前崎の過去
前崎に両親はいない。
児童養護施設の前に置かれていたそうだ。
のちに監視カメラから両親の記録を辿ったが、その両親はすでに殺されていたらしい。
昔はその両親がどんな人間だったか興味を持ったこともあったが、施設の人間は何も教えてはくれなかった。
そうして過ごすうちに、次第に興味は失せていった。
どうせ碌でもない人間だったのだろう、と。
前崎にとって身内と呼べる人間は、養護施設の中にしかいなかった。
だが、彼はひどい問題児だった。
孤独ゆえか、あるいは拭えぬ怒りゆえか。
とにかく暴力がやめられなかったのだ。
施設の人間が刺股を持ってきても手が付けられない。
何せ、幼い身でナイフを振り回すような子供だったのだから。
それは「ヤンチャ」というレベルをとうに超えていた。
そんな前崎を見かねて、ある日一人の男が児童養護施設にやってきた。
聞けば、とある富豪だという。
中国人と日本人のハーフだった。
彼は前崎を引き取り、自らが組織する私設軍隊の一員になるよう手を貸した。
「これから先、日本の治安は悪くなる。
だから私は傭兵や私設軍隊に投資しているんだ。
君にはその才能がある。ぜひそこで力を振るってほしい」
男はそう言った。
こうして前崎は、私設軍隊の地下修練場へと叩き込まれた。
最初こそ生意気な態度を崩さなかったが、そこで初めて自分より強い人間たちに囲まれ、前崎は急速に成長していった。
それは男として、そして人としての成長でもあった。
加えて、彼の高い学習能力がその成長に拍車をかけた。
調べると、前崎のワーキングメモリーは平均を大幅に上回っていたのだ。
当初はさして期待していなかった周囲の人間たちも、次第に彼を「将来の主人を守る盾」として重宝するようになった。
まさにその時の前崎は、主人の番犬となるべく、あらゆる体術や勉学、知識をその身に叩き込まれていた。
前崎が16歳になる頃には、その体も精神も、ほぼ完成されていたと言っていいだろう。
周りの大人たちと比べても、その佇まいは成熟していた。
学校は、前崎の出生にしては分不相応なほどの進学校に通わせてもらった。
そこでも彼は優秀な成績を出し、特待生として学費の免除まで受けるようになった。
友人関係で特筆すべきことは何もなかったが、彼は主人の娘の護衛として、学校では常に彼女の傍らにいた。
部活にも入らず、コミュニケーションが拳から始まるような堅物の前崎にとって、彼女は周囲との唯一の緩衝材だった。
彼女とは偶然にも同い年であり、前崎を怒らせては問題になると察したのか、彼女自身が彼の「緊急停止装置」としての役割を担ってくれていた。
もっとも、前崎が表立って怒りを露わにすることはなかったが、彼が醸し出す雰囲気は常に「虎」のそれだった。
主人の顔に泥は塗れないという理由で大人しくしてはいたものの、見えない所でこっそりと「片付ける」ことはあった。
そして何より、前崎は密かに彼女へ恋心を抱いていた。
だからこそ、彼女の前でだけはそんな下品な真似はしまいと心に決めていたのだ。
もちろん、それが叶わぬ恋であることは十分に理解していた。
登下校中に外敵の襲撃に遭うこともあったが、そのすべてを跳ね除け、いつしか二人は学校で一躍有名人になっていた。
異性に告白されることもあったが、前崎はすべて断った。
自分は忠義を尽くすために生まれてきたのだと、自らに言い聞かせて。
17歳のある時、漠然と大学への進学を勧められた。
彼女の護衛ができるならどこでもいいと考え、前崎は彼女と同じ大学、同じ学部を志望した。
彼女は東京大学の教育学部に行きたいらしかった。
正直、教育などという分野に興味はなかった。
唯一、前崎の心を突き動かすのは「強さへの渇望」だけだった。
強くなれるのであれば、手段も名目もなんだってよかった。
現に、弱冠16歳にして格闘技と名の付く大会はすべて総なめにしていた。
ボクシング、キックボクシング、MMA、ムエタイ、空手。
幼い頃から身に着けた殺人術は、彼を最高のソルジャーへと変えていた。
ただ、いくら輝かしい賞を取っても、前崎が喜ぶことはなかった。
拳銃一つあれば、このような努力はすべて消し飛んでしまうのだから。
そんな前崎の冷めた思いとは裏腹に、高校では「前崎が大会に出れば全クラスが応援に行く」という謎の文化まで巻き起こった。
何より彼が勝ち続けるため、一種のカンフル剤のように学校全体を活気づけていた。
だが、前崎はスポーツとしての勝負には微塵も興味がなく、それよりも本気の殺し合いに対する対策や制圧技術を学びたがっていた。
もはや、今の主人の防衛隊長すら、実力的にはとうに追い越していた。
彼らに実力がないわけではない。
ただ、彼らは「守ること」に特化しており、前崎が求める「攻めて制圧する」という技術においては、彼の基準に達していなかっただけだ。
ある日の休み、前崎は千葉県の習志野駐屯地へと向かった。
学校の同級生から「第一空挺団という連中がとにかくヤバいらしい」という話を聞き、その言葉に惹かれたからだ。
主人にお願いをして、現地へ連れて行ってもらった。
しかし、そこ繰り広げられていたのは演武やオーケストラの演奏であり、前崎が求める「本物」はそこにはなかった。
そんな中、一人だけ只者ではない雰囲気を纏う男がいた。
当時の第一空挺団の隊長だった。
試しに、殴りかかってみた。
結果は、ボコボコにされた。手も足も出ず、何もできなかった。
これまで積み上げてきた技術など、本当の殺し合いの場では何一つ通用しないことを、前崎は思い知らされた。
当然、この一件は問題になったが、前崎は「ありがとうございました」と深く頭を下げた。
「またリベンジしに来てもいいですか?」という彼の言葉で、事態は収束した。
前崎がスポーツ界で有名人だったことも幸いしただろう。
むしろ武術家として強さにひたむきな姿勢が、周囲には好意的に評価された。
そして主人は、引退した自衛隊員たちが前崎の自宅まで指導に来るという、破格の対応を許してくれた。
前崎は心の底から主人に感謝した。
好きなだけ自分の武を相手に試し、時には(違法ながら)銃を手に取る機会すら与えられた。
大学へは問題なく進学した。
主人が裏から手を回し、前代未聞の指定校推薦という形で帝京大学への切符を手に入れたのだ。
もっとも、前崎にはそれに恥じない文武の実績があったし、お嬢様の方も学業に問題はなかった。
こうして彼女との大学生活が始まった。
彼女が18歳になったある夜、彼女は前崎に酒を飲ませてきた。
この国が変わらないのは教育制度の問題だ、と彼女は語った。
日本と中国、二つの国を見てきた彼女だったが、その心は純粋な日本人だったようだ。
「英、あんたこれからどうするの?」
彼女は、前崎のことをそう呼んでいた。
「お嬢の将来についていくよ」
人前では敬語を崩さないが、二人きりの時はタメ口だった。
「じゃあ、あんたが旦那だ」
そう言って、前崎は無理やり抱かれた。
好きでもない男に抱かれる政略結婚だけは嫌だったのだという。
しかし家の生まれからは逃れられないのを悟っていた。
だから、今のうちに、自分から前崎を抱いておきたいのだと。
悪い気はしなかった。
主人には申し訳ないという思いもあったが、それ以上に彼女の意志が強かった。
普通は男がリードするものだろうが、彼女はあまりに積極的すぎた。
このまま、彼女との将来を薄っすらと思い浮かべていた。
「就職」という言葉に自分自身はピンと来ていなかったが、これから先、主人とその娘のために一生を費やすことになるのだろう。
他人から見れば、それは不幸せな人生に見えるかもしれない。
だが、前崎はそれで満足だった。
あの日々こそが、彼の世界のすべてだったからだ。
しかし、そのささやかな幸福は長くは続かなかった。
主人が何者かに暗殺されたのだ。
死因は毒。ホテルの食事が、静かなる凶器に変わっていた。
真っ先に疑いの目が向けられたのは、たまたまその時に最も近くにいた護衛の前崎だった。
だが、潔白な彼からは何一つとして動機・証拠は出ず、疑惑は霧散した。
それと時を同じくして、彼女も姿を消した。
まるで蜃気楼のように、前崎の前から跡形もなく。
大学に籍は残されていたが、彼女が再びその門をくぐることはなかった。
最後に挨拶を交わすことさえ許されず、前崎はただ、自分が見捨てられたような、言いようのない喪失感に突き落とされた。
残されていたのは、一通の手紙だけだ。
『あなたのやれる最大限のことをやりなさい。
そして、私よりいい女を抱きなさい』
俺のやりたいこと? わからない。
主人の首輪から外れた今の俺には、生きる目的すら見当たらなかった。
「……音楽か?」
無理やりサークルに入れられ、お嬢にやらされていたギターを思い出す。
弾いている間は楽しかったが、お嬢がいないのなら、弦を弾く意味も大して感じられない。
QUEENは好きだったが、フレディ・マーキュリーになりたいわけでもなかった。
ふと、お嬢が語っていた言葉が脳裏をよぎる。
――この国が変わらないのは、教育制度のせい。
日本において、それを最も根本から変えられる職業は何だ? ネットの海を彷徨い、前崎は答えを探した。
「政治家?……いや、違う」
政治家には地盤と金がいる。
それでは意味がない。
生まれ育ちではなく、純粋な能力だけで頂点へ登り詰められる場所がいい。
「……官僚か」
聞いたことはあるが、具体的な仕事内容は知らなかった。
調べてみれば、国の制度を設計する職業だという。
前崎にとって官僚も政治家も大差ない存在だったが、やりたいことがない以上、人生というゲームの「ハイスコア」を目指すのも悪くない。
「官僚になるよ、お嬢」
幸運か、あるいは執念か。前崎は官僚としての椅子を勝ち取った。
だが、彼の実力は既存の官僚組織という枠に収まるものではなかった。
あまりに高い学習能力、冷徹なまでの判断スピード、そして一切の妥協を許さない仕事への姿勢。
それまでの「調整」や「前例」を重視する霞が関の人間たちにとって、前崎の存在は、自分たちの無能さを鏡のように映し出す劇薬でしかなかった。
「……あいつは、我々の世界の人間じゃない」
持て余した上層部は、前崎を有能すぎるがゆえの「厄介払い」として、公安へと配属させた。
エリートコースからの事実上の左遷。
出自や嫉妬も理由として存在したことは察していた。
だが、前崎にとってはこの暗がりの方が、肌に合っていた。
誰の目も気にせず、ただ純粋に「強さ」と「結果」だけを追い求められる環境。
そこは、生まれた時から彼の中にあった「強さ」への異常なまでの執着を、正当な理由を持って解放できる場所でもあった。
彼が求めていたのは、観客に拍手を送られるリングの上の華やかな格闘技などではない。
泥にまみれ、生と死が紙一重で入れ替わる「殺し合いの技術」そのものだ。
官僚という立場でありながら自衛隊への特別研修という異例の道へ踏み込んだのは、彼にとって必然だった。
空調の効いた部屋で無機質な書類を回すだけの日々よりも、戦場の泥にまみれ、実戦の技術をその身に叩き込まれる時間の方が、よほど彼の乾いた魂を潤した。
事実、この特別研修は彼の人生の中で最も充実した時間となった。
そこで出会った坂上や雨宮といった面々。
死線を共有し、互いの技をぶつけ合った彼らとは、単なる組織の利害を超えた「友」としての深い絆を感じていた。
今の前崎には、明確な目的も目標もない。
最初はお嬢以上の女を手に入れること、そして彼女が望んだ教育制度の変革。
何をしていいか分からないから、とりあえずそれらを「仮の目的」として据えていただけだ。
気づいたらここにいた。
だが、頼りにされる後輩も増え、彼の中に「居場所」ができていた。
自分一人で完結していた人生で、初めて後輩と呼べる存在に出会えたのかもしれない。
誰も俺の仕事量に付いてこれない中、一ノ瀬という男だけは食らいついてきた。
「前崎さんの右腕って語ってもいいですか?」
飲みの席でそう笑っていた一ノ瀬に、あの時俺は何と言っただろうか。
だからこそ、レジスタンスの襲撃を受けた時、不謹慎な考えが頭を掠めたのだ。
「こいつらの技術をうまく使えば、日本を俺の望む形に作り変えられるのではないか?」
正直、政界には俺より無能な連中が腐るほどいる。
最初は職務としてレジスタンスを潰した。
それは法的に正しい行いだった。
だが、もし俺がその技術と知識を手に入れられたら、もっと効率的に、もっと美しくこの世の中を再構築できるはずだ……。
そう思わない気持ちが、ゼロではなかった。
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そして前崎は、ついに「奴」の知識と技術をその手中に収めた。
二箇年半に及ぶ、肉体と精神の再構築。
己を殺し、静止した時間の中で世の中を俯瞰し続けた彼は、以前にも増して鋭利な「力」を手に入れたのだ。
圧倒的な武力。神の如き知略。
そして、魂の奥底に燻り続ける「宿願」。
この二つの欠けたピースが揃い、なお静止していられる男など、この世に存在するだろうか。
それでも、前崎がすぐさま牙を剥かなかったのには理由がある。
彼の私物PC、スマートフォン、果てはスマートウォッチが刻む心拍数の一打に至るまで、そのすべてが国家の徹底的な監視下に置かれていたからだ。
現代は、逃げ場のない「超監視社会」。
検索履歴、通話記録、SNSの裏アカウント、日々の移動経路。
あらゆる個人情報はマイナンバーと完全に紐付けられ、そのデータ一つで人間の価値が瞬時に数値化される。
公安の内部に深く潜り込んだ前崎に対し、CIAやFBIといった外部機関までもが、彼の私生活の毛穴の隅々まで執拗な精査を続けていた。
しかし、その結果は「完全なるホワイト」であった。
児童養護施設への匿名寄付。戦友たちとの慎ましい会食。
後輩と居酒屋で交わす、他愛もない笑い声。
時折一人で楽しむ映画鑑賞。
あまりに清廉潔白で、あまりにストイックなそのライフスタイルは、疑り深い上層部にさえ「職務に殉ずる、現代の武士」という強烈な印象を植え付けた。
彼らが気を利かせて、独身の前崎を政財界の婚活パーティーに招待するほど、その信頼は盤石なものとなっていた。
前向きで、誠実で、誰からも慕われる理想の上司。
観察者であるはずの公安の人間でさえ、主観というバイアスに囚われ、前崎という男を理想的な英雄像へと美化して解釈していった。
だが、そんな完璧な仮面の下で、前崎は僅かに「迷い」を抱いていた。
——こんな狂った真似をしなくても、いつか日本は自浄作用で変わっていくのではないか。
——この穏やかな「英雄」としての日常を、守り続ける道もあるのではないか。
だが、その迷いは、最後の、そして最大の確信によって打ち砕かれる。
——まさか。
国民栄誉賞を授与されるはずの救国の英雄が。
誰よりも要人の盾となるべき「守護神」が。
式典の最中、懐から銃を取り出し、無防備な総理大臣の脳髄を撃ち抜く。
そんな「狂った事態」を想像し、完璧に成し遂げられる人間は、この国に俺以外いない。
自分がやらねば、この国は永遠に停滞という名の安楽死を選ぶだろう。
だからこそ、彼は引き金を引いたのだ。




