File:008 Hound<No.34> 桃井春奈
少し短めです。
私、桃井春奈には、かつて「夢」という名の呪いがあった。
五輪の表彰台の頂点で、女子陸上短距離の歴史を塗り替える。
その一点だけを信じて、十代のすべてをトラックに捧げた。
けれど、スポーツの世界には残酷な神様が棲んでいる。
どれほど血を吐くような努力を重ねても、隣のトラックで欠伸をしている凡庸な男子選手の記録にすら届かない。
筋肉の質、骨格の構造、心肺の容量。生まれた瞬間に刻印された「女」という限界の壁。
「男のスポーツは、いいよね。
お金になるから」
その言葉を飲み込むたびに、私の魂は摩耗していった。
夢が呪いに変わるまで、時間はかからなかった。
夢を追って上京した東京の空は、私を窒息させるほど狭かった。
食い繋ぐためのバイトに追われ、練習時間は削られ、記録は停滞する。
「夢は叶う」なんて、成功者が敗者を嘲笑うための綺麗事だ。
気づけば私は、自暴自棄の泥濘にいた。
生活のために身体を売り、その心の空洞を埋めるようにホストに溺れ、気がつけば背負いきれない借金だけが残った。
かつて風を切って走った脚は、今や借金取りから逃げ回るためにしか使えなくなっていた。
「死ぬくらいなら、私たちと来ない?」
崖っぷちで立ち尽くしていた私の前に現れたのは、カオリさんだった。
死ぬ勇気さえなかった私は、差し出されたその蜘蛛の糸に、縋り付くしかなかった。
移送された先には、奇妙なほど「突出した」子たちがいた。
絶対音感のその先を見るピアノの天才。
毒すらもスパイスに変える料理の怪物。
電子の海を支配するハッカー。
社会からこぼれ落ちた、歪な才能の掃き溜め。
「あなたは何を望むの?」
カオリさんの問いに、私は迷わず答えた。
「男性と同じ強さが欲しい。
あんな不公平な壁、全部壊せる力が欲しい」
そうして私は、禁断の果実を口にした。
「メタトロン」。彼女はそういった。
簡単に言えば他者の記憶のコピー&ペースト。
他者の知識、力、思考プロセスをデータ化し、脳と身体に強制上書きする禁忌の技術。
昔は記憶しか引き継げなかったらしい。
先人の知恵を無駄にしないために作られたとか。
だが現在のメタトロンは肉体にまで影響を及ぼすらしい。
前崎総統が目指す「能力がフラットになる社会」の先駆けとして、私は実験体になった。
そして宿った。
私の体に男性の魂が。
それからの私は、狂ったようにこの力に没入した。
朝から晩まで、男のトップアスリートの筋肉データを身体に走らせた。
驚愕した。視界の揺れが違う。
踏み出す一歩の爆発力が違う。
これが男たちが立っていた景色か。
「強さを求めるなら、兵士にならない?」
誘われるまま、私は武器を取り、訓練場へ足を踏み入れた。
そこの模擬訓練は忘れられなかった。
楽しかった。
一瞬の判断ミスが死に直結する。
そのスリルは、かつての100メートル走なんてお遊びに思えるほど脳を焼いた。
何より素晴らしかったのは、死すらも「バックアップ」でやり直せることだ。
私は、死の恐怖を克服した無敵のアスリートになったつもりでいた。
だから、坂上真司という「旧時代の最強」の名を聞いた時、私は真っ先に立候補した。
試してみたかったのだ。
私は努力では優っている。
ならば最新の身体と、歴史上の達人たちのを技術を詰め込んだ私が、古臭い一兵卒に負けるはずがないと。
……けれど、結果はこの有り様だ。
手首を断たれ、地面を這いずり、ただの「素人」だと吐き捨てられた。
バックアップがあるから死なない? やり直せる?
違う。坂上の瞳に映る私は、倒すべき敵ですらなかった。
私は、一生……この泥の中から抜け出せない「負け犬」のままなのだろうか。
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「くだらねぇ」
紫煙の向こう側で、坂上は吐き捨てた。
Hound<No.34>――桃井の語る青臭い感傷は、吐き出した煙と一緒に夜の闇へ消えていく。
「夢を叶えるために安定が欲しい? 片腹痛いわ。
その時点で、お前は自分に保険をかけてる。
……いいか。夢なんてのはな、最後は必ず敗北で終わるもんだ。
現実って壁に叩きつけられて終わる。
お前が今感じてるその閉塞感は、夢に逃げた代償だよ」
坂上は吸い殻を靴底ですり潰し、興味を失ったように腰を上げた。
「待ってよ。……なんで、あんたはそんなに平気なの?
夢を叶えられない自分を、どうしてそんなに肯定できるの?」
「は?」
坂上は、心底理解できないという風に眉を寄せた。
「自分を好きだの嫌いだの、そんな安い自意識で動いたことはねぇよ。
俺はただ、強くなりたかった。
その渇きに従って足を進めたら、気づけばここに立ってた。
……それだけだ」
「……そんな、空っぽの人生に価値があるの?」
「さあな。お前から見ればゴミ溜めだろうよ。
だが、人生の価値なんてのは、死に際の一瞬に自分が見極めればいい話だ。
人の評価ばっかり気にしやがって。
そんな若さで『価値』なんて大層な言葉を口にするな。
反吐が出る」
坂上は視線を逸らし、冷たい風を吸い込んだ。
「お前は弱者だ。女だという境遇を盾にして、立ち止まっているだけのな。
……環境のせいにするのは勝手だが、お前の人生が腐り果てていくのは、他の誰でもないお前の責任だ。
自暴自棄になる体力が残ってるなら、足掻け」
「……強者の正論ね。それができれば、誰もこんなに苦しまない」
「知るかよ。何もしない奴の泥沼なんて、覗き込む気も起きねぇ。
メンヘラの気持なんか理解した所でメリットなんぞない。
……だが、手段はどうあれ、お前が変わろうとしてる事実は否定しねぇよ。
精々、泥の中でのたうち回れ」
坂上はそれ以上、背後の気配を気に留めることはなかった。
「俺は俺の都合で動く。
……とりあえず、前崎の野郎のツラを拝みに行く。
あいつの存在自体が、今の俺には気に食わねぇからな。
何もできないお前はそこでジッとしてろ」
夜闇に溶けていく背中。
残された桃井は、冷え切ったコンクリートに大ノ字のまま、星を見上げた。
「私に……何ができるっていうのよ」
滲んだ視界の中で、星だけが痛いほど輝いていた。




