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【☆3.2万PV】アダルトレジスタンス   作者: オレノマツ
第二章 国家騒乱編
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File:008 Hound<No.34> 桃井春奈

少し短めです。

私、桃井春奈(ももいはるな)には、かつて「夢」という名の呪いがあった。

五輪の表彰台の頂点で、女子陸上短距離の歴史を塗り替える。

その一点だけを信じて、十代のすべてをトラックに捧げた。


けれど、スポーツの世界には残酷な神様が棲んでいる。

どれほど血を吐くような努力を重ねても、隣のトラックで欠伸(あくび)をしている凡庸な男子選手の記録にすら届かない。

筋肉の質、骨格の構造、心肺の容量。生まれた瞬間に刻印された「女」という限界の壁。


「男のスポーツは、いいよね。

 お金になるから」


その言葉を飲み込むたびに、私の魂は摩耗していった。


夢が呪いに変わるまで、時間はかからなかった。


夢を追って上京した東京の空は、私を窒息させるほど狭かった。

食い繋ぐためのバイトに追われ、練習時間は削られ、記録は停滞する。

「夢は叶う」なんて、成功者が敗者を嘲笑うための綺麗事だ。


気づけば私は、自暴自棄の泥濘(ぬかるみ)にいた。

生活のために身体を売り、その心の空洞を埋めるようにホストに溺れ、気がつけば背負いきれない借金だけが残った。

かつて風を切って走った脚は、今や借金取りから逃げ回るためにしか使えなくなっていた。


「死ぬくらいなら、私たちと来ない?」


崖っぷちで立ち尽くしていた私の前に現れたのは、カオリさんだった。

死ぬ勇気さえなかった私は、差し出されたその蜘蛛の糸に、縋り付くしかなかった。


移送された先には、奇妙なほど「突出した」子たちがいた。

絶対音感のその先を見るピアノの天才。

毒すらもスパイスに変える料理の怪物。

電子の海を支配するハッカー。


社会からこぼれ落ちた、歪な才能の掃き溜め。


「あなたは何を望むの?」


カオリさんの問いに、私は迷わず答えた。

男性(あいつら)と同じ強さが欲しい。

 あんな不公平な壁、全部壊せる力が欲しい」


そうして私は、禁断の果実を口にした。

「メタトロン」。彼女はそういった。


簡単に言えば他者の記憶のコピー&ペースト。


他者の知識、力、思考プロセスをデータ化し、脳と身体に強制上書きする禁忌の技術。

昔は記憶しか引き継げなかったらしい。

先人の知恵を無駄にしないために作られたとか。


だが現在のメタトロンは肉体にまで影響を及ぼすらしい。

前崎総統が目指す「能力がフラットになる社会」の先駆けとして、私は実験体になった。


そして宿った。

私の体に男性の魂が。


それからの私は、狂ったようにこの力に没入した。

朝から晩まで、男のトップアスリートの筋肉データを身体に走らせた。

驚愕した。視界の揺れが違う。

踏み出す一歩の爆発力が違う。

これが男たちが立っていた景色か。


「強さを求めるなら、兵士(ハウンド)にならない?」


誘われるまま、私は武器を取り、訓練場へ足を踏み入れた。


そこの模擬訓練は忘れられなかった。

楽しかった。

一瞬の判断ミスが死に直結する。

そのスリルは、かつての100メートル走なんてお遊びに思えるほど脳を焼いた。

何より素晴らしかったのは、死すらも「バックアップ」でやり直せることだ。

私は、死の恐怖を克服した無敵のアスリートになったつもりでいた。


だから、坂上真司という「旧時代の最強」の名を聞いた時、私は真っ先に立候補した。

試してみたかったのだ。

私は努力では優っている。

ならば最新の身体(ハードウェア)と、歴史上の達人たちのを技術(ソフトウェア)を詰め込んだ私が、古臭い一兵卒に負けるはずがないと。


……けれど、結果はこの有り様だ。

手首を断たれ、地面を這いずり、ただの「素人」だと吐き捨てられた。


バックアップがあるから死なない? やり直せる?

違う。坂上の瞳に映る私は、倒すべき敵ですらなかった。

私は、一生……この泥の中から抜け出せない「負け犬」のままなのだろうか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「くだらねぇ」


紫煙の向こう側で、坂上は吐き捨てた。

Hound(ハウンド)<No.34>――桃井の語る青臭い感傷は、吐き出した煙と一緒に夜の闇へ消えていく。


「夢を叶えるために安定が欲しい? 片腹痛いわ。

 その時点で、お前は自分に保険をかけてる。

 ……いいか。夢なんてのはな、最後は必ず敗北で終わるもんだ。

 現実って壁に叩きつけられて終わる。

 お前が今感じてるその閉塞感は、夢に逃げた代償だよ」


坂上は吸い殻を靴底ですり潰し、興味を失ったように腰を上げた。


「待ってよ。……なんで、あんたはそんなに平気なの?

  夢を叶えられない自分を、どうしてそんなに肯定できるの?」


「は?」


坂上は、心底理解できないという風に眉を寄せた。


「自分を好きだの嫌いだの、そんな安い自意識で動いたことはねぇよ。

 俺はただ、強くなりたかった。

 その渇きに従って足を進めたら、気づけばここに立ってた。

 ……それだけだ」


「……そんな、空っぽの人生に価値があるの?」


「さあな。お前から見ればゴミ溜めだろうよ。

 だが、人生の価値なんてのは、死に際の一瞬に自分が見極めればいい話だ。

 人の評価ばっかり気にしやがって。

 そんな若さで『価値』なんて大層な言葉を口にするな。

 反吐が出る」


坂上は視線を逸らし、冷たい風を吸い込んだ。


「お前は弱者だ。女だという境遇を盾にして、立ち止まっているだけのな。

 ……環境のせいにするのは勝手だが、お前の人生が腐り果てていくのは、他の誰でもないお前の責任だ。

 自暴自棄になる体力が残ってるなら、足掻け」


「……強者の正論ね。それができれば、誰もこんなに苦しまない」


「知るかよ。何もしない奴の泥沼なんて、覗き込む気も起きねぇ。

 メンヘラの気持なんか理解した所でメリットなんぞない。

 ……だが、手段はどうあれ、お前が変わろうとしてる事実は否定しねぇよ。

 精々、泥の中でのたうち回れ」


坂上はそれ以上、背後の気配を気に留めることはなかった。


「俺は俺の都合で動く。

 ……とりあえず、前崎の野郎のツラを拝みに行く。

 あいつの存在自体が、今の俺には気に食わねぇからな。

 何もできないお前はそこでジッとしてろ」


夜闇に溶けていく背中。

残された桃井は、冷え切ったコンクリートに大ノ字のまま、星を見上げた。


「私に……何ができるっていうのよ」


滲んだ視界の中で、星だけが痛いほど輝いていた。

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