
部屋の隅に置かれた父の仏壇を見ながら静かに呟く。
「父さんなら見捨てないんだよな」
もし亡き父が真桜ちゃんと出会っていたのなら会話を重ねる選択をしているはずだ。勿論、母さんや誠司さんの選択だって本人を尊重するもので間違いではない。
むしろ、親のエゴを押し付けないような模範的な方針にすら思える。
「結局は父さんのやり方の方が間違ってんだよな。つーか、高二になって相部屋か。遺影とはいえ見張られてるみたいだな」
誠司さんは父の写真が飾ってあっても気にしない。正確には気にしていないように振る舞ってくれてしまうだろうと母さんが言っていた。俺もその意見には頷けた。
だから、今いる家族が誰一人我慢をしなくて済むようにと父の仏壇は俺の部屋に置かせてもらうことにした。
それからは俺も部屋の掃除やらを済ませて過ごした。
お昼を過ぎた頃、真桜ちゃんから『今着きました』という連絡が入り、母さんにも電話がかかって来て外に出ると、真っ赤に染められた艶やかな色地の車が止まっていた。
我が家にも駐車場はあるが既に軽自動車があるので母さんが別の駐車場を契約したとか言っていた。
「太陽。誠司さんを駐車場まで案内してくるから真桜ちゃんにお茶出してあげて」
そう言って助手席に乗り込む母と入れ替わりで後部のドアが開いた。
前回会った時よりもよそよそしく感じるが、それ以上に彼女の華奢な体に控えめな雰囲気と相反したオシャレなスカートに白を基調としたフリルの可愛い服装の破壊力がすごかった。
馬子にも衣装という言葉があるが、そういうレベルではない。
不覚にも見惚れてしまっていると「太陽、分かった?」という母からの声に我に返る。
「分かってる」
軽快なエンジン音を鳴らし走り出す車。すぐ目の前の十字路を右折したためあっという間に見えなくなり二人取り残された。
真桜ちゃんはやや大きめなリュックとキャリーケースだけを持っていた。
「荷物、それだけ?」
年頃の女の子の引っ越しがこんなに身軽に済むものなのかと疑問に思って尋ねてみた。
彼女は一瞬小さくだが口を開きかけ、でも声にする前に閉じてしまった。代わりにスマホの画面を操作しする。
俺のスマホにメッセージ通知が飛んできた。
『私はこれだけです』
「へー。ミニマリストなんだな」
そう呟くと彼女はコテッと頭を傾けていた。
あまり伝わらなかったのかな、と思いつつも「キャリーケース持っていい?」と許可をとってから家の中へと上がってもらった。
いや今日からはここが真桜ちゃんの家なんだ。
家に上がってからは持っている荷物をリビングのソファー横に置いてもらい、母さんから指示があった通りに麦茶を差し出した。
「こっちで座って休もうよ」
相変わらず声は発さないが、コクンと頷いてくれる。
我が家にはテレビもなく、この静けさに一秒の長さを教えられている気にさえなった。
その時、俺のスマホにメッセージ通知が来て画面が光る。どうやら母さんからのようだ。
『家に何もないから買い物して帰ってもいい?』
確かに何もない家だなと、先ほど麦茶を入れた時に思っていたところだ。
俺は全然いいんだけど…と思いつつ目の前でお茶を飲んでいる真桜ちゃんに声をかける。
「母さんと誠司さん買い物してから帰ってもいい?」
突然話しかけられたから肩を少しびくつかせていたが、すぐにコクンコクンと頷いていた。
その反応を見てから『全然大丈夫』と返信する。
となると、麦茶一杯で場を凌いで行く作戦が厳しいことになるな。何か手品の一つでも持っていたらよかったんだけど。
「なんか暇だね」
考えに考え抜いた結果、いつも通りの自分で接しようという結論に至った。
「真桜ちゃんてさ…。というか。呼び方は真桜ちゃんでいいの?」
そんな質問をしてからすぐにちゃん呼びしていることに対しての恥ずかしさが込み上げてきて、彼女の反応を待たずに「真桜? 妹? 妹ちゃん? 誠司さんの娘さん? あれ、どれが正解?」と一人でパニックになってしまった。
「分からない。俺の立場が分からない」
悶え苦しみながら声に出してしまうと、クスリと笑い声とは呼べない程の微笑みの音がした。
彼女は見たことない柔らかな表情でスマホを触り出した。
ピロン。
『名前なら好きな呼び方で大丈夫ですよ』
「そ、そっか。じゃあ、真桜で」
真桜はコテッと首を傾げて、なんで呼び捨てを選んだのかと尋ねているようだった。
「なんで呼び捨てなのか気になる?」
勢いなく頷くのが見えてから話し出す。
「友達はみんな呼び捨てなんだ。親の再婚で兄妹になったけどそれって形式的な話で兄妹のように振る舞わなくてもいいと思うんだよね。だったら、友達でいいんじゃないかなって」
そう告げると真桜はパアッと明るい表情を見せてくれた。前回の時とは全く違った顔をするものだから驚かされてしまった。
「今日は表情豊かだね。前に会った時はずっと無表情だったからさ」
すると、カタカタとスマホを触り出しすぐに俺のスマホが鳴る。
『沢山メッセージをしてくれたから』
だから慣れたってことなんだろう。でも、そうだとしたら。
「車から降りて来た時にはよそよそしくなかった?」
『それも、沢山メッセージをくれたから』
「メッセでやりとりしてた人と会うのは緊張するもんね」
コクンと大きく頷いてくれた。
うん。なんかあれだな。
話さないってことを問題視してしまっていたけれど、これはこれで小動物のような可愛さがあるんだな、と一人納得してしまう。
ピロン。
『荷物どうしたらいいですか?』
「ああ。確かに。休憩も出来たし、部屋まで案内するよ」
そう言って真桜を部屋まで案内することにした。
リビングを出てすぐの階段を上り、突き当たり左側の部屋が俺の部屋で右側が真桜の部屋になる。
元々は母さんが使っていた部屋だが、今では一階の余っている部屋にいることが多く誠司さんともその部屋でいいそうなので必然的に真桜に譲られることになった。
ドアを開けて中を見せると、また表情を明るくしていた。
何に対してそんな顔ができるのかは分からないがざっくりと中を案内した。
「ベッドも好きに使ってね。クローゼットも中は空にしてるし、あとは何だろう、特には無いかな」
対して説明するようなこともなかったが素直にうんうんと頷きながら訊いてくれていた。
「あと、この部屋机なくてさ。多分明後日くらいには届くと思うから、それまではどうしようか。俺の部屋の机とか使ってもいいし、リビングでもいいし、まあ自由に過ごしてよ」
一通りの話はしたし、荷物も運んだので流れ的には真桜が荷解きに入る感じかな。これで俺も一息つけると思い部屋を出ようとすると袖を掴まれて足が止まる。
「え? どうしたの」
まだ何か聞きたいこととかあるのかな、と思い訊いてみたのだが引き留めた方が動揺しているようだった。けれど、スマホを触り始めたので俺もメッセージを待った。
ピロン。
『私のこと聞かないんですか?』
たったの一行。そこに込められた不安とか疑念とか色んなものが感じられて言葉を選ぶ場なければいけないと感じ、口を開くまでに数秒の時間を要した。
でも、俺は器用な人間じゃ無いからのらりくらりと受け流して角が立たないように進行させる自信がない。
どこまでも実直に向き合い続けることしかできないんだ。そういう男の背中だけを見て育って来たから。
「正直気になってる部分は多い。何で話さないのか。それとも話せないのか、とか。学校に行かない理由は沢山あるのかもしれないけど、じゃあ何で進学校の東陵高校に進学したのかな、とか。でも、もし質問してもいいんだとしたら一番聞きたいのはさ、真桜はこれからどうしたい?」
正直、踏み込みすぎているとは自覚している。ただの他人が家族ぶるなとか思われたって何も言い返せないだろう。
真桜は出会った時のように表情を消して、真っ直ぐに見つめてきた。
怒っているようにも見えるし、必死に答えようとしてくれているようにも見える。だから下手に遮ることができずに我慢くべみたいな時間が流れていった。
やがて、彼女の方が視線を逸らしてスマホを触り出す。
ピロン。
『学校に行きたいです』
「それなら!」
ピロン。
『でも。無理なんです。私がどうしたいとか関係ないんです。私の気持ちなんか、どうでもいい』
「それって、どういう…」
バタンッと扉を閉められて一人取り残されてしまったような気分になる。
少し手を伸ばせば部屋の扉を開けるなんて容易いことなのに、それをさせなかったのは心と心の通り道を遮断されたように思えたからだろうか。
せめて最後に彼女の表情を見えていたのなら…と思いつつも何も変わらないかと肩を落とした。
それから一時間くらい経って母さんと誠司さんが帰宅した。
二人は結構な大荷物で、母さんが食材を冷蔵庫に詰めることに苦戦してムキになっているので俺は荷下ろしを手伝うことにした。
いや、ほんとご迷惑おかけします。って感じだね。
そんな中、誠司さんは気軽にかつ自然と会話を始めた。
「太陽君、悪いね手伝わせちゃって」
「全然大丈夫ですよ」
「てか、割と細身に見えたのに結構いい体してるんだね」
「そうですか? 一応中学まではバレーしてたんで」
「高校ではやらないの?」
「やらないです。プロになれるわけでもないのでここからは将来プラスになる選択をしないとですし」
そんな言葉を漏らしながら最後の荷物を家の中に入れようとドアを開ける。
荷物を玄関に置いてから誠司さんの方を振り返ってみると、先ほど真桜から向けられた表情が重なるような顔で見つめられていた。
「えっと、どうしたんですか?」
「いや、なんというか。あまりにも大人びた考えをしているものだから驚いちゃって」
「俺なんて全然ガキですよ」
「そうかな。僕としてはもっと子どもであってほしいと思うんだけどね。一人の大人として、それと父親としてね。というのは烏滸がましいね」
はははと笑いながら誠司さんは車へと乗り込んでいった。
俺は思わず車へと駆け寄り助手席のドアを開ける。
「駐車場まで着いていっていいですか?」
突然の申し出に驚いた様子を見せつつもすぐに微笑んで「いいよ」と乗せてくれた。
俺がシートベルトをしてから車が発進すると「円香さんに言わなくてよかったかな」と心配しだした。
「大丈夫ですよ。あの感じは当分冷蔵庫だけしか見えないでしょうし」
「あはは、それもそうだね」
俺が話したい事が穏やかに笑っている誠司さんにいきなり尋ねていい問題なのかどうかは考えれば分かる。
ただ、その答えがノーだとしても訊かずにはいられなかった。
「えっと、その……真桜ちゃんのこと知りたいんですけど」
「えっ」と驚きの声が訊こえてきたが前を見ることも誠司さんを見ることもできずにいた。
娘に色目使う奴とか、話さない今の状況に茶々入れてくる奴とか色々と誤解されそうで。
まあ、後者に関しては誤解でもない気がするが。
どう思われてしまうのかが怖くて膠着していた。すると、誠司さんの優しい声が社内に溢れた。
「ありがとう」
「はい?」
「だから、ありがとう」
「なんでありがとうなんですか?」
思わず顔を上げると誠司さんが物凄く温かい表情を浮かべていた。
「だって、真桜のことを知ろうとしてくれてるんだろ? それなら親として感謝する以外には何もないよ」
「でも、俺。踏み込みすぎて怒らせちゃったかもしれないんです」
誠司さんは「んー」と唸りながら契約している駐車場の中に入って行き、切り返すこともなく息をするように簡単にバック駐車を成功させていた。
「もし、真桜が本当に怒ってしまったんだとしたら少し妬けるな」
微かに口元を緩めながらも誠司さんはそう言った。
「妬ける? 怒らせたのにですか」
「うん。だって、真桜はいつからか怒ることも泣くことも笑うことさえもなくなってしまったから。恥ずかしい話、僕も元妻と離婚してから精神的にきちゃってて。真桜の事といえば学費を稼いでやるしかないって仕事に集中して向き合えてなかったんだ。だから、その過ちに気がついた時にはあの子が話さなくなっていた。原因も分からなければいつからそうだったのかさえも、本当に何も分からないんだ」
そう語る誠司さんはいつもの大人びた余裕のある姿とは異なり、心底過去を後悔しているような悔やみきれない現実という痛みに耐えているように見えた。
状況は違えど父が亡くなった後の母さんを見てきたから、大人にだって余裕が持てないことは多々あるって知っている。大人だって人なんだって知っている。
でも、誠司さんからは諦めたような笑みも見えて、それだけは理解できずにいた。
あとは車を降りて家に帰るだけなのにどちらも降りようとせずに沈黙に押しつぶされそうな空気感が漂う。けれど、誠司さんがフッと笑みを漏らしてから口を開いた。
「太陽君は太陽君の人生だけ考えていれば大丈夫だよ。あの子のことで君に足踏みさせるのは申し訳ないからね。だから、真桜を怒らせたかもとか全然気にしないで。不安なら僕にこうやって話してくれればいいからさ」
義理の息子に心配をかけないために選出された擁護の言葉だった。
「分かりました」
俺がそう言って見せると誠司さんは明るく笑みを見せてから運転席のドアを開ける。
「じゃあ、行こうか。今日は焼肉だぞ!」
「いいですね」
車を降りてからは、焼肉という言葉に胸を踊らされつつ並んで家路を歩いていた。けれど、誠司さんの真桜に対する考えが今後の彼女にとって何も生まない現状維持でしかないことに幾分かの不満も抱いてしまった。
誠司さんの優しさからくる決断なんだと分かる。でも、話してみるとやっぱり納得がいかない。
この人のことも真桜自身の言葉も。
決して声にしてはいけない感情を腹の中に押し込んでから、決して溢れてこないようにと幾つもの錠をかけてしまっておく事にした。
帰宅すると誠司さんの言っていた通りにリビングで焼き肉をした。
もう何年も使っていなかったホットプレートを引っ張り出して家族皆で肉を食う。それはどこにでもあるような家族の形なのに、どこか歪に映ってしまう。
誠司さんと母さんは幸せそうにしていて、真桜は相変わらずの無表情を貫いている。
じゃあ、俺は今どんな顔をしているんだろうか。
そんなことを思いながらも久しく食べる焼肉の味は酷く苦いものだった。
翌日、目が覚めた時に外がまだ暗いことに気がついてもう一度毛布にくるまってみるものの脳が完全に目覚めてしまったようで眠りにつくことができなかった。
せっかくの日曜日に早起きをしてしまったということに勿体なさを感じつつもグッと背伸びをしてからスマホを開く。
メッセージ通知やらファミレスのお知らせ通知やらで十件くらい溜まっていた。
昨日は晩御飯後、風呂に入ってから即就寝したから連絡も返せていなかった。けれど、そのメッセージの中に真桜の名前はなかった。
連絡が来ていたのは七海先輩と青葉とグループメッセージでちらほらといった程度だ。
まずはさっさと返信できそうな青葉からのメッセージを確認する。
『明日って空いてる?』
休日にデートのお誘いなんて珍しいなと思いつつも『空いてる』とだけ返信した。
まあ、デートかどうかは知らないが嘘はつかないし、青葉相手なら遊びに行くのもたまにはいいかもしれない。
次に青葉も含む、いつものメンバーの理人、浅岡、ツッチー、俺の五人グループを開いた。
『みんな明日の午後ボーリング行かん?』
ツッチーがそんな投げかけをしたのが二十一時頃。
それに対して『ボーリングは無理。腕死ぬ』と理人が返信していた。
『私はカラオケか買い物ならいいよ』
チャット内で青葉も発信しているので恐らく俺宛に送っていたのはこのことだろう。
浅岡も『みんながいくのなら』とだけメッセージを送っていた。
最後にツッチーが俺にメンションだけして終了していた。
『俺はどこでもいいよ』と文字を入力していると、画面に青葉からの通知が表示される。
『みんなとの集まりにくる?』
先にグループの方に返信してから青葉とのトーク画面を開いた。
『今、グループにも送ったけど行くよ』
『そっか。ならさ、その前の時間とかも空いてる?』
『空いてるけど?』
『じゃあ、十時くらいにお茶でもしない?』
『それはデートのお誘い?』
これまでスムーズに続いていた返信が途端に来なくなってしまった。だが既読の二文字は浮かんでいた。数分ほど待ったのちに『十時草加駅で』とだけ返ってきた。
『了解』
というか。まだ五時半だってのに運動部は起きるのが早いね。本当に尊敬しちゃうレベルだと思う。
今日の予定の大半が決まったところで、チラチラと何度か見えていた七海先輩からのメッセージを開くことにした。
『君に聞きたいんだけど。私はどちらかというと光へ導く女神? それとも光そのものの女神?』
なんだこの難解な問題はと思いながらも、結論女神なのかよと笑みを漏らしてしまった。
普段に比べたら幾分かマシなメッセージであるが故に適当なことは言えないし、何か変な期待をされているようでこの人への返信は少し考える。
この場合は、シンプルに七海先輩を俺がどう見ているかという視点でいいんだよな。
『まあ前者なんじゃないかな?って思います』
とりあえずこれだけ返信して、スマホの画面を閉じた。
部屋を出ると目の前には真桜の部屋がある。結局、あれからメッセージのやり取りもなく、目を合わせることもなく今を迎えてしまった。
誠司さんが気にしないで良いって言ってはいるものの学校に行きたいという想いがあるのなら力になってあげたい。
だけど、そういう考えすら烏滸がましくお節介に過ぎないんだと知っている…。
きっと社会はそうやって成り立っているんだな。
手を差し伸べないことよりも手を差し伸べた時の方が嫌悪されてしまうリスクを伴う。だって、他人がほとんどのこの世界でただの善意で近付いてくる人なんて怪しい。それも『君を救いたい』だなんてヒーローは現実社会じゃ不審者も同義。
だから、この世界にヒーローは実在していないんだと心底思い知る。
俺は顔を洗ってジャージに着替え、六時過ぎくらいに家を出た。
日課になんて出来るものじゃないけど、朝早く目覚めた時だけはランニングでもしようという気分になることが多く、今日もそんな感じでフラッと走り出す。
四月にもなれば六時という時間は割と明るい。でも、日は完全に出ていないから一番気持ちの良い時間帯だと個人的には考えている。
すぐ近くの川沿いの道に入ると自然の空気とか冷気とかが入り混じって身に染みる。
大体、二十分ほど走った所で行き止まりに差し掛かる。正確にはまだ先が続いているのだが、ルートを変えなければいけないので、俺はいつもここを折り返し地点としてる。
帰りは走らずに散歩するということまで考えても丁度良い地点だ。
乱れた息を整えつつ一歩、また一歩と足を踏み出し続けていると「あっ」という声が飛んできて目をやる。
そこには七海先輩の姿があった。
「え。先輩って朝に運動とかするの?」
「それは君もだよ」
なんだかご機嫌悪そうにじとーと睨んでいるが、急に出てきたのはそちらですからね?
俺が再び歩き出すと七海先輩も合わせて隣を歩く。
「なんか。七海先輩のジャージ姿とか珍しいですね」
「言わないで。君に出会うことが万に一つでもあると知っていたのならそよ風一つで悩殺するスカートでも履いてきたのに」
「それは是非見てみたいので一旦家まで送りましょうか?」
「今帰ったら絶対二度寝する」
「一度歩くと決めたのなら歩いてくださいよ」
「気分で生きてるから歩きたくないと思ったら歩かないの。そうやって生きていく方が楽しいって思わない?」
「思います、俺は割と先輩よりなんで」
七海先輩はふふっと笑みを浮かべてから「一般論ではないかもしれないね」と呟いた。
「そういえば、昨日のあれはどういう意味だったんですか?」
先ほど返信したメッセージのことを尋ねてみると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりのしたり顔で先輩は口を開いた。
「実はね。意外と進路に迷っているんだよ」
「なんでちょっといい顔で言ってんですか」
「いや、そんなつもりはないんだけどね。本当に迷ってるだけだよ」
「迷いなく道を切り拓いていく人かと思ってました。でも、教育関係なんですよね?」
「そうだね。というか、よく分かったね。ちょっと怖いぞ」
あははと笑い出す七海先輩を見ていて朝からテンションの高い人だなと呆れつつも、何かを隠すような空元気にも見えていた。
一先ず、進路の方向としては俺が予想していた通りというか先輩らしいもので納得できた。でも、そうだとしたら何に迷うことがあるのかという疑問もあった。
「別にどの大学でもある程度のとこいければいいんじゃないんですか?」
「教師を目指すのならここで変に迷う必要はないかもね。ただ、私にとって教師というのは妥協案なんだよ」
「妥協案。ですか」
先輩は静かに頷いてから話を続けた。
「君はさ、小さい頃いじめられたことってある?」
「唐突ですね。まあ、俺はうるさい系だったから経験ないですけど。先輩は?」
「私もない。目立つようなタイプではなかったけどつけ込まれるようなタイプでもないからね」
七海先輩はこれまで見せたことのない悲しみとやるせなさに満ちた表情で空を見上げていた。だから適当な言葉で遮ってはいけない気がして、話の続きを待つだけになった。
その間にも日は昇っていき、二人の影は一層濃く遠くまで伸びていった。
七海先輩が言った。
「これは私の独り言……。中学生の頃、何回か話したことあるってくらいの女の子がね、同じクラスの女子から陰湿ないじめを受けてた。私はこう見えて正義感強めだから、彼女の味方になろうと思って登下校を一緒にしたり、お昼休みもご飯を一緒に食べたり。出来る限りのことはした。結果としてその子はどうなったと思う?」
「感謝したんじゃないですか? 先輩に」
「学校に来なくなったんだよ。私が嫌いだったのか。私の目が届かない場所でいじめが過激化していったのか。考えられる理由は無数にあったよ。それなのに本人とは連絡も付かないし、先生に確認しても分からないの一点張り。元を正せば、彼女から相談されていたはずの教師側が問題を軽視したせいなのにどこか他人事。白黒はっきりしない状態で私の中にはずっと罪悪が残っていて、進路のことを考えだして教師という道へ踏み出そうとするとあの子はどうして学校に来なくなってしまったんだろうって」
話を訊いていて真桜の顔が脳裏に浮かぶ。
当人が何を思って、何に苦しんで、どうしていきたいのか。その真相は確かにあるはずなのに心が隠された箱の中身を開けるまでは考えられる全ての理由が正しくて、あるいは全てが正しくない。
こういう不条理な状態を表す最も最適な言葉をつい先日七海先輩から聞いていた。
「シュレディンガーの猫」
先輩は一瞬目を丸くしたがすぐに優しく微笑んだ。
「まあ、そうだね。その子の気持ちが隠された箱を開けてみるまでは理由が分からない。無数の選択が並行して存在しているみたいで……」
「でも。先輩のそれは量子力学じゃないです。それにシュレディンガーは量子力学の不条理さを証明したんです」
「その通りだね。答えを知らないのは箱の外にいる私達だけで、箱の中では既に結果が確定しているんだよ。でも、これは心の話だからね。自分で施錠した鍵を開けられない場合もある。自覚がないとか、トラウマになっているとか、それこそ無数の理由で」
言われてみればその通りだ。
人の心を物理で測ろうなんて考え方が既に詰んでいる。塞いだ心の箱を開けられない何かしらの理由が更なる錠をかけるように絡まっていく状況なんて大いにあり得る話だ。
それも時間が経てば経つほどに難解になっていくのだとしたら。
考える程に他人の心を救うことは出来ないんじゃないかと思う。結局自分を救えるのは自分だけなんじゃないかと。
その時、七海先輩は「だから」と声を漏らしてから一息吸って声を出した。
「その箱の中身を確認する手伝いをしたいの。見たくないなら見なくていい。逃げたっていいじゃんか。でも、前を向いて歩き出したいと願う若人がいるのなら、私が支えたい。これは、いつまでも箱の外で呑気に生きているのは嫌だからっていう私のエゴ」
昇り切った朝日に照らされている神々しさも相まって、この人の格好良さを思い知った。
その双眸には迷いなんてなく、ただ進むべき道の一点を見つめている。
きっと、七海紗季はどれだけ阻まれ周り道を強いられても目指した光点を見失うことなく歩み続けていくのだろう。
そんな姿が鮮明に想像できて瞳に熱が帯びていくから普段通りのちゃらけたトーンで話す。
「まあでも、教師って感じじゃないっすね」
「やっぱりそう思う?」と聞き返された時に七海先輩の無邪気な表情が目に入った。
トクン。と胸をノックされるように脈が跳ねる。
先輩には悟られぬよう平静を装って口を開く。
「教師ってどちらかというと勉強で将来の選択肢を増やさせる役割って感じがしてるんですよね。でも、先輩の成したいことはその手間にあると思うから。今は不登校支援とかもありますし」
真桜のこともあって不登校生徒を調べていて、そういった子たちが通うスクールも多いんだと知った。
当然、七海先輩も知っていて「確かにね…」と不服そうに呟く。
「不登校支援とかじゃダメなんですか?」
「君と話していて思ったんだけど、私の目指す理想ってもっと先にある気がして。勿論、その道の途中には今言われたような職業を経験しなきゃいけないんだけど」
「良いじゃないですか。七海紗季は夢の途中も全力で楽しめる人なんだから」
言葉を選ばずに自然と溢れてきた本心だ。
先輩はゆっくりと口の両端を吊り上げていった。
「君はそんな風に私を見ているんだね。凄く嬉しいし、そうでありたいなって思うよ」
照れ混じりに笑みを浮かべながらフラフラと歩いて、時折肩をぶつけてくる。
この時間がいつまでも続くのならそれは幸せなんてありきたりな言葉じゃきっと埋められない。
来年の今頃、七海先輩は俺と別の世界に向かって歩み出していて、同じ季節を感じていても同じじゃない春の香りを感じているんだろう。
立つ鳥跡を濁さず、そんなことを先輩が考えているんだとしたらこの特別な時間に名前を付ける日は訪れない。
それが美しさだと思うのは、多分俺の強がりだ。
「いやー。凄く参考になったよ。君とここで会えて良かったよ」
なんだかんだで家の近くまで戻ってきてしまい、先輩がそれを察してくれた。
「俺は話したり聴いたりすることしかできないんで」
七海先輩はニヤリと笑みを浮かべてから口を開く。
「それはどうかな?」
「どうかな、ってなんですか」
「擬似ヒーローの雨宮君」
そう言われて一人の教師が頭に浮かんだ。
「カネ先の入れ知恵だな。それ言ってるのあの人だけですから」
「私は結構気に入っているというか君らしい名前だなって思うけどね。特に擬似の部分」
「ヒーローの部分じゃないんですか」
チッチッチと腹正しく舌を鳴らしながら先輩は数歩前に出てこちらを振り返る。
「君はヒーローって柄じゃないんだよ。だからね、そんな君と一緒に擬似ヒーローを目指してみるのも楽しいんじゃないかなって思うよ」
「それはどういう……」
「あはは。じゃあ、私はこのまま走って帰るね!」
「あ、ちょっと」
吐き出した言葉が虚しく残ってすぐに消えた。
七海先輩との時間を思い返し胸を熱くさせながらも、帰宅してすぐに自室へ戻ろうと階段を上り終えたところで真桜に鉢合わせてしまう。
「あっ」
声を漏らしたのは俺だけだった。
彼女の方はただじーっとこちらを見てから、ぺこりと軽いお辞儀をして階段を下りていった。
「あのさ」
咄嗟に出た俺の声に反応して、肩をびくつかせた真桜は怖がるようにゆっくりとこちらを振り返る。
やばい、呼び止めたのはいいが何を言えば良いんだ。
何が正解なんだ。下手な言葉を発してしまえば関係は悪化するだけだ。
ふと、脳裏に七海先輩の顔が浮かんだ。
あの人ならなんて言うかな。
明るく聡明な癖に力強いあの人なら、真桜になんて声をかけるんだろう。
言葉を考えるよりも先に口が開いた。
「いつか。真桜が話したいと思った時には俺が全部聴くから。もう良いよって言われるまで全部聴く。だから、その。昨日はごめん」
彼女にどう伝わっているのかが分からないから怖かった。でも、ここで目を離すわけにはいかないと見つめていたら、温かな笑みを浮かべて微笑んでくれた。
なんとも形容しがたい感情が内側から込み上げていった。
真桜はハッとなりやや駆け足気味に階段を下りていった。
ピロン。
『冷たい態度をしてしまいごめんなさい』
『いや、こっちの配慮が足りなかったんだよ』と返信する。
『それはそうかもです(笑)』
あの子、メッセージに笑とかつけるの? と思ってフリーズしていると真桜から追いメッセージが届く。
『冗談です。太陽さんは何も悪くない』
返信を考えていると少し遅れてもう一通送られてきた。
『いつか、必ず話しますから』
必ず話すという文字に感銘を受けた。
『分かった。待ってる』
こんな些細なやり取りで高揚してしまった俺は、この想い噛み締めるたままベッドにダイブして気がついた時には十時を過ぎていた。
大慌てで準備して草加駅付近のカフェに到着すると店の前で仁王立ちしている鬼、じゃなくて青葉がいてあまりにも怖いから「ハァイ! グッドモーニング! ユーアーベリベリキュートね!」と言ってみた。
「殺されたいの? それとも死にたいの?」
「それどっちもデスなんだが」
青葉ははあっと深いため息を漏らして「もういいよ」と諦めたように笑った。
二人で店内に入り、コーヒーの香りを堪能しながら壁面に貼られたメニューを参照していた。
「太陽の奢りね」
そんな声がしていたが空耳だろうからと気にせずにメニューを見ていると「奢りね」と語気を強めた声がした。
うん。これは空耳じゃないね
「分かりました。どれにしましょうか?」
「そうね。一番高いやつで」
「マジで勘弁。せめて一番好きなのにして」
青葉はあははと笑ってから「カフェオレがいい」と言った。
店員にカフェオレを二つとドーナツを二つ注文し、商品を受け取ってから窓際の二人席に腰を下ろした。
「思ったよりも人多いね」と青葉が言って「日曜だからな」と俺が返す。
当たり障りない自然な会話をしつつも新作さくらんぼドーナツとやらを頬張る。二人して語彙を失うくらいの美味さで「んー、んー」だけで互いの想いが伝わっている。
そんな最中にグループのチャットが稼働し出した。
『じゃあ、一時集合でいい?』
ツッチーからのメッセージに対してグッドボタンが押されていった。
「そういえばさ、今日部活は?」
「体育館が安全点検日なんだよね。結構ガッツリやるらしいよ」
「それで暇になるから集まろうって話になったのか」
青葉はドーナツを頬張りながら「ほうほう」と頷きカフェオレも啜り幸せそうに笑んでから口を開く。
「ツッチーが明日暇だからバレーしようぜって言ってきてさ。たまの休みにふざけんなって。だったら皆で集まった方が楽しいよって言ったらこうなった」
「それは災難だったな」と苦笑する。
カラン、コロンとカフェオレに浸かる氷をストローでかき回しながら青葉が「あのさ」と話を切り出す。
「太陽ってもうバレーやらないの?」
それは一番訊かれたくないことだった。
「部活としてはやらないと思う」
そう答えると「ふーん」と不服そうに相槌を打たれたので少しだけ自分の気持ちを話してみることにした。
「俺はさ、自分がバレーをして将来何かに影響するって思えなかったんだよ。プロになる才能はないし、人に教えたいとかもないし、純粋に楽しむだけだったから」
「それの何が悪いの?」
その言葉は色んな人から言われた。
純粋にバレーを楽しむということは無駄なことではないという共通認識なんだろう。でも、皆が想像する純粋な楽しみとは違うんだ。
「青葉はさ、なんでバレーの練習するの?」
質問で返されると思っていなかったからか「えっ」と声を漏らしていた。けれど、即答だった。
「勝ちたいから」
そう。放課後や休日を返上してまで部活動をするような奴ってのは勝ちに飢えているし、その為ならどこまでも貪欲に必死になれる。
だからこそ、価値のある時間になるんだ。
たまに有名人や大企業の社長がメディアで口にする『学生時代に部活をしていたから今がある』みたいな発言は勝ちたいと必死にもがいていた経験を肯定してるものだ。
俺にはない、勝ち執着が将来の財産になるんだろう。
「俺はさ、楽しければいいんだ。勝ちたいとは思わないし、上手くなりたいとも思わないんだよね」
「じゃあ、なんでバレーやってたの?」
そうだよね。その質問もされてきたから答えはある。
「好きで楽しいからやってたんだ」
青葉は首を傾げている。でも、分かる人には分かると思いたい。
「青葉とかツッチーはさ、好きなものだからこそ勝ちたいとか、もっと上手くなりたいって感じかもしれないけど。それは、時に残酷で辛い現実をバレーというレンズ越しに目の当たりにするかもしれない。もしかしたら一つの負けで燃え尽きてしまうかもしれない。そういうリスクの上でやるバレーを二人は楽しんでるんだと思う」
「太陽は違ったの? 勝っても嬉しくなかったの?」
「そりゃ勝ったら嬉しいよ。けど負けても楽しいんだ。勝ちに執着できない奴がコートにいたら邪魔だろ」
カフェオレを混ぜる青葉の手がピタリと止まりこちらの顔を覗き込むように見てきた。
「んー。嘘でもなさそうだけど、納得いかないな〜」
「青葉を納得させないとダメなのか?」と口元を綻ばせながら尋ねてみた。
「そういう訳じゃないけど。私ね、中三の時に県大会を観に行ってたんだよね」
県大会か。
青葉もあの舞台にいたのか。
「勿論、私は出てないよ。観客席で観てた」
「あ、そういう感じね」
「弱小チームだったから」と自虐的に笑いつつも話を続けた。
「沢山のチームが次々と試合をしてる広い体育館の中で一際目立つ二人組がいて。それがさ、中学生にしてはムキムキで力強く飛び跳ねるゴリラみたいなツッチーと、どこまでもクレバーにセットアップする太陽だったんだよ」
あの時のバレーは最高に楽しかったと今でも思う時がある。
「懐かしいね」
「味方を囮に相手のブロックを騙してからツッチーをフリーで打たせたり。時には三枚ブロックに掴まったツッチーを試すように打たせ続けたり。性格の悪さとバレーへの愛が伝わる選手だなって思った」
「え、性格悪い?」
「悪い悪い。だって、コート上でニヤニヤしてるのあんただけだったし」
「そんなにニヤけてたかな。楽しすぎて気にしてなかったな」
それからも青葉はその時のことを俺以上に嬉々揚々と語っていた。聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいだ。
あの時はなんでツッチーにトス上げなかったの?とか。
あの時なんでツーアタックに切り替えたの?とか。
本当に事細かく尋ねれられるが、俺だってそこまで覚えていないし。なんなら何試合かしているからどれのことを言っているのかも曖昧だ。
でも、最後の試合でなんでツッチーにトスを上げたのかという質問が飛んできて思わず笑みが溢れてしまった。
「え、なんで笑ってんの?」
青葉からそう言われて「いや、別に」と濁した。
中学最後になった試合のあのプレーだけは未来永劫忘れることのないワンプレーだったと思う。
「あの時の最後のトスはなんでツッチーだったの?」と青葉は改めて口にした。
「それはね」とあの時を振り返りながら説明をすることにした。
俺自身も少し語りたくなったし思い出したくなってしまったらからね。
青葉の質問してきた最後のプレーは、県大会の四戦目で相手チームがマッチポイントの状況だった。これれを落とせば引退という局面。
相手コートから飛んできた強烈なサーブをチームメイトのリベロが不恰好にもなんとか上げてくれた。けれど、ボールはセッターである俺の頭上から大きく逸れてしまった。
本来なら近くにいる選手がアンダーハンドで上げて三人目が出来るだけ相手の嫌な所へボールを返し立て直す。
だけど、ここで守りに入ったら負けると思った。
いつもならそれでも良かったんだけど、あの時、あの瞬間だけは負けを嫌悪して走り出していた。
コートの真ん中。ネット付近から左サイドライン外にまで逸れたボールへ向かう途中、ツッチーが反対側でトスを呼んでいた。しかも、今にも助走が始まるタイミングだった。
正直痺れた。マジか、こいつって声に出ていただろうし。
俺がボールの落下地点に入りツッチーの元へとセットアップするにはあまりにも距離が離れていたから、ふんわり打ちやすいトスは不可能。
かといって、ツッチーに反応している選手は相手コートにもいないと思っていたから一点を確実に捥ぎ取るにはそこしかなかった。
小学校低学年の頃からやってきたバレーボールというスポーツにおいての集大成と言えるような研ぎ澄まされた感覚を全身で感じていた。
ツッチーのいる反対側へと瞬時に向きを変えて出来る限り体勢を低く、ボールが手に触れるまでの時間を稼いだ。一秒にも満たないその時間はゾーン入っていたであろう俺にとっては十分すぎるもので、障壁は何もなかった。
両手に包まれるボールの感覚と、普段は絶対にやらない押し出すような放物線を無視したセットアップ。
ツッチーの踏切音が体育館内に鳴り響いて、高さ、タイミング、速度、ともに完璧だった。
あとは、ツッチーが普段は打たない速めのトスに対応出来るかだったが見事にボールを捉えた。
決まった、と思ったよ。
青葉はふうっと深く息を吐いてから静かに呟いた。
「相手のブロック凄かったよね」
「だね。あれを想定して止められるって一ミリも思わなかった」
「今じゃ、あの選手日本代表の強化指定選手候補に入ってるよ」
「知ってる。でも、彼にブロックされた時にレベルの違いというかバレーで食べていく人と自分の差を知ったんだよ」
「つまり、あの時に燃え尽きたと?」
青葉がエアマイクを模倣して手を近づけてくる。
「うん。そうだね。色々と持論をこじつけてるけど、青葉の言う通り燃え尽きたんだと思う」
「そっか。不貞腐れてるんだったら引きずってでも体育館にぶち込もうかって考えてたんだけど。思ってたよりも満足そうな顔してるから今回は見逃してあげる」
えへへと笑みを浮かべている青葉とは対照的に俺は肩を震わせていた。
だって、高二になった今更バレー部にぶち込まれるとか肩身狭い上に人間関係とか余計な苦労だけで残りの二年間消えていきそうだし。それを知った上でそんなこと考えているなんて、怖すぎる。
でも。
「気にかけてくれてありがとう」
素直な感謝を口にしてみると、青葉は「ま、まあなんてことないけど」と頬を赤らめながらカフェオレを一気に飲み干した。
「さーて。買い物行きますか!」
青葉は勢いよく立ち上がる。
「もしかして俺が呼び出されたのって」
「荷物持ち」
「やっぱり?」
「なに? 嫌なの?」
「だって、女子の買い物長いんだもん」
ふーんと声を漏らしながら凍てつくような視線で見下ろして呟く。
「遅刻した上に決定権ってあるのかな」
畜生、悪女め。
俺も一気に残りのカフェオレを飲み干してから立ち上がった。すると、青葉は機嫌良さそうにお店を出ていったので取り敢えずは良かったのかな。
最後のカフェオレの味は分からなかった。
それからは青葉に連れられるがままショッピングモールを歩き回っては服を買って、歩き回っては文房具を買って、歩き回ってはクレーンゲームをやる。
これをデートと言わずして何をデートと呼ぶのだろうか。
スマホを開き現在の時刻を確認してから「そろそろ」だなと買い物終了の通告をした。
「えー。もうちょっといけるっしょ」
「いや、無理無理。だって集合十分前だよ? これ以上は粘れないって」
「ちぇー。じゃあ、駅前行きますか〜」
と声を漏らしながらも呑気に衣類店へ足を踏み入れる青葉の首根っこを掴んでエスカレーターに放り込む。
「ったく、少しでも目を離すとこれだから」
「遅刻魔に何言われても響きませーん」
そんな会話をしている最中に三階、二階と下っていく。
「一応言っておくけど、俺が遅刻したの初めてだからね。いつも時間通りに来ないのは青葉の方じゃん」
遅刻してしまった本人が言うセリフではないと我慢していたが、あまりにも遅刻をいじってくるので流石に爆発してしまった。
青葉はベーと下を出して駆け足でエレベーターを降りる。
「ったく」と声を漏らしてため息を吐きつつも、まあいいかと受け入れてしまう。
これが青葉の愛嬌だからね。
集合時刻のギリギリで駅前にやってくるとベンチと一体になっている銅像に話しかけているウッチーの姿が目に入った。
そこから少し距離を置いたところに理人と浅岡もいる。
流石に銅像と会話している人の近くには寄りたくないよね。二人ともそう言うの嫌いだからな。
ここは俺が行くしかあるまい。何故なら、青葉も割とガチで引いているから。
「ツッチー。おせんさんに何の用だ?」
「おせんさんって言うのか、この人は」
「草加市名物の草加せんべいを作るおせんさんはこの辺じゃ超有名人だぞ。それも知らずに話しかけるとは無礼だな」
「確かに。すまん。おせんさん。俺は土田勝っていうものでござる。得意なことはバレーボールでござんす?」
くだらない一人芸をしていると浅岡がゴミを見るような目でツッチーに言った。
「奇行に加えて面白くもないのなら迷惑になるのでやめたほうがいいわよ。というかやめて。恥ずかしい」
「え、あーおう。浅岡がそういうのならやめておこうか」
やけに聞き分けがいいな。
俺がそう思った矢先に理人が口を挟む。
「ツッチー。そこの外道に調教でもされたのか?」
ツッチー本人はピンと来ていないみたいだが、若干一名のまゆがピクリと動いた。
「調教だなんて愉快な言葉を使うのね。さて、今から部室に行って部員の調教でも始めようかしら」
うふふと口では笑っているのに目が笑っていない。
理人の顔は若干引き攣っていて恐れが見える。けれど、負けじと不恰好な笑みを作って言い返した。
「俺の方こそ、部長の性格がかなり捻くれて手に負えないんで躾でもしてみようか」
「へー。捻くれ者代表のあなたが言うのね」
確かに。
図星を突かれた理人が慌てて言葉を発する。
「黙れ、黙れ黙れ」
うん、ウィナー浅岡雪音だな。
いつもと変わらぬ茶番を一通り見終えた後でうんうんと頷いている青葉が口火を切る。
「それじゃあ、行きますか!」
「ボーリング!」
「カラオケ!」
「本屋!」
「犬カフェ」
「おい、ちょっと待て。どこに行くんだ」
誰一人として行き場所が被らない状況に思わずツッコミを入れてしまった。
青葉は「カラオケになったんじゃないの?」と首を傾げている。
「俺は初めからボーリングって言った気がするが」
「友達と遊ぶのに本買わないでどうするんだよ。会話とかなくなったら困るだろ」
「おすすめの犬カフェがあるの」
これって、俺が一人ずつヒアリングして方向を正していかないといけないのかな。
もうこれ、方向性の違いで解散でよくね?
それぞれの正義に従って満喫すればよくね?
そう思いつつも俺の中ではすでに打開策があったので提案だけしてみることにした。
「少し遠いが新三郷駅のアミューズメントパークはどうだ? カラオケもボーリングも漫画もある。唯一、犬カフェはないが、ペットショップくらいならあるだろう、多分」
「「「「行こう」」」」
よし、まとまった。
新三郷駅の改札を出るとツッチーが勢いよく走り出したので「待ってよ」と力無く呟いた。
当人には届かない声だったけど、一応止めたぞというアピールには十分だ。
見るからに浮かれているツッチーに対して理人が言った。
「あいつは中学生で時間止まってるのか? なんでこんなにはしゃげるんだ」
いい線いっているけど、まだまだ甘いなと、訂正してやることにした。
「ツッチーは小学校高学年で止まってるぞ。多分、ギリ恋愛ができるくらい」
「ははっ。それはあれか。足が速い奴がモテる時期の恋愛か?」
「そうだ。運動神経が良くて、頭の悪いやつがモテてしまうあれだ」
理人は嘲笑気味に呟く。
「ツッチーの全盛期だな」
「ウツギッチーはどうだったん?」と青葉が質問してきて一瞬理人が膠着した。
「何その呼び方」
怪訝な表情を浮かべている理人のことなんてお構いなしに青葉は会話を続ける。
「なんかあだ名あった方が可愛くない?」
「可愛くない」
「じゃあさじゃあさ。ギッチーは?」
「一応聞いておくけど、どういう意味?」
「こうなんていうか、知識を脳みそにギッチギチに詰め込んでる人!」
青葉が両手で空気をギチギチに固めるような仕草をしているとその横で見ていた浅岡が薄笑みを浮かべて「いいじゃない」と呟く。
「いいわけあるか。先行く」
そう言って顔を赤めながらツッチーの後を追ってしまった。
残った三人は顔を見合わせてクスクスと笑みを浮かべるのだが、考えていることはきっと同じだろう。
「結構照れやすいんだよな、理人は」
「うん。スマートなイメージだったけどギャップ萌え? 結構可愛いかも」
「ビジュで負けてしまうけれど祖母の家によく来る野良猫を思い出すわ」
青葉と理人の絡みもあまりなかっただろうし今日を境に仲良くなってくれるといいな。
「おーい。早くこいよー」
遠くに見えるデカブツのツッチーがこれでもかというほどに手を大きく広げて呼んでいたので、仕方なく急ぎ足で彼らに追いつくよう歩いた。
青葉は運動部ということもあってか楽しげにしているが、浅岡は見るからに体力が無くたったの数十メートルでもふうっと深い呼吸で身を落ち着かせていた。
「大丈夫か?」
「ええ。あと、もう十メートルあったらやばかったわ」
ふっと鼻で笑ってしまうと睨まれた。
「今日はその体力不足を改善出来るといいな」
「たった数時間の運動で体力が付くのなら良かったんだけれどね」
「確かに。じゃあ、疲れたらいつでも言えよ。肩くらいなら貸してやれるから」
「あ、うん。ありがとう」
若干の空白を含んだような返事だったがすぐに歩き出したのを見て後に続く。
せっかく追いついたのにすぐ単独行動をしているツッチーを見てため息が漏れてしまった。でも、それがあいつらしくて良いんだなと気持ち悪いことを考えてしまう。
それから、ショッピングモール内にあるゲームセンターを抜けて、目的のアミューズメントパークへをやってきた。
券売機でそれぞれが支払いを済ませていざ中に入ってみると、目の前にはいきなり大きな馬みたいな乗り物があり、少し右に目をやるとネットで囲われたスペースが四つほど並んでいる。
中学生の時に卒業イベントとして訪れたのが最後になるから懐かしい感じがした。
「おーし!」
張り切っているツッチーを横目に「ロッカーあるから荷物置こうぜ」と声をかける。とは言っても、荷物という荷物は誰も持っていないのでそれぞれ財布などの貴重品だけを一つのロッカーに入れることにした。
皆がしまったのを確認してから百円玉を投入して鍵を閉めると「いいの?」と浅岡に声をかけられる。
なんのことかと一瞬迷ったが、俺が支払うことで良いのかと訊きたいんだろうな。
「金額戻ってくるから大丈夫だよ」
そう返答すると、浅岡は顔を赤らめて視線を逸らしていつになく力のない声で呟く。
「私、来たことないから」
こういうコインロッカーを知らなかったりする一面は愛嬌あるというか普通に可愛らしんだよな。
そうこう考えている間にもツッチーは止まらないようで「おーい! ここ空いたぞ。バドミントンやるべ!」とはしゃいでいた
青葉も「やるか!」と気合十分なご様子だった。
この二人は運動大好き人間だから想像できたのだが、意外だったのは理人だった。
「バドミントンさ。俺結構強いよ?」
俺を含めた四人が耳を疑った。
訊き返そうかとも思ったが、誰も追及することがなかったのでそのままバドミントン始まった。
簡単なチーム分けとしては、ツッチーと俺と浅岡ペアで青葉と理人ペアだ。
特にポイントなどのカウントをするつもりはない。あくまでも楽しく遊ぼうねってだけだし。
「よっしゃ、俺からサーブすんぞ!」
「バッチコーイ!」
ツッチーと青葉の元気とは裏腹にコートの端で猫背に構える浅岡が気になった。
ツッチーからのサーブは「っほい」と青葉がこちらのへ打ち返してきた。
ふわりと上がったその羽は絶好のスマッシュチャンスで俺の頭上にやってくる。
皆で楽しく。だが、その皆に俺が含まれている以上はスマッシュせずにいられない。かつ、コースに決めてなんぼのもんじゃ!
シュパンッ!
微かな羽の感触が手に残る。羽はコート右奥のコースへ鋭い角度で飛んでいき、理人の横を突っ切るかに思えた。
シュパンッ!
「えっ」
羽は先ほどよりも高々と舞い上がりこちらのコートに返される。
「ギッチーうんまっ!」
「ギッチー言うな。ほら、また来るぞ」
相手コートから意気揚々とした会話が聞こえてくる。
んー、悔しい。
「おっしゃ。次は俺が行く」
そう張り切って、ツッチーがスパイクさながらの助走でジャンプする。
弓を弾くようにしなやかなフォームを間近で見て「すごっ」と声が漏れる。
スパァンッ!
ツッチーの打った羽は俺が放ったそれとは似て非なるものだった。けど、またしても理人の反射神経とラケット捌きが勝る。
シュパンッ!
先ほどとは違い、理人の打ち返した羽は速く、正確にツッチーの正面へと返される。全力でラケットを振り切っていたツッチーはどうすることもできずに羽に当たってしまう。
「ツッチー運動部なのにこんなもんなの? 俺、年中パソコンいじってるだけなんだけど」
ニヤリと笑みを浮かべながら理人が煽りにくる。
「ん、なんだと!」
まんまと乗せられているゴリラに「遊びだぞ〜」と呟きつつもすっかり怯えている毒舌女王に声をかける。
「流石に浅岡にはあーいうの飛んでこないから大丈夫だよ」
「う。うん」
浅岡はさらに力を入れてラケットを握り込む。
相手コートでは青葉が目をキラキラさせて理人に詰め寄っていた。
「なにあんた、頭良いのに運動も出来んじゃん。反射神経とかやばいって」
「あんなの、飛んでくる場所分かるんだから打ち返せて当然じゃん」
「それはなんか、厨二病みたいでキモイかも」
「マジなんだって。そっちだってバレーやってんだから相手の身体の向きとかで打ってくるコース分かるでしょ」
どうでもいいけど、理人っていつも言い合いしてるよね。
あれって浅岡限定じゃないんだな。
「おーし、次は俺が勝つ!」
そう息巻いてツッチーがまたサーブを打つ。
今度は青葉が「雪音ちゃん」と声を出しながら、緩やかに打ちやすい程度の高さを保った軌道で返してくれた。
「えっ」
当の本人はガッチガチに構えているためとても打ち返せそうにない。
「前っ」
俺の声に反応して一歩踏み出す。
「えいっ」
シュッ!
空を切った。
浅岡は頬を赤らめ瞳を潤わせながら、こちらに向かって「ごめん」と呟いた。
あまりの破壊力に心臓がドクンッと跳ねるのを感じた。
「よ、よーし。切り替えてこうぜ!」
ツッチーお前もだろ、平静を装ってないで白状しろ。
浅岡の前に落ちた羽を回収したツッチーがまたしてもサーブをするらしい。
「浅岡」
「ん?」
「せーの、で振って」
「え?」
ツッチーがサーブを放った瞬間、相手コートにいる二人に聞こえるように少しだけ声を張った。
「高いの頼む!」
すると、青葉が「はいよっ」と返事をして、先ほどよりも高く打ち上げてくれた。
「ナイス」と声を出しながらも打ち上がった羽の落下地点やや左側まで浅岡の腕を引く。
「ここ」
「うん」
「せーーのっ」
シュコッ。
大きく振りかぶったフルスイングから放たれたとは信じられないほど弱い羽は相手コートのネット付近にポツリと着地する。
ポイント奪取。まあ、ポイント制じゃないけどね。
「ナイス、浅岡」
「浅岡さんグッジョブだ!」
「畜生、天然フェイントかよ」
「あははは。これもバドミントンだね! ナイス雪音ちゃん!」
浅岡はぺこりと会釈だけして何も言わなかったが、唇を固く結んで噛み締めている。
嬉しさを隠しきれていない。
毒を吐いて歪み合う楽しさだけだと感じていたクラスメイトに対してその後も何度かドギマギされつつ運動とは違った汗を拭う。
バドミントンが終わり休憩スペースに立ち寄るとドリンクバーも併設されていることに気が付いてテンションが上がった。
「ここ。いいかしら?」
この疲れの権化である彼女が爽やかな雰囲気を漂わせながら訪ねてきた。
「うん」と返答しておくが、今日の浅岡はなんかいつもと違う。
苦手な運動についてきたのもそうだし、言葉を選ばずに言うのなら凄く女の子だ。
まつ毛長いし、肌とか名前を彷彿とさせる雪みたいな透明感。しかも、清純派毒舌お嬢様系のくせに可愛げまで出てきている。
これって、反則なんじゃない?
「えっと。なにか? 見られていると飲み辛いんだけど」
やべ。見過ぎてた。
「いや別に。ただ、なんか今日の雰囲気いつもと違うから何が違うのかな〜って」
浅岡はニヤリと笑みを浮かべてからグラスを机に置いて両手を広げる。
「さて、どこが違うでしょう」
うん、慎ましやかな胸元はいつも通りだな。そんなことを思っていると蔑むような視線を向けられた。
「胸見てるの分かってるからね」
あ、やっぱり?
「それも一部だろう。豊胸とか…」
「ふざけていないで、よく見て」
「そこに山はないのに?」
山は一般的に高く険しい傾斜を指す言葉で、丘は山より低く傾斜も緩やかで丸み帯びた地形のことを指しているらしい。
そんなどうでもいいことを考えてつい笑いそうになってしまうと、殺意に満ちた凍てつく視線を向けられてから微かな舌打ちが聞こえてきた。
「死にたい? 社会的に」
「すみませんでした」
さらっと社会的に殺すとか言われたんだけど、怖過ぎ。
ただの殺すとかならジョークの一つでも言ってるんだと流せるのに『社会的』というワードが添えられただけで陰部がキュイッとしちゃう。
よし、真剣に答えよう。
「髪切った?」
「違うわ」
「リップ変えた?」
「違うわ」
「柔軟剤変えたとか?」
「その回答は少し、気持ち悪いわね」
「そっちが当ててみろって言ったんだろ」
浅岡はふふっと吐き捨てるように口元を綻ばせてから呟いた。
「何も変わっていないわ」
「はあ?」
必死にひねくり出そうとした俺がまるで馬鹿みたいじゃないか。
彼女は空になったグラスを持ってゆっくりと席を立つ。
「変わったのはあなたの見方なんじゃないの? おませさん」
ニヤリと薄ら笑みを浮かべて揶揄っているその表情こそ、浅岡雪音らしい。だが、釈然としないな。
「男ってのは大概おませなんだよ。よく覚えとけ」
吐き捨てるように言ってから空になったグラスを片付け、バッティングルームに行っている三人の元へと向かった。
浅岡も跳ねるような足取りで跡をついてくる。
カキーン。
カキーン。
打球音がすぐ近くにまで響いていた。
ツッチーのパワーは冗談抜きでゴリラ並みだなと思いつつバッセンのケージ前に辿り着くと、そこには青葉とツッチーの姿があり、中で打っているのは理人だった。
「おい。あいつなんで運動神経良すぎねぇ?」
二人の背中に声を掛けると、みっともなく目を丸くした二人の顔が面白くてフッと息を漏らしてしまう。
「ギッチーマジでやばいよ。なんで運動部じゃないの?」
「ああ。正直、バッティングは負けだ」
ふと、頭上の球速表示プレートに目を向けると百三十キロと書かれていた。
見間違いか?
カキーン。
カキーン。
響き渡る快音で近くにいた人達の視線さえも集めていた。
これはアミューズメントパークでの遊びじゃなく、真剣に野球をしている選手の練習だな。
「いや〜気持ち良かったわ」
額の汗を軽く拭いながら理人が爽やかな笑みを浮かべてケージから出てきた。
もう、スポドリとか制汗剤のCM全部お前でいいよ。
「あなたのようなインテリが打てるのなら私も余裕ね」
するりと俺の横をすり抜けて浅岡がケージの中に入る。
ネットの横に立てかけられているバットを手に取りブンブンと振り回してから、ソワソワと辺りを見渡し始める。
「これ、どうやったらボールが出てくるの?」
あまりにも真剣な表情で問いかけてくるから何事かと思ってのに始め方が分からないとは誰も考えなかった。
だからこそ、浅岡を除いて全員の口元が緩んでしまった。
「雪音ちゃん、そこのボタン押したら出るから押してみて」
「分かった」と呟いてからボタンを押した浅岡はバットを構える。
シュバンッ!
ブン!
シュバンッ!
ブン!
「なあ、流石に無理じゃね?」
理人が呟く。
「無理だよね。私でもまぐれで当たればいい方だよ」
「ああ。浅岡は運動苦手みたいだしな」
「おい、浅岡。バット短く持て。振るの遅すぎるぞ。もっと速い球を想像してみろよ」
浅岡は一瞬こちらに視線を向けてから頷く。
その瞬間。
カンッとボールを擦る音が鳴った。
「え、当たるじゃん雪音ちゃん」
「まぐれまぐれ」
「でも、タイミングバッチリじゃなかったか?」
外野の声など気にせず真っ直ぐマシンだけを睨みつけている浅岡。
そんなに真剣な眼差しを見せられたら声を出さずにいかないだろうが。
「マシンのアームを見ろ。そんで、球が来てから振るんじゃなくて、振りながら軌道を合わせにいくんだ」
カンッと弱々しい打球音が聞こえたと思った瞬間、マシンを囲う正面のネットにボールが突き刺さる。
突き刺さると言う表現はいくらか聞こえが良いかもしれないが、文句なしのセンター前ヒットだった。
ぎこちなさが半端ないスイングでも綺麗に打球が飛ぶのは嬉しいものだ。
浅岡は唇をぺろりと舐めてから「よし」と呟き先ほどよりも生き生きとした表情で構えた。
それからはみるみる上達していき、ボールを捉えるだけならば容易にこなしていた。後から、青葉も負けじと気合を入れて挑戦するが、百三十キロという速度にはついていけてない。
「ちくしょー! ぜってー打ってやる!」
ブンッとスイング音が聞こえてくる。当たればホームランだな、と思いながらもコメディにしか見えず笑みを溢してしまう。
「月森さんってツッチーほどじゃないけど馬鹿だよね」
「あんだどゴラァ!」
「うわ、地獄耳。早く前見て打ちなよ。当たるならね」
「ムッカ〜! 理人。あんただけは私が打つまでそこにいろ」
「分かったらかさっさと打てよ」
そんなやりとりを微笑ましい気持ちで眺めていると背後から申し訳ない程度の力で袖を引っ張られる。
「どうした?」
そう言って振り返ると困ったように眉をハの字に傾けている浅岡が少し離れたところを指差した。
あ、ツッチーがパンチングマシーンやってるのか。ったく、チームスポーツやってる奴が単独行動してるんじゃ世話ねぇよ。
「俺らもあっちいこうぜ。浅岡の弱弱パンチ見せてくれよ」
少し揶揄ってやると彼女は拳を顔の前まで持ってきて「喰らってみる?」と笑顔で返答した。
「いや、大丈夫です。あちらのマシンにお願いします」
「仕方ないわね。それで我慢してあげる」
そんな会話に花を咲かせながらもツッチーの元へと到着する。
ここだけ熱気が強い?
「グゥオーー」
「恥ずかしいからやめろ」と呟きながら大声の主へ軽くチョップした。
「あ? お前らもこっち来たのか!」
「そうだよ。ちょっと試したくてな」
笑みを浮かべてツッチーめがけて拳を繰り出す準備をしていると「俺にはやめてくれよな?」と釘を刺されてしまった。
まあ、人なんて殴ったことないし俺にとってもマシンの方が気が楽だ。
「よーし、じゃあ。まずは俺から行くぜ?」
「ええ。お好きにどうぞ」
「ちなみに、ツッチーはどんくらいだったん?」
「百五十ちょっとだな」
「ほー」
分からん。
パンチングマシーンなんてのをそんなにしたこともなければ機械によって数値の基準は変わってくるだろうしな。
つまり、今この時点でのツッチーの記録とは一つの基準に過ぎない。
俺が勝つか負けるか。非常に単純な男の戦いが今始まろうとしている。
「早くやったら?」
「あ、うん。そうだね、それじゃあ」
バゴンッ!
「おお。太陽はやっぱ強いんだな」
馬鹿なやつは嘘がつけないから褒められたりすると一番反応に困るんだよな。
液晶画面に反射されて映し出された情けなく照れている自分の顔にため息を漏らしつつもすぐに数値が表示された。
「百七十。か。ツッチーよりは上だな」
煽るような声音を意識して言ってみると心底悔しそうな表情をしていたので可笑しくて口元が緩んだ。
「俺も負けてはいられん!」と息巻いているが、次は浅岡の番だと説明すると潔く引き下がってくれた。
こういう聞き分けの良さがあるからツッチーは友達も多い。そのうちこいつを好きになるような
物好きな少女なんかが現れてくれたって良いんだがな。
いや、マジでこのゴリラ幸せに出来る子いねーかな。
「よし。私が一番になるわ」
「あはは。それは難しいかもな!」と笑い飛ばすツッチー。
「と、言いつつも一番だったら怖くね?」と少し怖い想像をさせてみた。
「それは怖いな」
「えいっ」
バフッと枕でも叩いたかのような音が聞こえてきた。
数値は競い合うまでもないのだがどれだけ低いのかが若干気になったので液晶に注目する。だが、浮かび上がってきたのは『申し訳ありませんが数値の計測ができませんでした』という文字だった。
ツッチーが狼狽えるように声を振るわせて言った。
「こ、これは。どっちなんだ?」
俺も便乗するように呟く。
「未知だ」
いや、これで強いわけなんてない。殴った時の音が物語ってるだろう。けれど、余裕の笑みを浮かべた浅岡を見ていてとある拳法の動画を思い出してしまう。
その拳法では衝撃を内部へと伝える突き抜ける打撃として名前を売っているもので、中にはゼロ距離から繰り出されるものもあるという。
だが、パンチングマシンにおいて関係あるのだろうか。
待て、冷静になれ。口が達者で勉強と仕事みたいな部活しか脳にないような浅岡にそんな芸当ができるか?
バッセンの始め方も知らない、バドミントンもろくにできないような運動音痴だぞ。
「二人とも怯えているの?」
「別に、怯えてねーよ?」と俺は強がった。
ツッチーもここでびびっていると思われては自分の取り柄がなくなってしまうからね、意地でも頷かないだろう。
「あはは。その、なんだ。数値が測れなくて残念だったな!」
「そうね。私の拳は機械と相性が悪いようだからどちらかが実際に受けて、計測してみてくれないかしら?」
「そういうことなら太陽だな。お前ら仲良いし」
「いや、待て。浅岡、お前それはいじめだぞ。暴力だぞ、人間以下のゴミだぞ」
「違うわ。スポーツよ」
「んなわけねえだろうが!」
当然の抵抗をしていると、ツッチーが俺の体を抑え込み浅岡に加担する。
「おい、離せ。お前どっちの味方だ」
「死んだばあちゃんが女性を大事にしろって」
「お前んちのばーちゃん元気にゴルフしてんだろ」
「ノーコメントだ。男なら甘んじて受け入れろ」
ったく、なんだよ甘んじて受け入れろってのは。大体お前みたいな脳筋がどこでそんな言葉覚えてきたんだ。
そうこうしている間にも浅岡は口の両端を軽く吊り上げながら拳を握る。
「土田君。しっかり押さえていてね」
「おうよ!」
あーもう、クソ!
浅岡が拳を引いて勢いをつけようとしたタイミングで目を瞑った。すると、コツッと額から小さな音が身体の内部を通って響いた。
「痛くない」
目を開けると、ベーと舌を出して笑みを浮かべている浅岡の姿があり俺は困惑を隠せないまま土田式拘束術から解放された。
「ふふ。間抜けな顔ね。ただのデコピンだというのに」
「ざまあねえな!」
二人は俺の顔をまじまじと見つめて、俺の羞恥顔を思い出し改まって笑った。
マジでいつか泣かせてやるからな。
「なあ、次はゲームとかしねぇ?」
俺の憎しみにも気が付かずにゲームとは呑気なもんだなツッチー。お前のその鈍感さが次の敗因になる。
「おーし。今度はゲームだな。いいぜ、やろうか」
そう言って三人仲良くレースゲームの座席に腰を下ろす。
ふと横を見るとソワソワと辺りを見渡している浅岡の姿が見えたので「ボタンはすぐそこだぞ」と教えてあげたのだが違ったみたいだ。
「シートベルトはいらないのよね?」
予想の斜め上。真面目過ぎてもはやこいつ頭悪いだろ。
「おい、ツッチー。このゲームに免許はいるのか?」
「は? いるわけないだろ。どうした?」
「ということらしいですよ、浅岡さん」
「わ、分かったから早く始めましょう」
こいつのこういう姿が珍しくてどうしても揶揄いたくなってしまうのは俺がガキすぎるからなのかな。
さて、サクッと勝ちますか。
いつかスタイリッシュな外車で海沿いを走りながらレトロな音楽を愛しい誰かと共有して胸を高鳴らせる。そんな日を想像して、重みの感じられないアクセルを踏んだ。
「クッソ楽しかったな!」
アミューズメントパークの外に出てすぐ、周囲の視線を気にしない大きな声を出すツッチーに憎悪を抱かないほど皆の感覚はバグっていた。
「うん、めちゃくちゃ楽しかった!」
「明日の学校が憂鬱になるくらいには楽しめたな」
「私は物凄く疲れたわ…」
それぞれが感想を述べているが結局言いたいのは総じて楽しかったというありきたりなことなんだろう。
途中で青葉と理人は別行動、というかバッセンにずっといたが再度合流してからは五人で色んなことをした。
アーチェリーではまたしても理人の才能が輝き、カラオケでは音痴という弱点を曝け出す。その点、青葉は歌を歌わせればプロと見まごうほどのもので、俺やツッチーは知っていたから頷く程度だったが浅岡と理人からは拍手喝采。
浅岡も普段カラオケには来ないという割に上手くて、そっちの方がビビった。
でも、ツッチーの歌声が大き過ぎて店員さんがきたのには正直ウケたな。
五人で並んでローラースケートをした時間も、オススメの漫画を紹介し合った時間も全部が特別で今しか感じられない。
青の時間。
外の空気を吸うと不足していた純度の高い酸素が脳にまで送り込まれて一気に気持ちが高まっていく。
夕方の鮮やかな焦香色に光のアクセントが加わった空はどこまでも広がっていて、この景色を見た人は『エモい』という言葉で括るんだろう。
自分の中で高まる熱に任せて言った。
「いつかそれぞれの道を選んでさ。こんな風に気軽に集まることはできない日が続くようになると自分を取り巻く人達は違う顔になってたりしてくんだろうな」
すかさず浅岡が冷めたように呟く。
「何が言いたいの?」
不思議と自身の口角が上がっていくのを感じる。
「ありきたりなこんな時間も俺にとっちゃ特別なんだ。だから、これからもよろしくってこと!」
すると、浅岡をはじめ理人やツッチー、青葉もこの夕暮れ時に負けない温かな表情で笑った。
いつか、この景色を忘れてしまうことがあったとしても彼ら、彼女らの笑顔だけは忘れることなく胸に刻めたのなら、それはどんなに幸福な事かと思う。
総じて、楽しかった。
「おっしゃ、飯行くか!」
「行かねーわ。普通に帰りたいし」
「じゃあ、理人抜きで行くぞ!」
「あ、私もパス」
「そ、そうか。じゃあ、チームパンチングマシンで行くか!」
「あ、わり。俺も今日は勘弁」
「当然。行かないわ」
一度に四人から振られるという経験がなかったからか流石の脳筋もしょんぼりとした重い足取りで駅に向かって歩き出す。
やけに小さくなったツッチーの背を見て俺たちの表情からは自然と笑みが溢れた。
理人が小走りで彼に追いつき「買い食いしようぜ」と声をかけると瞬く間に強靭で大きなゴリラが復活していた。
今日、この瞬間にまた一段と強固な絆が生まれたのかもしれないと一人心の片隅で感じていた。
電車に揺られてゆったり流れていく中、アミューズメントパークでの余韻に浸っていると草加駅に到着していた。
誰もが落ち着きを纏っているのは俺のように余韻を楽しんでいるからではなく単純な疲れからだろうな。そう考えてみるとなんだか嬉しくて笑みが溢れそうになる。
「それじゃあ、私はおせんさんと反対だから」
浅岡がそう切り出す。
それに続いて理人とツッチーが「俺も」と同時に声を漏らす。
「じゃあ、また明日ね」
眠そうに目をこすりながら浅岡がそんな言葉を残し俺たちはそれぞれの帰路につく。
駅から離れるように青葉と並んでいる中、話題は理人に向いた。
「ギッチーってあんなに才能に恵まれた人だったんだね」
「なんでもそつなくこなす奴だとは思ってたけど運動までとは…」
「ツッチーの強烈スマッシュとかも難なく返してたじゃん? あれって本当に飛んでくる場所が分かってたらしいんだよね」
普段よりも早口になっている姿を見て微笑ましく思った。それと同時になんでそこまで正確な羽の位置が分かったのかがシンプルに気になり、その疑問を口にした。
「大体の位置は分かるかもしれないけど。あいつどんな理論で動いたんだろうな」
すると、青葉がしたり顔でこちらを覗き込んでくる。
知りたいの?
知りたいなら教えてやらんこともないけどどうする?
みたいなことを考えていそうで気に食わないがこの小さな我慢で知識が増えるのなら安いものだろう。
「青葉様。教えてください」
青葉はフンっと鼻を鳴らして「良かろう」と声にしてから話し出す。
随分と偉そうだ。
「相手の体の向きと羽の位置で大体のコースは読める。それは私も太陽もなんとなく分かるよね?」
「そりゃ、仮にもスポーツ経験者だし」
「うん。でも面白いのがここからだったんだよ。ギッチーが見ていたのは相手じゃなくてコートの全体。主観じゃなくて客観。羽の位置は? ツッチーの体勢は? 自分たちから点を取るならどのコースが良い? って。それにプラスして、ツッチーの性格やジャンプのタイミングから予測する羽が飛んでくる角度。仮に打ち損じた場合にも反応できるように相手のベストショットが来たなら目を瞑っていても返せるように準備するんだってさ」
流暢に理人の技術を語っている青葉を見ていると彼女がその凄まじい理論の考案者と勘違いしてしまいそうになる。
「理人ってさ。思考速度と処理能力が桁違いなんだよな。それなのにあの不器用さよ。面白いだろ」
「あはは、確かにね。でも、それは太陽にも言えるんじゃないかな? って私は思うよ」
てっきり理人をベタ褒めするのかと思い込んでいたのに話題の矛先が俺に向き一瞬遅れて声にした。
「俺はあいつほど凄い人間じゃないって知ってんだろ?」
「知ってるよ。あんたは凄いやつじゃないのに、いつだって凄いことをやっちゃうんだ」
温かな春の風とは姿を変えた夜風が手袋の付けていない手を赤らめらめさせる程度には冷え込んでいた。
青葉の鼻先や頬も同じように色を変えたのもこの夜風によるものなんだろうか。
青葉からの言葉にどう反応すべきか悩んでいると駅から少し離れた川辺まで来ていたことに気が付く。
川に映る空を見て夕方と夜が共存する時間だったんだと知る。
青葉は消え入るような小さな声で言った。
「黄昏時ね。私の一番好きな時間」
「俺も好きだけどな」
「つまらない冗談だね。太陽は昼と夜の交わる曖昧な時間なんて好きじゃないでしょ」
「……」
やけにきつい口調だったこともあり言葉を失っていた。すると、青葉は表情を緩めてから微笑む。
「ここさ、私達が出会った所だよね?」
「ん? あー、そういえばそうだな。あれはウケたな」
「ウケないって。心臓止まるかと思ったよ」
「確かにあの日も寒かったしな」
「あんたの行動にビビって止まりかけたのよ」
青葉に首元チョップをお見舞いされつつも出会った日のことを思い返していた。
高校受験を控える中三生にとっては絶望とも呼べるクリスマスイブ。
その日は小中学校共に二学期最後の日だった。
通学路だったこの川辺にある橋を渡っていると小学生の女の子が家庭科の授業で作成したであろう不恰好なエプロンが空を舞った。ミシンが上手く使えなくて頑張って手縫いでなんとかしようとして何ともならなかった時の苦労を思い出しながら川に落ちていく布を眺めていた。
けれど橋の手すりを握りしめて川を見下ろす女の子の瞳が潤んでいくのが分かって、気がつくと飛び込んでいたんだ。
冬だからありえないくらい冷たいし。しかも前日の雨のせいで濁ってたり流れが早かったりで『溺死』の二文字が浮かぶほどだったのを覚えている。
ヒーローの真似事をしておいた挙句、ヒーローを求める救助者になってしまったんだな。ウケる。
そこに現れたのが青葉だった。
青葉の話だとバレーの県大会であの時はすでに俺を知っていたらしいがこちらからしてみれば見ず知らずの他校の女子だ。でも、助かりたかったからね、大きな声で叫んだ。『助けて!』って。
あの時の無様な自分を思い返して、少し恥ずかしさも込み上げてきた。すると、青葉がぴたりと足を止めて口を開く。
「あの日は塾に行かなきゃいけなくて。それなのにあんたが溺れてるし、それを見てた女の子は泣きそうだし、ほんと最悪だった」
「その割に楽しそうじゃん?」
「え。あー、うん。だって」
一瞬の沈黙を挟んでおきながらも青葉は流れるように軽やかな口ぶりで言葉にする。
「あの日は私が恋に出会った日だったから」
恋。鯉。に出会った日?
心臓が激しく音を鳴らして手からは力が抜けていく。体に良くないことが起きているような、血の気が引いていく時に近しい感覚に苛まれる。
「えっと。魚の話、だったりする?」
「さあ? 太陽はどっちだったら嬉しい?」
「それはどういう…」
「私が付き合おうよって言ったら太陽はなんて返事するの?」
青葉らしくない質問。でも、彼女らしさという考えは俺の押し付けでしかないんだと分かっているから今目の前にある現実に対して処理しなくてはいけない。
高校生になってからずっと近くで歩んできた友の質問に答えなくてはいけない。
そういう義務感が大きく膨らんでいき視界が狭まっていくようだ。口を開いて何か言おうと思っても自分の体じゃないみたいに自由が効かない。
そもそもの話青葉は俺のことが好きなのか?
これまでも距離は近かったし、正直青葉を可愛いと思ったことなんていくらでもあるしこれが告白なんだとしたら手放しで喜びたいくらいだ。けど、唐突すぎるこの状況に何か裏があるんじゃないかという疑念が拭いきれない。
「そ、その。なんというか、これは俺の問題だと思うんだけど。正直なところ分かんない。はっきりしてなくて悪いんだけどけど、今の関係崩してまでのことなのかなとか俺でいいのかなとか考えることが多くて」
必死に言葉を紡いでいるとフフッと微かな笑い声が聞こえてきた。
「真剣に考えすぎ。私はイフの話をしてるだけだよ?」
「イフ?」
「そう。私だって今が一番楽しいもん。それにバレーもあるから恋に夢見ている時間はないんだよ!」
「なんだよ。そういうことか」
ここで付き合おうと迷わず言えたのならそういう未来もあったのかもしれないとか考えてしまうと勿体無いことをしてしまった気もするが安堵のため息は確かに漏れていた。
「まあ黄昏時は短いからね」
青葉が歩みを始めてから空を見上げてそう呟いた。
意味があるようで意味がないような。
どちらとも言えないからこそ「まあね」と適当な言葉を返す。
「あれ、じゃあ恋云々ってのは、マジで魚の話かよ」
「何残念がってんの。ほら、早く帰るよ〜。明日も朝練で早いんだから」
「それはお前の事情だろ」
「正解!」
街灯に照らされて伸びる彼女の影を踏まないように足を早めてからその隣に並んで再び会話を重ねた。
そんな時間を過ごしているとあっという間に空を照らす月光が眩しいと感じるようになっていた。
「あっ、でもね」
突然、そんな声を発した青葉は柔らかな髪をふわりと躍らせながらこちらを向いて微笑み口を開く。
「迷わず川に飛び込んでみっともなく助けを求めるあんたは誰よりもヒーローだったよ」
わざわざ言葉にしなくてもいいのに、なんて強がっていつつも口元は綻んでいる。自分の顔なんて見えないけれど、そう断言できるくらいに心がざわめていた。
今になって思う。
黄昏時は確かに短いな、と。




