前日譚:2048年11月3日 アネア人ショッピングモール占拠事件
前崎の前日譚になります。
かなり長めです。
無数のサイレンが、岐阜県南部に位置する巨大複合商業施設「リヴァースフィア」を、光の鎖で縛り付けていた。
赤と青のストロボが湿った夜気を切り裂き、アスファルトの上で脈打つ。
地上には警察機動隊、自衛隊の装輪装甲車、そして救急医療ドローンの群れが展開し、上空では警察庁直轄のAI監視衛星が放つ不可視のマルチスペクトルレーザーが、巨大なドームの輪郭を精密にスキャンし続けていた。
無理もない。
これは日本史上初――外国武装勢力による、大規模都市機能占拠事件だった。
犯行声明は、ダークウェブを経由して瞬時に全世界へ伝播した。
荒い画質の映像の中で、リーダーを名乗る男の眼光が鈍く光る。
「我々はアネア人。日本政府に対し、イスラム教の国教化、および公的教義としての認定を要求する。
回答を拒むならば、ここに囚われた300名の人質は、一人ずつ聖なる生贄となるだろう」
その声明はリアルタイムの自動翻訳機を介し、全国民のデバイスに具体的に示された「死」として通知された。
人質数、残された時間、仕掛けられたIED(即席爆発装置)の推定威力。
SNSのタイムラインは、処理能力を超えた情報の奔流に呑み込まれていく。
アネア人
――かつてミャンマーの戦火を逃れ、バングラデシュのキャンプを経て日本の「新移民開放政策」により流入した過激派の一派。
発端は、市役所窓口でのイスラム式埋葬許可を巡る、些細な、しかし決定的な行政の拒絶だった。
その火種は、積年の文化的な隔絶という油を注がれ、一気に爆発したのである。
最初の犠牲者は、モールの警備員3名だった。
退避誘導を試みた一般客数名も、容赦ない5.56mm弾の掃射を受け、モールの清潔なタイルを鮮血で染めた。
内部の詳細は不明。
だが、赤外線スキャナーは閉鎖されたシネコンエリアに複数の異常熱源を捉えていた。
報告書に並ぶ「婦女暴行」「略奪」の文字は、官邸の政治的判断により、公表前に黒く塗りつぶされた。
皮肉にも、リヴァースフィアは「籠城の要塞」として完璧だった。
衣食住のすべてが完備され、AI制御の全自動備蓄倉庫には数ヶ月分のカロリーが眠っている。
独立型の地熱発電ユニットは、外部からの送電停止という唯一の弱点さえも克服していた。
「超音波サーモグラフィの解析完了。
内部生存者287名。
熱源のバイオメトリクス解析により、実行犯は12名と断定」
警察車両を改造した移動指揮室。
ホログラフィック・テーブルに浮かび上がる青い透過図を、列席者たちは苦虫を噛み潰したような顔で見つめていた。
SAT、公安、自衛隊情報本部。
異なる組織の肩章が並んでいるが、そこに漂う空気は等しく「無力感」だ。
日本の法体系は、テロリストを「対等な交戦相手」とは認めない。
あくまで「交渉・包囲・疲弊・突入」という硬直化したマニュアルが、現場の指先を縛り付けていた。
だが、相手は法の外側に生きる宗教的狂信者。
国内法という名の盾は、既に形骸化していた。
占拠から三日が経過。
13名の処刑が確認され、状況を打開しようとした通信遮断ドローンは、敵の対空火器によって鉄の屑と化した。
「長官、そろそろ……ご決断を」
警察庁長官・巌は、充血した目でモニターを見つめる。
前線の隊員は疲弊し、フェンスの外ではドローン配信者が「国家の無能」を世界に中継している。
「……待機だ」
その声は、絞り出すような敗北宣言だった。
突入の権限はあっても、成功の確証がない。
犠牲者の数を政治的な許容範囲内に収めるには、時間という名の残酷な対価を払うしかない。
その静寂を、一人の男が踏みにじった。
公安部から「出向」してきた男――前崎。
かつてキャリア官僚として頂点を目指しながら、その合理主義すぎる思考が既存の組織論と衝突し、爪弾きにされた男だ。
名家の血も、官僚特有のコネクションも持たない彼にとって、この現場は「左遷先」であり、同時に「実験場」でもあった。
「長官。私が行きます。――単独で」
室内の温度が数度下がったかのような錯覚が走った。
隣に座るSAT隊長の諏訪が、テーブルを叩いて立ち上がった。
「正気か!? 単独突入なんて、無理に決まっているだろう!」
叩かれた衝撃で、ホログラフィックの図面が激しく歪む。
諏訪は身を乗り出し、前崎を射抜くような視線で吠えた。
「これは現場だ、遊びじゃないんだぞ!
万が一失敗して人質に被害が出た時、貴様はどう責任を取るつもりだ!
警察庁か? 公安か?
それとも、ただの"出向官僚"である貴様一人の命で、
残りの人質全員の命を償えるとでも思っているのか!」
諏訪は、これが単なる八つ当たりであることを自覚していた。
だが、目の前の男の、血の通っていない機械のような無神経さが、どうしても許せなかった。
頭がいいだけど現場を知らない人間。
こいつらが官僚だ。
諏訪にはそういう固定概念があった。
だが対照的に、前崎は眉ひとつ動かさず、温度のない声で問いを返した。
「責任、ですか。
……諏訪隊長、あなた方はこの三日間、その『責任』という言葉の重さに縛られて一歩も動けなかった。
突入して犠牲者が出れば叩かれ、待機して犠牲者が増えても叩かれる。
その不毛な泥仕合の果てに、既に13人の命をドブに捨てている。……違いますか?」
「何だと……! お前は法を破れと言うのか!?
何のために法があると思っている!?
人の命がかかっているんだぞ!
お前一人で背負える責任ではない!」
「責任、ですか。
……ならば、すべて私のせいにすればいい」
前崎の言葉は、事務報告のように淡々としていた。
「失敗すれば、現場の混乱に乗じて私を処分してください。
背後から撃っても構わない。
『暴走した一介の出向役人が独断で突入し、制止も聞かずに射殺された』
……あなた方にとって、これほど責任を押し付けやすい幕引きはないでしょう?」
「何を……っ!?」
「……時代が違うんですよ。責任の取り方も含めて」
その返答の直後、「チャキッ」という鋭い金属音が響いた。
諏訪のうなじに、冷たい銃口が押し当てられていた。
背後に立っていたのは、前崎の部下、一ノ瀬。
その細い体躯は、漆黒の「神経外骨格」に包まれている。
「前崎さんの命令なもんで……。
すんません、後で始末書書きますから、減給だけは勘弁してくださいね?」
一ノ瀬の声は、まるでランチの注文でもするかのように軽薄だ。
だが、歴戦の猛者である諏訪が、至近距離まで気配すら察知できなかったという事実が、その装備の異常性を何よりも雄弁に物語っていた。
前崎は静かにスーツの上着を脱ぎ捨てた。
その下に現れたのは、防衛省の基準すら超越した光学迷彩特化型の神経外骨格。
周囲の光を屈折させ、熱源を完全に遮断する。
風景の一部へと溶け込み、視覚からも熱感知からも消える、文字通りの「亡霊の衣」だ。
「それは……開発中のはずの『試作品』ではないのか」
巌長官の問いに、前崎は感情を削ぎ落とした声で返した。
「私が設計し、私が私費で完成させたものです。
これを『防衛省の』と呼ぶのは、いささか傲慢ですね」
外では、夜空を埋め尽くすドローンが死神の羽音のように唸りを上げている。
ガラスの壁面には、モールを包囲する無数の赤い警告灯が映り込んでいた。
「では、私一人でケリをつけてきます。
長官、突入の準備だけはしておいてください。
容疑者を排除したとしても、被害者のケアまで私一人では手が回りませんので」
その言葉を最後に、空気が揺れた。
光の網をすり抜けるように、実体のない「影」が、巨大な戦場へと歩みを進めた。
『全局へ通達。公安部、前崎英二だ。
これより私個人で潜入、および対象の制圧を開始する。
指示があるまで現位置で待機せよ。
ただし、突入の準備だけは完了させておくこと。
すべての責任は、私が負う。以上だ』
無線から流れる一方的な断絶に、現場の指揮系統は一瞬で凍りついた。
だが、その沈黙は驚きによるものではない。
「全責任を負う」という、官僚組織において最も甘美で、かつ劇毒を含んだ言葉に対する、卑しい安堵だった。
(……よかろう。すべて貴様の独断だ。
我々は止めたが、貴様が振り切ったのだ。
部下に銃を向けさせてな)
巌長官はモニターを見つめたまま、心の内で深く、醜い安堵を吐き出した。
失敗すれば前崎を「狂った越権行為者」として切り捨てればいい。
成功すれば「公安の英断」として吸い上げる。
現場の誰もが、無意識にその「責任転嫁」のシナリオを、脳内のホワイトボードに描き始めていた。
『……思った以上に、皆さん素直に指示に従ってくれているようですね』
ノイズ混じりの一ノ瀬の声が、前崎の耳元のデバイスに届く。
前崎の口元に、冷ややかな、しかし確かな愉悦を孕んだ笑みが零れた。
『何よりだ。彼らが"日本人"であることが証明されたな』
『……どういう意味ですか?』
『「敵」が味方にいない、ということだ。
彼らにとっての真の敵はテロリストではなく、自身の経歴に付く傷だ。
私の暴走を容認すれば、失敗の泥を被る役目が私に確定する。
……背中から撃たれる心配がないのは、助かるよ』
一ノ瀬は溜息をついた。
その冷徹な人間洞察こそが、前崎が「有能すぎて居場所を失った」理由なのだ。
だがそんなことは前崎は気にしない。
十分だ。組織の足枷さえ外れれば、あとは一人で事足りる。
網膜上に投影されたリヴァースフィアの3Dマップには、12の熱源が鮮明な赤色で脈打っていた。
超音波サーモグラフィが、遮蔽物の向こう側にある微かな鼓動すら可視化している。
テロリスト、計12名。
メインステージエリアに、人質と共に4名。
寝具専門店――おそらく仮眠室として利用している場所に3名。
ステージへ続く4つの搬入口に、見張りが各1名。
そして、吹き抜けを見下ろす位置にあるゲームセンターに、1名。
これまでの熱源移動パターンの解析により、4人一組のサイクルで歩哨と休息を繰り返していることは判明済みだ。
前崎の視線が、孤立した一点に固定される。
『まずは、ゲームセンターから掃除する』
光学迷彩に包まれた亡霊が、音もなく巨大な戦場へと溶け込んでいった。
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吹き抜けを見下ろす3階のゲームセンター。
アブドゥルは、退屈な目でコインゲームのレバーを弄っていた。
見張りのサイクルが始まったばかりだというのに、彼の心はすでに鬱屈とした焦燥に支配されていた。
(……革命、国教化。本当にそんな日が来るのか?)
無理もない。
彼はまだ20歳になったばかりだ。
日本で生まれ育ち、社会の端に置かれ続けてきた移民二世。
過激な思想という甘い毒に居場所を求め、革命という夢のような言葉に踊らされてきたに過ぎない。
現実の占拠現場の、この「退屈」と「恐怖」のギャップに、彼の脆弱な精神はすでに限界を迎えていた。
(……何も考えたくない)
コインゲームの画面で、派手なリーチの演出が始まった。
安っぽい電子音と虹色の光が、薄暗い店内を点滅させる。
アブドゥルはそれを、吸い込まれるようなボーッとした目で見つめていた。
(リーチ……)
「――ッ!?」
その瞬間、世界が反転した。
首に激痛が走り、視界が急激に上昇する。
というより、身体が根こそぎ持ち上げられていた。
(何が、起こって……!?)
声が出ない。
喉が超高分子ファイバーのワイヤーで締め上げられ、気管と頸動脈を完全に閉塞されていた。
見えない。
目の前にあるのは、ゲームセンターの天井と、リーチを告げ続ける光の点滅だけだ。
ジタバタと手足を暴れさせても、指先は虚しく空中を掻くことしかできない。
生理的な涙が溢れ、視界が暗転していく。
心臓の鼓動が、鼓膜を破らんばかりに鳴り響き、そして、完全に途絶えた。
前崎は、光学迷彩を纏った左腕をゆっくりと下ろし、超高分子ファイバーのワイヤーを緩める。
痙攣を止めたアブドゥルの死体が、ドサッと音を立てて絨毯の上に落ちた。
神経外骨格による圧倒的な腕力の前では、20歳の青年の抵抗など、羽虫の羽ばたきほどの実感もなかった。
前崎は、網膜投影された3Dマップの熱源が1つ消灯したのを確認する。
「……20歳か。日本で成人したばかりか。
残念だな」
前崎の言葉は事務的で、感情の起伏は一切なかった。
ただ、この国が抱える移民政策の歪みと、その末路に対する冷ややかな認識だけが、その声に滲んでいた。
彼は死体の足首を掴むと、ゲームセンターの奥にある、稼働を停止した巨大なアトラクション筐体の陰へ、音もなく引きずり込んだ。
『一ノ瀬、1人目クリア。次だ』
前崎の姿が再び風景へと溶け込み、ゲームセンターにはコインゲームの確定演出を告げる電子音だけが、虚しく鳴り続けていた。
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モール2階、高級寝具専門店。
展示された最高級のマットレスの上で泥のように眠っていた3人が、場違いな音に引きずり戻された。
「……なんだ、この音は……?」
カリムが顔をしかめて身を起こす。
鼓膜を叩くのは、あまりに軽薄でコミカルな、8ビットの電子音。
ゲームセンターのチープなBGMが、無人のモール内に反響してここまで届いているのだ。
カリムは隣のベッドが空いていることに気づき、舌打ちした。
「……アブドゥルの野郎、また持ち場を離れて遊んでやがるのか?
うるさくて眠れやしねぇ」
カリムは苛立ち紛れに無線機のスイッチを入れ、リーダーのアミールへ連絡を飛ばす。
『……こちらカリム。長、そっちの指示で誰かゲームセンターを動かしてるか?』
『いや、全員配置についているはずだ。どうした』
『じゃあ、アブドゥルの独断だ。
あいつが鳴らしてるゲーセンの音がここまで響いてる。
注意してくれ、神経に触る音だ』
『……了解した。直接、あいつに無線を入れる』
数秒後。
アミールがアブドゥルの個別チャンネルに呼びかけた瞬間、無線機から鼓膜を劈くような大音量の電子音が炸裂した。
「――っ! 痛ぇ!!」
カリムたちは悲鳴を上げ、耳から無線機を剥ぎ取った。
ハウリングと過剰な増幅を掛け合わせた、悪意に満ちた「音の暴力」。
アミールの怒号が割れたスピーカーから漏れ出す。
『……クソが! カリム、今すぐ行ってあのガキを黙らせろ!
叩き殺しても構わん!』
『はぁ……わかったよ。お前ら、起きろ。仕事だ』
カリムは眠い目を擦りながら、傍らに立て掛けていたアサルトライフルを掴んだ。
同行する2人も、不機嫌そうに銃の安全装置を外す。
「ったく、あのクソガキ……ぶち殺してやる」
彼らはまだ気づいていない。
その「音」が、死神が鳴らした呼び鈴であることに。
3人は銃身を盾にするように構え、獲物を待つ蜘蛛の巣――ゲームセンターへと足を進めた。
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エリアに近づくにつれ、音響の暴力は増していった。
鼓膜を震わせるのは、数百台の筐体が一斉に放つデタラメな電子音の濁流だ。
「……電源は、占拠直後にすべて落としたはずだろう?」
カリムが怒鳴るように尋ねる。隣の男が、耳を塞ぎながら必死に声を返した。
「ああ、ブレーカーごと落としていたはずだ! アブドゥルが勝手に入れたのか……?」
だが、不自然だった。いくら娯楽に飢えていたとしても、フロア中の筐体を起動させる必要がどこにある。
メダルゲーム、クレーンゲーム、ビデオ筐体――。
何百というモニターが放つ極彩色の光が、ストロボのように店内の影を狂わせている。
「……クソが、嫌な予感がする。銃を構えろ」
カリムの指示で、3人は互いの背中を守るように「全周警戒」の陣を敷いた。
前、横、後ろ。
まばゆいネオンと闇が交錯する迷路の中を、銃口を突き出しながら慎重に進んでいく。
そして、その背中が見えた。
フードを深く被り、メダルゲームの前に座り込んでいる人影。
その手は筐体のレバーを握り、派手な演出が流れる画面を食い入るように見つめているようだった。
「おい、アブドゥル! この大音量は何の真似だ!」
苛立ちが限界に達したカリムが、その肩を強く掴み、無理やり引き寄せる。
「答えろと言って――ッ!?」
掴んだ肩には、生身の熱も、筋肉の弾力もなかった。
翻ったフードの下から覗いたのは、血の通った顔ではなく、無機質なプラスチックの滑らかな曲線。
それは、アブドゥルのジャケットを着せられただけの、衣料品店のマネキンだった。
「なっ……!?」
直後、背後で「ドサッ」という重苦しい音が二つ重なった。
カリムが振り返るよりも早く、視界の端で二つの球体が宙を舞う。
それは、つい先ほどまで背中を守っていた仲間の「頭部」だった。
悲鳴を上げる暇さえなかった。
噴き出した血飛沫が、極彩色のネオンに照らされて毒々しく輝く。
仲間の体が崩れ落ちるその影から、空間そのものが歪むように「亡霊」が立ち上がった。
カリムが目にしたのは、光学迷彩の揺らぎの中から現れた、抜身の刃。
高周波の微細な振動を放つその剣が、自分に向かって一閃される瞬間だった。
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ふたたび、無線機から神経を逆なでするようなコミカルな電子音が溢れ出した。
「――っ、このクソがッ!!」
リーダーのアミールは、使い物にならなくなった端末をコンクリートの床に叩きつけた。
粉々に砕け散るプラスチックの音に、人質たちが短い悲鳴を上げて身を縮める。
「どうなっている!? カリムからの応答は!? 寝具店の連中は何をしている!」
「応答、ありません……。ノイズに塗り潰されています。
何か……致命的なことが起きたと見るべきです」
部下の報告に、アミールの顔が屈辱で歪んだ。
外の警察ではない。中に、「何か」がいる。
彼は近くにいた人質の髪を乱暴に掴み上げると、バリケード化した扉を蹴り開けて叫んだ。
「今すぐ攻撃を中止しろ! さもなくば、この女の頭を吹き飛ばすぞ!」
『落ち着け! 我々は何もしていない、本当だ! 突入部隊は一歩も動いていない!』
拡声器越しに響く交渉人の声には、嘘偽りのない動揺が混じっていた。
事実、モールの周囲を包囲する赤と青の光は、三日前からその位置を微塵も変えていない。
突撃の気配など、どこにもなかった。
(……なら、あのゲーセンの騒音は何だ? カリムたちはどこへ消えた!?)
アミールは掴んでいた人質を、ゴミのように人質の塊へと放り投げた。
「……私が行く。お前たちは命令があるまでここで待機だ。
もし異変があれば、躊躇わずに人質を全員射殺しろ」
「了解」
一度は一人で歩き出そうとしたアミールだったが、得体の知れない寒気に足を止めた。
「……いや、もう一人来い。
おい、ヌルル。お前、そこのガキを盾にして付いてこい」
「分かりました」
腕を強引に引かれたのは、まだ小学校低学年ほどの少女だった。
銃口を突きつけられ、声も出せずに震える少女を連れ、アミールたちは血臭の漂うゲームセンターへと向かった。
エリアに踏み込んだ瞬間、アミールの聴覚は飽和した。
数百台の筐体が奏でる不協和音の濁流。
少女はあまりの音量に、耳を塞いでうずくまりそうになる。
だが、その喧騒の中でも、アミールの鼻腔を突く「異物」があった。
「……鉄の臭いだ。それも、ひどく新しい」
足早にフロアの奥へ向かった彼が目にしたのは、極彩色のネオンに照らされた凄惨な屠殺場だった。
床に転がっているのは、無残に首を切り落とされた仲間たちの成れの果て。
アミールの眼球が、怒りと恐怖で真っ赤に染まった。
「ヌルル! 迷うな、そのガキを殺せ!!」
吠えながら背後を振り返る。
しかし、そこには――誰もいなかった。
「ヌルル!? どこへ行った、返事をしろ!!」
隣にいたはずの部下も、盾にしていたはずの少女も、霧のように消え失せている。
アミールは半狂乱になり、銃を乱射しながらゲームセンターを飛び出した。
逃げ場を求めるように吹き抜けの通路へ躍り出た彼が、そこで目にしたのは。
「……な……っ!?」
通路の先、40名を超えるSAT(特殊急襲部隊)が、一糸乱れぬ隊列でアサルトライフルを構えていた。
先ほどまでヌルルが連れていた少女は、すでに隊列の後方で保護されている。
(いつの間に……! なぜここまで、一人の犠牲も出さずに潜入できた!?)
光学迷彩の男が「掃除」し、死角を確保し、電子的に「目」を潰した道。
そこを、最強の軍隊が音もなく通り抜けてきたのだという事実に、アミールが思い至ることはなかった。
「馬鹿な……馬鹿な、馬鹿なッ!!」
アミールは反射的に、手にした銃をSATの隊列へ向けた。
――交戦意思あり。
その判断が下された刹那、数十条の銃火が暗闇を切り裂いた。
放たれた無数の弾丸は、アミールの肉体を文字通り「穴あきチーズ」へと変え、床に崩れ落ちる前に彼の命を完全に刈り取った。
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「……前崎さんが介入する前の犠牲は、悔やまれますが。
結果として、被害は最小限に抑えられましたね」
一ノ瀬が、震える指先でタブレットを操作しながら呟いた。
「当然だ。失敗すれば『英雄』ではなく『戦犯』として吊るされるからな」
前崎はそう言って、薄い唇から白く細い煙を吐き出した。
視線の先では、救出された人質たちが次々と救急車へ運ばれ、事情聴取の喧騒が夜の空気に溶けている。
一ノ瀬は、脳裏に焼き付いた数分前の光景を反芻し、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
少女を救出した直後、前崎は残りのテロリスト6人を、人質の目の前で――文字通り「同時」に仕留めたのだ。
コンマ数秒の狂いもない、機械的な殺戮。
それはもはや戦闘ではなく、芸術にすら感じた。
(……この人には、一生かかっても敵わない)
その戦慄を誤魔化すように、一ノ瀬はあえて軽いトーンで話題を変えた。
「タバコ、吸ってたんですね。初めて見ました」
「馬鹿を言うな。これは加熱式のノンニコチン・シーシャだ。
このご時世、本物の煙草なんて吸っていたら、硝煙より先に世論に焼かれる」
前崎は再び煙を吐き、虚空を見つめた。
「一ノ瀬。この結果、どう転がると思う?」
「どうって……規約違反に命令違反、おまけに超法規的殺傷ですよね。
怒られて済めばいいですけど、最悪、懲戒もあり得るんじゃないですか?
僕個人としてはそれでもあまりある功績だと思いますが……」
「まあ、そんなもんだろうな」
前崎はシーシャをポケットに収めると、正面から近づいてくる黒塗りの集団に対し、鋭い警戒を露わにした。
「内閣直轄調査室の近藤です。前崎殿、総理がお呼びです」
「了解した」
案内された先に待っていたのは、豪華な公用車ではない。容疑者や重罪人を収容するための、窓のない護送車だった。
「待ってください! 前崎さんは犯罪者扱いですか!?」
一ノ瀬が色をなして詰め寄るが、近藤と呼ばれた男は冷淡に一瞥をくれただけだった。
「上の命令だ。文句なら官邸に言ってくれ」
近藤が一ノ瀬に差し出した名刺には、血の通わない公務員の肩書きが並んでいた。
彼は前崎に向き直ると、懐から抜いた拳銃の銃口とナイフを地面へ向けつつも、強い威圧を放った。
「……その装備を外していただけますか、前崎殿」
近藤だけでなく、周囲のSAT隊員たちも、一斉にアサルトライフルの銃口を前崎へと向けた。
「クソッ、こいつら……! 事態を解決した瞬間にこれかよ!!」
「大人しくしろ、一ノ瀬。大した問題じゃない」
前崎は、銃口を向ける近藤へ、あえて一歩近づいた。
「一つ聞きたい。
……この場で私がお前たち全員を制圧するのと、私が味方になること。
国家にとって、どちらがマシな選択だと思う?」
「……あなたを敵に回すつもりはない、とだけ答えておきましょう」
近藤の額に、一筋の汗が流れた。
なぜ銃を持っているこちらが気圧されるのか。
「そうか。ならば、私に対して寛大な処置とやらを上申しておいてくれ。
内閣直轄殿」
前崎は皮肉な笑みを浮かべると、神経外骨格の接続を解除し、一ノ瀬からもらった無防備なスーツ姿で護送車へと乗り込もうとした。
その時だった。
「――前崎英二殿に、敬礼!!」
SATの現場指揮官が、腹の底から響く声で叫んだ。
刹那、その場にいた数十名の隊員全員が、規律正しく、かつてないほど深い敬礼を捧げた。
それは、法を超えて命を救った「本物の兵士」に対する、最大級の献辞だった。
近藤もまた、一瞬の躊躇のあと、静かに手を額に添えた。
前崎は一度だけ足を止めたが、振り返ることはしなかった。
重々しい鉄の扉が閉まり、日本の守護者となったはずの男を乗せて、護送車は静かに夜の闇へと消えていった。
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「公務執行妨害、強要、脅迫。さらには特別公務員暴行陵虐罪への抵触――。
本来なら一生を塀の中で終えるに相応しい罪状だ。
一ノ瀬君に命じてこれらを行わせた君の責任は、極めて重い」
警視総監・秋山の低く重い声が、取調室の無機質な壁に反響する。
「そして、主謀者であるアネア人たちの殺害。
……これに関しては『特別職公務員による過剰防衛を伴う懲戒処分』として処理された。
殺人罪は成立しない。一部の人道主義者がうるさいがね」
秋山が深く、忌々しげに息を吐く。
「……聞いているのか、前崎」
「総理と秋山総監のお話が随分と長いもので。少々、集中力が途切れてきました」
前崎はそう言って、隠そうともせず眠たげに目を擦る。
その不遜な態度に、秋山はこめかみをピクリと動かし、溜息を漏らした。
「結局のところ、君が"他組織の人間"に銃を向けさせた。
それが法を司る我々にとって最大の懸案だったわけだが……。
全く、法律というのは時として、守るべき相手を間違えるな」
「同感ですよ。私にとっても、法は時に不自由な鎖でしかない」
前崎の瞳には、動揺の欠片も、後悔の色もない。
「最後、少女を救出し、あえてカメラの前で『あの装備』を晒したのは狙いがあってのことだな?
観客のいるホールであえて光学迷彩を解き、テロリストを屠ってみせたのも……すべては、この瞬間のための演出か」
「……さて。どうだったでしょうかね」
「白々しい。まるでヒーローショーだ。
……君が無能であれば、これほど処理に苦労はしなかった。
なぜ今までこれをやらなかったと電話での苦情が殺到する始末。
官僚から君を放逐したツケが、このザマだ」
「それを私に言わないでください。私は追い出された側だ。
文句なら内閣か、私を疎んだ連中に言ってくださいよ。
与えられた場所で咲くことは悪いことではないでしょう?
それに総監、あなたは他組織の人間だ」
秋山は無言で、数枚の書類を机に叩きつけた。
「君の罪を取り下げる嘆願書だ。
被害者全員、そしてあろうことか現場にいたSATの隊員たちからも提出されている」
前崎が視線を落とすと、そこにはびっしりと書き込まれた署名の列があった。
「それだけではない。
世論は今、君を『救世主』と呼び、国内の不良外国人やテロリストを駆逐せよと熱狂している。
……皮肉なものだ。法が裁こうとした悪魔を、民衆が神に祭り上げた」
「……でしょうね。現場の人間が警察を去る理由の多くは、"犯罪者を殺せないから"。
それだけこの国の善人は、守られない現実に飢えていたのでしょう」
「その飢えが、法を捻じ曲げた。……法改正が行われる。特例措置だ」
その言葉に対しても、前崎の眉ひとつ動かない。
「十八歳以上の武装した犯罪者、およびテロリストに対し、現場判断での『無力化』
……即ち殺害が容認される。
武装の定義も大幅に拡張された。
人を害する意思を持つもの、それ自体が対象だ」
「保身に走る日本らしい、実にグレーで便利な解釈なことで」
「……この事件は、日本を変えた転換点として歴史に刻まれるだろう。
君の名と共に。それが何を意味するか、わかるか?」
「……。私を、公式の”テロの殲滅屋”にでも任命すると?」
「無罪だ。個人的には反吐が出るがね。
その代わり、君には今後、主体となって対テロ案件の全権を担ってもらう。
拒否権はない。いいな?」
「――拝命しました」
前崎の口角が、わずかに、冷酷に吊り上がった。
「……さっさと出ろ。犯罪者でもない男を繋ぎ止めておけるほど、今の警察は暇ではない。
君のせいで提出書類が溜まっているんだ」
促されるまま、前崎は立ち上がる。
背後で閉まった鉄の扉の音は、彼にとって自由への鐘ではなく、国家公認の暴力という新たな戦場への合図だった。
そして、彼が『アダルトレジスタンス』のテロ担当としてその名を轟かせることになるのは、また別のお話――。
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治安対処特別措置法の一部を改正する法律(案)
(目的)
第1条
この法律は、組織的又は単独で行われる重大な暴力行為及びテロリズム行為から国民の生命、身体及び公共の安全を保護するため、警察官その他の治安維持に従事する公務員が行う武器使用の要件を明確化し、迅速かつ的確な対処を可能とすることを目的とする。
(武器使用の特例)
第15条の2
警察官その他法令により武器の使用を許可された公務員は、次に掲げるすべての要件を満たす者に対しては、刑法第36条及び第37条の規定にかかわらず、当該対象者を無力化するための生命に対する危険を伴う武器の使用をすることができる。
一 当該者が十八歳以上であることが、合理的根拠に基づき確認されていること。
二 当該者が、殺傷能力を有する武器又はこれに準ずる危険物を所持していることが、
視認その他客観的手段により明確に確認されていること。
三 当該者が、現に又は差し迫って、国民の生命又は身体に対し重大な危険を及ぼす行為を行う
蓋然性が高いと合理的に判断されること。
2 前項の規定による武器使用は、当該危険を排除するために必要最小限度のものでなければならない。
(確認義務及び記録)
第15条の3
前条の規定により武器を使用した公務員は、当該使用に先立ち、可能な限り当該要件の確認を行わなければならない。
2 前条の規定に基づく武器使用については、事後において、その判断過程、確認方法及び使用の相当性を明らかにする記録を作成し、所定の機関に提出しなければならない。
(責任の帰属)
第15条の4
第15条の2の規定に基づき適法に行われた武器使用については、当該公務員は刑事責任を負わない。
2 前項の場合において、当該武器使用に関する損害賠償責任及び社会的責任は、当該行為を許容する法制度を運用する国に帰属するものとする。
(濫用の禁止)
第15条の5
何人も、第15条の2の規定を拡張解釈し、当該要件を満たさない者に対して武器を使用してはならない。
【法改正の理由(立法事実)】
近年、国際的な人の往来の増大及び価値観の多様化に伴い、特定集団による組織的な破壊工作やテロ行為が激化している。
一方、現行法制下における警察官等の武器使用要件は、あくまで個人の正当防衛の域を出ず、現場判断の遅滞が国民の生命を未曾有の危険にさらす事態が繰り返されてきた。
特に、2048年に発生した一連のテロ事件において、超法規的判断を伴う迅速な制圧工作が結果として甚大な被害を未然に防ぎ、多数の人命を救った事実は、国民の間に「法の不備が犠牲を招いている」という強い危機感と、抜本的な法整備を求める圧倒的な支持をもたらした。
本改正は、このような社会的要請に鑑み、武器使用の要件を「年齢」及び「武装の客観的確認」という明確な基準に置き換えるものである。これにより、現場の公務員が負う過度な司法リスクを軽減し、国家がその責任を担保することで、恣意的な運用を厳格に排しながらも、国民の生命を最優先に保護する強靭な治安維持体制を確立することを目的とするものである。




