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【☆3.2万PV】アダルトレジスタンス   作者: オレノマツ
第二章 国家騒乱編
123/127

File:001 英雄の裏切り①

懐かしい夢を見ていた。

かつての子ども時代から今までのことだ。


走馬灯のように駆け抜けてきた人生だった。


もう遠い過去のようだ。


僅かな振動で思い出す。

そうか車に乗っていたのか。

閉じた目を開く。


見慣れない景色が流れていく。

そして教科書で何度も見たことのある建物が目に入る。


2059年8月6日。

日本では原爆記念日(広島平和記念日)である。


国民栄誉賞受賞のセレモニーを控え、広島原爆ドーム前に現れた前崎の様子は、いつも通り淡々としていた。

4年前の全盛期ほどではないにしろ、地道なリハビリと訓練の末、その肉体と健康状態はかつての力強さを取り戻していた。


そして4年ぶりなのはこの原爆記念の式典もである。

アダルトレジスタンスの影響を受けたシンパに要人が殺される可能性が高まったせいだ。


よって治安がある程度戻り、4年ぶりにやることになった。

それでも日本の治安は悪化の一途を辿っていた。


「前崎さん、到着です」


一ノ瀬が恭しく車のドアを開ける。

防弾仕様の重厚なドアの向こうに、早朝の広島の空気が流れ込んできた。


「まったく……俺は一介の公安だぞ。

 なんで大統領専用車両なんかに乗せられているんだ」


「仕方ないでしょう。今のあなたは、この国の『英雄』なんですから」


一ノ瀬の言葉を鼻で笑い、前崎は静かにドアを閉めた。

一ノ瀬が差し出した手に首を振る。


「荷物は自分で持つさ。まだ介護が必要な歳じゃあない」


バックヤードに入ると、式典の準備に追われる職員たちの慌ただしい姿が目に飛び込んできた。

時計の針はまだ午前6時を回ったところだ。

投下の時刻である「8時15分」までは、まだ十分すぎるほどの時間がある。


「特別な日なのはわかるが、早すぎないか? まだ6時だぞ」


「涼しいうちに済ませるのが一番なんですよ。

 熱中症対策の運動会のように秋に延期するわけにもいきませんからね」


「……まあ、そうだな」


案内されたのは、原爆ドームに近い迎賓室だった。


「おいおい、外で待機でいいぞ」


「そういうわけにはいきません。

 あとで首相がお見えになりますから。

 失礼のないように……僕はここで失礼します」


一ノ瀬が去り、広い部屋に一人取り残された前崎は、手持ち無沙汰に窓の外を眺めた。


「……まるで母親のようなことを言われてしまったな」


平和記念公園には、すでに多くの県民が集まっていた。

意外にも若い学生たちの姿が目立つ。

平日だというのに、この人数は少し異常だ。


「引きこもりがここまで増えたとは思いたくないが……」


無意識に電子デバイスで検索をかける。

なるほど、広島と長崎では原爆の日は休校になる文化があるらしい。

それだけでなく、仕事が祝日休みになる職場も少なくないようだ。


「独自な文化があるんだな」


納得してページを閉じる。


だが、何もしていないと落ち着かなかった。

この4年間、前崎はある「準備」を進めてきた。

正直、それを今日、この場所で実行に移すべきかどうかは最後まで決めかねていた。


「アダルトレジスタンス」の台頭以降、日本は静かに、だが確実に変わりつつあった。

不誠実な政治家は相変わらずだが、若者たちが声を上げ、企業が不当な増税に抗議の意を示すようになっている。

社会は、ルシアンのように壊滅と主権奪取という極端な手段を選ばずとも、良い方向へ向かっているのではないか。

そう思える瞬間もあった。


「いや……若者が頑張っているんだ。俺が台無しにしてどうする」


独り言をつぶやき、迷いを振り払うように首を振る。

その時だった。


「前崎様。首相がお見えになります」


ドア越しに声が響く。


「わかった。それと『様』はやめろ。さんでいい」


「いえ、そういうわけには……あと数十秒で到着されます」


開け放たれたドアから入ってきたのは、現首相・城田だった。

少し中年太りで、目に深い隈を湛えているが、一見すると人当たりの良さそうな顔をしている。

後ろにはメディアのクルーがぞろぞろと続いていた。


「やあ、君が前崎君か。活躍は聞いているよ」


「……ありがとうございます」


初めて対面した城田の顔に、前崎は即座に違和感を覚えた。

それは笑顔というより、顔に張り付いた「仮面」のようだった。

あまりに精巧な役者のそれだ。


城田は親しげに前崎の肩を抱いて写真を撮らせると、椅子にドカリと腰を下ろした。


「今日、私が君に賞を渡す手はずになっている。

 本当は内閣総理大臣賞が妥当なのだが、今回は国民栄誉賞にさせてもらったよ」


前崎は眉をひそめた。

本来、国民栄誉賞は文化やスポーツの功労者に贈られるものだ。

災害救助や治安維持の功績であれば、内閣総理大臣賞が筋である。


「ありがとうございます。

 ですが、差し支えなければその理由を伺っても?」


城田は面倒そうに溜息をついた。


「もう、この4年で『総理大臣賞』は渡し疲れたよ。

 あの生意気なガキども――アダルトレジスタンスとか抜かしたか。

 連中のせいで価値が暴落して『誰でももらえる賞』だと揶揄されてね。

 そのたびに各地へ駆り出される身にもなってほしいものだ」


「……そうですか」


前崎の胸の内に、小さな火が灯った。

城田はさらに言葉を重ねる。


「そもそも災害復興なんて自衛隊の仕事だろう?

  当たり前の仕事をしただけじゃないか。

 まあ、賞状一枚で済むなら安いものだがね」


フハハハ、と自嘲気味に笑う城田。

その声を聞くたびに、前崎の苛立ちは限界まで膨れ上がっていく。


「だから君も、英雄なんて呼ばれて調子に乗ってはいけないよ。

 君の仕事はあくまで影だ。

 表に出てきてはいけない人間だということを、肝に銘じなさい。わかったかい?」


無造作に頭を撫でられる。

その湿った手の感触に、前崎の中で何かが静かに、だが決定的に音を立てて壊れた。


「……わかりました」


ああ、わかった。

この国は、何一つ変わっていなかった。

誰がどれほどの思いで動き、誰がどれほどの血を流してあなた方の無能なケツを拭いてきたのか。

この男は、何一つ理解していない。


続々と部屋に入ってくる政治家たちの会話が、前崎の耳に突き刺さる。


「首相、今日の名演説、期待していますよ!」

「何、ただの定型文だ。スピーチライターに書かせた甲斐があったよ。

 早く終わらせてホテルで飯にしよう。広島にいい店を知っているんだ」

「それにしても暑いですね。外で演説なんて、まともな人間のすることじゃない」


前崎は、冷めた目で彼らを眺めた。


「あぁ! 君が前崎君か」


一人の政治家が下卑た笑みで話しかけてくる。


「公安のくせにここまで有名になっちゃって。これからどうするの?」


「……これまで通り、公安で働きます」


「うまいことやったねえ!

 これでもう現場に出ず、デスクワークでふんぞり返っていられる。

 僕も早く君の立場になりたいよ」


絶句した。

なんというか失礼とかそういうレベルを超えている。

この男たちは、日本という国を背負っている自覚など微塵もなく、ただ己の保身と、どう楽をするかしか考えていない。


「私の息子を秘書に……」

「テスラの最新モデルを……」

「キャバクラの領収書を……」

「入り口の案内係の態度が……」


聞こえてくるのは、欲望と不満の濁流。

ここは、金と権力に太った豚の集まりか。


「――だから、私を君から推薦して……おい、聞いているのか?」


前崎はその政治家を無言で睨みつけた。

蛇に睨まれた蛙のように硬直する男を捨て置き、彼は部屋を出た。


ダメだ。

若者がいくら血を吐く思いで頑張っても、制度を作る側が無能であれば、何も変わらない。

目先のことしか考えられない人間を、倫理観を金で曇らせた人間をリーダーに戴いている限り、この国に未来はない。


洗面台で顔を洗い、鏡の中の自分を見つめる。

髪をかき上げ、冷徹な瞳で自らに問いかけた。


「さようなら、公安の前崎」


短く息を吐き出す。


「俺も結局あいつらと同じか」


隠し持っていたインカムを起動させる。


『エルマー、聞こえるか。ことを起こす。協力しろ』


インカムの向こうから、愉しげな笑い声が返ってきた。


『……変わったね、前崎さん。もう躊躇はないんだ?』


『ない』


断言した。


『よりによって、この日にやるなんて。

 今日は日本で最も争い事をしてはいけない日だよ?』


『だからやるんだ。俺が日本を変える』


前崎は関係者入口を強引に突破し、開場前の原爆資料館へと足を踏み入れた。

展示された過酷な惨状。溶けた金属、黒雨の跡、後遺症に苦しむ人々の記録。

負の遺産が語りかける沈黙の中で、前崎は静かに黙祷を捧げた。


「すみません。広島の被害者の方々。

 日本を、良い方向に導くことができませんでした。

 あなた方の末裔は、随分と愚かな存在になりました」


「少子化を放置し、治安を崩壊させ、子供たちに武器を取り、それを撃ち殺してきました。

 中流階級は消え、貧富の差は広がり、弱者に甘すぎた社会は日本人を堕落させた。

 正攻法では、もう不可能な時代になったんです」


前崎は、祈るように膝を突き、頭を深く下げた。


「申し訳ありません。

 あなたたちが『二度と繰り返さない』と誓った過ちを、私は今から犯します。

 どうか、安らかにお休みください」


頬を伝う涙を拭う。これが何に対する涙なのか、彼自身にも分からなかった。


『準備ができたよ。……前崎さん? どうかしたの?』


『……銃を寄越せ』


『はい』


足元に、小型のリボルバーが音もなく落とされる。

前崎はその銃を手に取り、掲げられた日本の旗を見据えた。


『アメリカの大統領が今年は来なくてよかった。

 国際問題になるからな。

 今ならば日本の内乱として片づけられる』


サイレンサーを装着し、引き金を引く。

消音された乾いた音が、無人の資料館に響いた。


「俺が、国家を引きずり下ろす」


-----------------------------


「前崎さん、一体どこへ行ったんだ?」


一ノ瀬は迎賓館の廊下を足早に歩きながら、胸のざわつきを抑えられずにいた。


「……まさか、手持ち無沙汰で職員の手伝いでもしてなきゃいいけど」


冗談めかして呟き、市役所員たちの詰め所や裏手の待機所も見て回ったが、あの屈強な背中はどこにも見当たらない。


「一ノ瀬さん」


不意に声をかけられ、一ノ瀬は足を止めた。


「東雲か。前崎さんを見なかったか?」


「いえ……。それより、まもなく直前のミーティングが始まります。

 これ、参加されますか?

 必要ならば私がメモを取っておきますが……」


「ああ。もうそんな時間か……すぐ向かう」


仮設テントの中には、本番を控えた緊張感が充満していた。

SP、警察、そして内閣直轄の精鋭たち。

その中には、かつて「アネア人ショッピングモール占拠事件」で前崎を連行した内閣直轄の近藤の姿もあった。


「……前崎はどうした? 奴の姿が見えんが」


近藤が低い声で尋ねる。


「首相と一緒のはずだったんですが、姿が見えなくて……携帯も通じません」


「ふむ。まあ、あの男のことだ。

 時間を守らん性質(タチ)じゃない。

 何かそうするべき理由があるんだろう」


「そう……だといいんですが」


一ノ瀬の不安を余所に、テント内に鋭い声が響き渡った。


「さて、皆さん。静粛に!」


演台に立ったのは、今回の統括を務める広島市長だ。


コロナパンデミック以降、独自の発展を遂げた広島。

その首長である彼は、単なる地方自治体の長ではない。


与野党の思惑、被爆者団体の切実な声、そして国際社会の厳しい視線。

そのすべてを全方位に配慮しつつ、「広島の意志」を言葉にする。

それは、日本のどの都市の首長よりも圧倒的なバランス感覚を要求される激務だ。

無能には、この席は務まらない。

それを証明するような、歴史の重みを感じさせる声量だった。


「本日の記念式典は、例年になく特殊なケースだ」


市長はホワイトボードに、今回の警戒レベルを示していく。


「国民栄誉賞の授与もさることながら、今なおアダルトレジスタンスの思想に傾倒する若者は多い。

 君たちの中にも、一部その声に理解を示す者がいるかもしれない」


(それを市長自らが口にするのか……)


一ノ瀬は、その胆力に舌を巻いた。


「だが、ここは広島だ。そんな真似はさせない。

 かつてオリンピックに乗じて中華コミュニティを焼き払うような火災が起こったが、あのような不審な出来事は二度と許さん。

 私がいる限り、広島は平和なままであり続ける」


市長は力強く磁石をボードに叩きつけた。


「今回は公安との合同任務だ。

 私から提案させてもらった。

 何分、賞を受け取る人間が、公安でありながら敵組織への二重スパイを完遂した男だ。

 功績は尊敬しているが――私は職務上、誰も信用はしていない」


市長の射抜くような視線が一ノ瀬を捉えた。


(この人、この場の全員の顔と名前を一致させているのか……?)


その言葉に悪意はなかった。

あるのはただ、この式典を無事に完遂させるという、狂気にも似た責任感だ。


「4年ぶりの平和式典だ。必ず無事に終わらせる。良いな!」


「はい!」


一斉に響く返事。


「よろしい。配置の説明は、坂上君に任せる」


「承りました」


前に出たのは、自衛隊で異例の出世を遂げた坂上だ。


「まず、付近のビルはすべて自衛隊が封鎖。

 さらに、半径1km圏外に対して『視覚阻害ホログラム』を展開中です」


「視覚阻害?」


近藤が思わず聞き返す。


「はい。原理は蜃気楼と同じです。

 圏外から公園を見ると景色が微細に歪んで見える。

 これにより、狙撃手は1km超の距離から精度を保つことは不可能です。

 ヘリでも出さない限りは」


坂上の説明は冷徹なまでに完璧だった。

貴金属の預かり、航空セキュリティ並みの検問。


「自衛隊は外周、警察は交通、SPは要人警護。

 そして公安は一般客に紛れ、不審者の即時制圧に当たれ。

 ……質問は?」


異論を挟む余地はなかった。


「よし各自、配置へ」


解散の合図とともに、一ノ瀬は坂上に歩み寄った。


「坂上さん! 前崎さんを見ませんでしたか?」


「……? お前のところの管轄だろう。控室にいないのか?」


「ええ。携帯の電源も切れていて……」


坂上の表情が険しくなる。


「……それはおかしい。奴がこの状況で連絡を絶つはずがない。

 全体に無線を流す。

 ボディガードたちにも周知しろ。

 お前は予定通り私服に着替えて配置につけ」


一ノ瀬は頷き、一般市民に紛れるための普段着に着替えに向かった。


「前崎さん、どこにいるんだよ……」


観客席の一角に座り、ざわつく広場を眺める。


(まあ、坂上さんに任せておけば大丈夫か……)


一方、現場を仕切る坂上の胸中には、得体の知れない胸騒ぎが渦巻いていた。


(あいつが連絡の要である端末を切る? 開会直前ならまだしも、このタイミングでか……)


公安に命じてトイレから備品庫まで徹底的にチェックさせたが、形跡はない。

監視カメラの記録を遡らせていた広島市職員から、高宮に一通の報告が入った。


「公安の高宮です。坂上さん、一つ違和感のある映像が見つかりました」


「どうした?」


「記録を確認したのですが……前崎さんは不自然にカメラの死角を突いて移動しています。

 場所を完全に把握しているとしか思えません。

 足取りが途絶えたのは、資料館を出た直後です」


「なんだと……?」


背筋に冷たいものが走る。

偶然ではない。あいつは「意図的に」消えたのだ。


しかも大して用がない資料館に行っていた。

今は閉館しているはずなのに……だ。


実は、この警備計画には極秘のアラートシステムが組み込まれていた。

市長、坂上、警察長、そしてSPの責任者。

このうち誰か一人が直感でも「危険」と判断すれば、即座に式典を中断させる権利がある。

指先が、緊急信号の発信キーにかかった。


その瞬間、インカムからボディガードの報告が飛び込んできた。


『……前崎様、現れました。迎賓館裏です』


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


『少し離れる。時間までには戻る』


全体にそう言い残し、坂上は持ち場を離れ、前崎の元へ駆けつけた。

そこには、まるで何事もなかったかのように政治家たちと談笑し、柔和な笑みを浮かべる前崎の姿があった。

その姿に激しい苛立ちを覚え、坂上は前崎の襟首を掴んで廊下へと引きずり出した。


「おい。お前、今までどこで何をしていた」


「……坂上か。お前がここの警備担当だったのか?」


「しらばれるな! どこへ行っていたと聞いている!」


「声を落とせ。首相たちの前だぞ」


「関係ない。答えろ! 最悪の場合、この式典を中止させるところだったんだぞ!」


坂上の剣幕に、前崎はなぜか「きまりが悪そうに」目を逸らした。


「……ただ、セリフを覚えようとしていただけだ」


「…………は?」


あまりの拍子抜けな回答に、坂上は自分の耳を疑った。


「だから、スピーチのセリフを暗唱して、覚えてたんだよ」


「なんでそんなことをするために姿を消す! ここでやればいいだろう!」


「……んな姿、首相や同僚に見せられるか。式典なんて出たことねーんだよ。

 緊張してるんだよ、察しろ」


「……そのために、監視カメラの死角を縫って歩いたというのか?」


「ああそうだ! 練習してるところを記録に残されたくないからな!」


坂上は力が抜け、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。


「……くだらねえ。マジで、くだらねえよ」


「これから歴史に残るんだぞ。俺の、人生初の『名台詞』が」


「聞いて損した。トイレでやればいいだろうが」


「声に出さないと覚えられないんだ。

 しかもスピーチがあるなんて知ったのは昨日だぞ?」


「……はあ。一ノ瀬が死ぬほど心配してたぞ。連絡くらい入れておけ」


「あ、悪い。集中するために電源切ったの忘れてた。今入れる」


そこへ、ボディガードが迎えに来る。


「前崎様、首相と共にご移動を」


「わかった、すぐ行く」


前崎は首相たちの輪へと戻っていく。

その歩みは、先ほどまでの「番犬」のそれではなく、一国の英雄としての威風堂々としたものに見えた。


(……随分と偉くなりやがって)


そう心の中で思うだけに留めた。


「あ、そうだ。坂上」


立ち去り際、前崎が振り返った。


「なんだ?」


「さっき、うまい飯屋の場所を聞いたんだ。これが終わったら、一緒に食いに行こうぜ」


変わらない前崎の態度に、坂上は毒気を抜かれたように苦笑した。


「ああ。……無事に終わったらな」


全体無線に「前崎確保、単なる緊張による離席」との連絡が入る。

無線に笑い声が入る。


「あの人らしいですね」


一ノ瀬を含め、現場の緊張は一気に弛緩した。

皆、この「英雄」の意外な人間味を笑って許したのだ。


式典が始まった。


特設ステージでは、首相がスピーチライターの書いた「テンプレ通り」の演説を読み上げている。

平和、不戦、誓い。

耳を通り過ぎていく空虚な言葉の羅列。


だが、それを聞くのも警備側の義務だ。

フリだけするのでも全体の印象は変わる。

坂上は虚無感に耐えながら、周囲を警戒し続けた。


だが……


(意味ねえのにな……)


真に平和記念日が意味のあるものならばもっとメリットがあると思うのだが

国際的な証明と忘れていませんよというアピール以外に何があるのだろう?


約1億7,351万4千円。

この一時間の茶番にかかっている費用である。

しかもこれは原爆80周年の時のものであり、そこからは非公開である。


インフレが加速した今の日本では3億円を下らないだろう。


まるで校長先生の長い話を聞かされる生徒のような気分だ。

早く終わってくれないか。


だが、わずかな楽しみはあった。

首相の演説が終わり、次はいよいよ前崎の番だ。


あいつが、あの「死角」で一体どんな言葉を練り上げてきたのか。

唯一、それだけが楽しみだった。

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