決別
真珠はそわそわしながら、草世の帰りを待つ。
暇なので、字の練習をしようかと筆を持つ。だが線の一本も書くことなく、筆を置いた。
「草世、変だったよね? どうしたのかな?」
真珠は迎えに行くことにした。家を出ると、向こうから草世が歩いてくる。
「草世ーっ!!」
真珠は両手をぶんぶん振り、さらには、ぴょんぴょん飛び跳ねた。
いつもなら、草世は照れたような笑みを返してくれる。だが今日の草世は、違う。力のない目で真珠を見やり、ため息と共にうなだれた、
「どうしたの?」
真珠が駆け寄って訊ねても、答えない。
草世の体に黒い靄はついていない。呪いのせいで気落ちしているのでなければ、何かがあったのだろう。
真珠は何度も、どうしたのか訊ねた。だが草世は頑なに口を閉ざし、しまいには部屋に引きこもってしまった。
重苦しい時間が過ぎ、夜になった。
真珠は火のない囲炉裏の前に座り、途方に暮れる。
「私が人間じゃないから、草世の考えていることがわからないのかな。草世の言う、人間と白狐は住む世界が違うって、こういうことなのかな……」
人間に変身しても、心までは人間になれない。
そのことが苦しくて、真珠は顔を覆った。涙が手を伝い、腕に流れていく。
山の際がうっすらと明るくなった頃。
草世は引きこもっていた部屋から出た。土間に下り、台所にある包丁を手に取る。
「どうしたの?」
気配を感じた真珠が、奥の座敷から出てきた。真珠はあくびをしながら目をゴシゴシと擦ると、草世の手の中にある包丁を見た。
「朝ご飯、なに?」
「……ご飯を作るんじゃ、ないんだ……」
草世は力のない笑顔を、真珠に向ける。
「僕はこれから、仕事に行ってくる。いつ終わるか、わからない仕事だ。もし今日帰って来なかったら、自分の家に帰ってほしい」
「どうして?」
「どうしてもだ」
草世は、医者の黒い鞄に包丁を入れた。
直志に毒を飲ませて殺す計画だ。だがもし、飲まなかったら?
(直志は、理性を失くして暴れている。素直に飲むとは思えない。毒殺が無理だった場合、包丁で……)
草世は犯罪者になる。人殺しの罪を背負いながら、何食わぬ顔で真珠と暮らす度胸は持ち合わせていない。
草世は苦しさを少しでも吐き出したくて、長々と息を吐いた。真珠の姿を目に焼きつけるために、頭の先から足先まで見た。
「少しの間だが、一緒に暮らせて楽しかった。だがやはり、人間と白狐では住む世界が違う。一緒になることはできないんだ」
「どうして?」
真珠の純粋な眼差しに当てられた草世は、言うべき言葉を見失った。「どうしてだろうね……」と答えるのが、精一杯。
(白裂と話して、絶望した。真珠の家族、親戚、一族。みんなの反対を押し切って一緒になることなど無理だと思った。だが、どうなのだろう。本当に、無理なのだろうか?)
この後に及んでも希望に縋る自分が滑稽で、草世は自嘲をこぼした。
「行ってくる。真珠は家にいてくれ」
「私も行く!」
「駄目だっ!!」
草世は間髪入れずに叫んだ。
「ついてくるな! 巻き込みたくないんだ!」
「でも、お風呂屋さんに行くんだよね? 私、役に立てる!」
「あぁー、もうっ!!」
草世は頭を掻きむしった。
白裂は「真珠は、あなたを助けようと動く。つまり、白狐族の掟を破る」そう話していた。
だから草世は、真珠が起きる前に家を出ようとした。真珠に、白狐族の掟を破らせないために。
それなのに、真珠は起きてきた。計画通りにいかない苛つきで、草世の口調がきつくなる。
「僕は一人で大丈夫だ。役に立とうとしなくていい」
「でも、私ね……」
「専門家を呼んで、呪詛を始末してもらう。だから、君はいなくていい。僕の役に立ちたいなら、おとなしく家にいてくれ」
「だけど昨日、僧侶が言った。私が呪詛を燃やしていいって。私、役に立てる」
「やめてくれっ!!」
草世は声を張り上げた。
「なにもしないでくれ!! 人間同士の争いに関わってはいけないという掟があるんだろう!」
「なんで、知っているの?」
草世は、玄関の引き戸を開けた。外に広がる景色を眺める。
荒ぶる心とは正反対に、春めいた村の景色はのどか。遠くに見える雪を被った山々が美しい。
「これは、僕の仕事だ。君が手出しできることは、なに一つない。……僕のことは忘れてくれ」
「無理! 忘れられない!」
「大丈夫。忘れられる。記憶とは、そういうものだ」
「いやだっ!」
真珠は草履を履くと、草世の背中に抱きついた。
「ずっと一緒にいる!!」
「真珠……」
草世は吐息をつくと、肩から力を抜いた。
振り返ると、真珠の頭をぽんぽんと叩く。真珠の目を見つめながら、目尻を優しく下げて笑う。
「すまない。変なことを言った。夢見が悪かったから、苛ついているようだ。仕事が終わったら、すぐに帰ってくる。だから心配せずに、字の練習をしてくれ。帰ったら、どれぐらい上手になったのか見せてもらう。字の練習、頑張れるかい?」
「……うん」
「ひらがなを全部書けるよう、頑張るんだよ。……じゃ、行ってくる」
草世は外に出ると、にこやかな笑顔で真珠に手を振った。真珠は戸惑った顔で、手を振り返す。
草世は真珠の姿が見えないところまで行くと、笑顔を消した。
「最初から、こうやって優しく諭せばよかったのだ。それなのに、一緒に暮らせて楽しかったとか、僕のことは忘れろとか。未練がましいことを言って、愚かだ」




