File:009 国会議事堂前
「チッ。……思ったより時間がかかったな」
坂上は吐き捨てるように呟いた。
同じ東京出身とはいえ、彼が知るのは郊外の景色だ。
権力の中心地、永田町の地理など知るはずもない。
ただ、空を圧するような重厚な石造りの建物を目指し、方角だけを頼りに突き進んできた。
だが、ようやく辿り着いた。
「来たぞ。……弱者に付け込んだお前の兵隊を片付けてな」
掌の上で、愛用のナイフが吸い付くように回転する。
時間を無駄にしたという隠しきれない苛立ちが混じっていた。
重厚な国会議事堂の正面玄関入口が軋んだような音をあげて開かれる。
「よう、坂上。広島以来か。……何しに来た、こんなところまで」
そこに立っていたのは、隙のない三つ揃えのスーツに身を包んだ前崎だった。
「見りゃわかんだろ。お前をぶん殴りに来たんだよ」
「なぜだ?」
「気に入らないからだ。それ以外に理由がいるか?」
「……それだけか」
前崎は、まるで馬鹿な動物でも見るかのように、薄い溜息を吐いた。
「国家の行く末や大義、あるいは復讐……そんなものを掲げて来るかと思っていたが。
呆れたな、お前はいつまでもガキのままだ」
「お前がやっていることは、国にとっては正解なのかもしれない。
だがな、人としては完全にアウトだと考えている。
理性ではなく感情で判断した結果だ。
だが結局、どちらが正しいのかわからん。だから……」
坂上の視線が鋭く、前崎を射抜く。
「広島で飯の約束をドタキャンしやがった落とし前を、ここでつけさせてやる」
刹那、逆手に持ち替えたナイフが鈍い光を放ち、戦闘態勢へと移行する。
「……殴りに来たと言いながら、真っ先にナイフを抜くのか」
「言葉の綾ってやつだ。察しろよ」
坂上は前崎を観察する。
仕立ての良いスーツの下に、身体機能を底上げする神経外骨格の気配はない。
俺が来ることは想定済みのはずだ。
それなのに、何の武装もなしに現れたというのか。
舐めているのか、それとも――。
「最初に断っておくが、坂上。
私はもう、お前には敵わない」
それは、かつて最強のライバルだった男の口から出たとは思えない、あまりにも静かな降伏宣言だった。
「……何だと?」
「事件から四年。意識を取り戻したのは二年前だ。
その空白を埋めようとしたが……全盛期の身体を取り戻すことは叶わなかった。
今の私では、お前の速度にはついていけない」
坂上は鼻で笑った。
「だからどうした? だったら大人しく諦めて、その澄ましたツラを殴らせろ。
一発で済ませてやる」
ジリジリと、捕食者の間合いで距離を詰めていく。
「だから、別の人間と戦ってくれ。
そいつを倒せたら、お前の気が済むまで殴られてやろう」
「話が違うぞ。五人を倒したら会ってやる、それが条件だったはずだ」
「会うとは言ったが、無抵抗で殴られるとは言っていない。
……交渉事っていうのは最後まで話を聞くものだぞ?」
「……どこまでも食えない野郎だ。
まあいい、誰だ? その身代わりは」
「――僕です」
前崎の背後、扉の影から、一人の青年が音もなく滑り出してきた。
その手には、戦場には不釣り合いなほど小ぶりな、だが手入れの行き届いた片手斧が握られている。
「任せたよ、ソウ」
「はい、前崎さん」
ソウと呼ばれた青年は、確かめるように軽く腕を振るった。
その動きに淀みはなく、ただ獲物を解体することだけを目的とした、議事堂の玄関ホールに満ちた。
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ソウ。
元『アダルトレジスタンス』幹部にして、韓国出身の元・天才ピアニスト。
坂上の記憶の隅にも、その名前は刻まれていた。
テロ組織の幹部名簿という、およそ芸術とは無縁の文脈においてだが。
場違いなほど着こなされたタキシード風の戦闘服が、その忌まわしい記憶を呼び覚ますトリガーとなった。
「ソウ……だと?
おいおい、アダルトレジスタンスの残党は本拠地の崩壊と一緒に、
まとめて地獄へ落ちたんじゃなかったのかよ。
カオリとかいう女も生きているらしいじゃねーか。
どうなってやがる」
「まだ死ぬには若いって最後の審判で神様が私に微笑んだんですよ」
ソウが、流麗な動作で片手斧を構える。
「……いくつか気になることがある。
お前を半殺しにして、その口からゆっくり聞かせてもらうとしようか」
「できるものなら、どうぞ。
一曲踊っていただけますか?おじさん」
一触即発の空気が永田町を包み込む。
だが、その緊張を切り裂いたのは、あまりにも場違いな高音だった。
「ソウくぅぅぅぅぅん、頑張ってぇぇぇぇぇぇ!!」
国会議事堂のテラスから、黄色い声が降り注ぐ。
坂上は頭の中でレジスタンスのメンバーのリストを走らせた。
アリア――確かそんな名前だった。
それにソウ。こいつの女だったはずだ。
「……戦場に女連れか。舐められたもんだな」
「彼女は僕の勝利の女神ですよ。
……単独犯には理解できないでしょうが」
坂上が仕掛けるより早く、ソウが動いた。
片手斧が、まるで複雑な戯曲を奏でるかのような、変則的かつ正確なテンポで空を切り裂く。
(いい腕だ。……その若さでという意味だが)
坂上は神経外骨格の出力を一気に跳ね上げ、踏み込みの衝撃で近くの花壇から土砂を巻き上げた。
(視界が……!!)
ソウの動きが一瞬、止まる。
「お綺麗な勝負がお好きか?
踊りたいなら舞台の上だけでやってろ!」
坂上の手が閃き、ソウのうなじを目掛けてナイフが放たれた。必殺の軌道。
だが、それは届かない。
――キィィィンッ!!
金属音。坂上の目が見開かれる。
ソウは背後を向いたまま、片手斧の「腹」でナイフを完璧に弾き飛ばしていた。
「坂上さん……でしたね。
僕はあいにく、目よりも耳の方がいいんですよ。
空気の振動があなたの居場所をしっかり教えてくれましたよ」
衝撃でソウのタキシードが裂け、その下から「それ」が姿を現す。
「ああ……安くない特注品だったのですが。仕方ありませんね」
露わになった赤い神経外骨格は、坂上の知る金属質のフレームとは似ても似つかぬ代物だった。
「――フンッ!!」
ソウが力を込め、坂上の追撃を強引に押し返す。
そのあまりの膂力に、坂上の腕に激痛が走った。
(なんだこの力は……手の痺れが止まらねぇ……!)
「見たこともねぇ装備だな。……おい、その気持ち悪い神経外骨格は何だ?」
「最新型ですよ。あえて言うなら『生体同調型』。
個人の骨格や筋肉の動きに合わせ、伸縮や圧力を自動制御する。
……いわば『生きている装備』です」
そんなものが実用化されているのか。
だが、驚愕と同時に坂上の口から出たのは、最大級の侮辱だった。
「……気持ち悪い装備だな。
要するに、体にスライムでも塗りたくって戦ってるんだろ?
今時のエロ同人でも、もうちょっとマシな設定があるぞ」
「なんとでも。……ただ、淑女の前です。
そういう下品な例え話は、控えていただきたいですね」
「ただのテロリスト風情が、騎士気取りかよ。
吐き気がするぜ」
「――手の痺れ、そろそろ取れましたか?
そろそろフィニッシュと行きます」
(……見透かされてやがる)
坂上の内心の焦りを嘲笑うかのように、ソウが放つ音のない圧力がさらにその密度を増していった。
国会議事堂の石畳の上、青と赤の閃光が火花を散らし、夜の静寂を切り裂く。
数えきれないほどの交差。
だが、均衡は確実に、そして残酷に崩れつつあった。
要因は明確だ。武器の相性。
リーチと破壊力において、ナイフが斧に勝る道理はない。
それを坂上の卓越した歩法と、打点をミリ単位でずらす職人芸的な技術が辛うじて繋ぎ止めているに過ぎない。
(体力勝負に持ち込もうと思ったが……ガキのくせに底が見えねぇな)
ソウの動きは、戦いの中でさらに研ぎ澄まされ、洗練されていく。
(拳銃を抜く隙も与えてくれねぇか。
この至近距離で狙いをつけた瞬間、俺の頭は叩き割られる。
腰打ちでもいいがナイフを手放すリスクは選べるわけがねぇ)
坂上の神経外骨格からは、過負荷による不吉な軋み音が漏れ始めていた。
改めて、目の前の怪物モドキを観察する。
二十歳も年齢はいってないだろう。
見た目だけでいうのならば中学生に間違えられてもおかしくない幼さの残る顔立ちに、男にしては長めの髪。
160㎝ほどの細身の体躯。
その手に握られているのは、トマホークをさらに延長したような、歪な形状の片手斧。
「随分、余裕がなくなってきましたね。軽口はもう品切れですか?」
「抜かせ。
フィニッシュするとか豪語しておいて、まだ俺の首が繋がってるのはどこのどいつだ?」
ソウの目が冷たく細まる。
互いに得物を構え直し、呼吸を整える。
仕掛けたのは坂上だった。
もはや、後の先を狙う余裕などない。
逃げ切れる場所ではない。
ここは1か月前前崎が、腐りきった政治家どもを掃除した殺戮の舞台だ。
物好きな野次馬すら寄り付かない、隔離された殺害現場。
(……わざわざここを待ち合わせにしたのは、こういう意図かよ、前崎)
勝つためなら、法もルールも人間関係すら利用する。
相変わらず、反吐が出るほど徹底した男だ。
あいつはもう、取り返しのつかない重荷を背負っている。
国家と国民の命をチップにした、狂ったギャンブル。
「……だったら、俺も相応の賭けをしなきゃな」
今までとは明らかに違う、変則的なナイフの軌道。
一時的にナイフの出力をオーバーリミットまで引き上げ、リーチの限界を強引に拡張する。
(来る――!)
ソウは回避が間に合わないと判断し、電磁バリヤーを最大展開した。
衝撃にたたらを踏み、押し返されるが、ソウは無傷。
だが、ソウは追撃に移れなかった。
目の前の男の「空気」が、極限まで変質したからだ。
「……久しぶりにやるか。『集中』ってやつをよ」
ハァ……と深く、長く息を吐く。
それは単なる呼吸ではない。
心拍を、神経を、殺意を一点に束ねるための儀式。
坂上は邪魔な前髪を雑に掻き上げた。
この間1秒もなかった。
「行くぞ、クソガキ。……本物の殺し合いを教えてやる」
坂上の身体がブレる。
尋常ではない数のフェイント。
右、左、上、あるいは下か。
処理能力を超えた情報量に、ソウの脳が、そして最新型の神経外骨格が一瞬の判断を迷った。
ソウは反射的に電磁バリヤーを展開し、殻に閉じこもる。
そこへ、坂上の高周波ナイフが突き立てられた。
――パリンッ!
耳障りな音と共に、限界を超えたナイフの刃が砕け散る。
(勝った!!)
武器を失った坂上に対し、ソウが斧を大きく振りかぶった。
しかし。坂上はその死神の鎌に向かって、自ら一歩踏み込んだ。
相打ち上等。いや、それ以上の「狂気」。
折れて短くなったナイフの残骸を、ソウの右肩へ深々と突き刺す。
「なっ……がぁっ!?」
有り得ない。
斧を食らう直前に、その内側へ潜り込むなど。
自殺志願者のやる事だ。
だが、坂上の瞳に「死」の気配はない。
あるのは、獲物を仕留める猛獣の光だけだ。
「ぐっ……!?」
右肩を潰され、斧の軌道がわずかに逸れる。
ソウは悲鳴にも似た声を上げ、残った左手で斧を持ち替え、坂上の脳天へ叩き落とした。
だが――坂上の左手が、その白刃を「素手」で受け止めた。
「なっ!? そんな、馬鹿なッ!!」
ソウの目が驚愕に見開かれる。
神経外骨格の全出力をその一点に集中させ、坂上は斧の刃を文字通り握り潰し、破壊した。
金属が悲鳴を上げ、粉砕される。
「――終わりだ」
無防備になったソウの顎へ、渾身のアッパーカットが叩き込まれた。
脳を揺らされたソウの体が、ゆっくりと、力なく地面に倒れ込む。
だが、坂上は勝利の余韻に浸ることすらしなかった。
そのまま弾かれたように議事堂のテラスへ跳躍し、呆然と立ち尽くすアリアの喉元を掴み上げる。
「ふぇ……?」
事態に思考が追いつかないアリアの首に、坂上の無骨な指が食い込む。
「――全員、動くな」
坂上の、底冷えするような声が国会議事堂に響き渡った。
それは勝利宣言ではなく、地獄の蓋をこじ開ける合図だった。




