9 進みだした秒針
「おい、お前の主は馬鹿なのか」
「ご挨拶ですね、マクシミリアン様」
勉学に励むアイラ様のため、厨房に来たことが間違いだった。
その道中で、この失礼千万な人物に会ってしまうとは……。
「あいつは今、何を学んでいる」
「何って、帝王学ですけど」
今回の家庭教師はまともな女性だった。
課題も授業の進行も、あの人に合ったものにしてくれている。
帝王学をマスターできる日も近い。
「主も主なら、従者も従者だな」
「ふむ、喧嘩なら買いますよ」
例のお茶会についていった日以来、この人は頻繁に話しかけてくるようになった。
その過程で、私もついつい本音が漏れだすようになった。
彼につき従っている騎士たちに、最初の頃はすごい目で見られた。
「馬鹿は売れる喧嘩もわからないんだな」
「はっはっはっ」
震える拳を握りしめ、懸命に怒りを抑える。
騎士たちの目もある。
ここは闇討ちが最善だろう。
「夜道には気を付けないとな」
(なッ、なぜバレた……)
こちらの考えなどお見通しと言わんばかりの発言に、視線を彷徨わせる。
私の様子にさらに目を細めた彼に、慌てて話題を戻す。
「それで、お嬢様のどこがどう馬鹿なのですか」
「帝王学を学ぶ姿が、とても滑稽で、馬鹿だ」
(いちいち区切って言ってくるの腹立つな)
嫌味な言い方は彼のデフォルトであると自分を落ち着かせる。
嫌な人ではあるが、意味のないことは言わない人だ。
この点は、信頼できる。
「…………後継者の勉強は、帝王学だけではない?」
思い至った答えに、なぜ今まで気づかなかったのだろうと愕然とした。
領地を治めるというのは、机上だけではダメなのだ。
多様な知識だけでなく、実践も必要。
「しかし、視察は……」
一介の使用人では対応できない。
当主の許可がいる。
しかし、いまだに当主様は帰ってきていない。
つまり、許可を得るべき人物は目の前にいることになる。
「…………くっ!」
「どうした、何かお願いがあるんだろう?」
(屈辱だ……!)
得意げな顔をしたマクシミリアン様に、私は渋々頭を下げた。
「わたくしが領地の視察に行けるだなんて……」
馬車の外を感動した様子で眺めるアイラ様に、多少胸が軽くなった。
しかし、依然として私の心は沈んでいる。
「ちょっと、どうしたの」
「いえ、お嬢様が喜んでくださるなら本望です……」
「全く本望ではなさそうよ?」
今回の視察はアイラ様の努力によるところが大きい。
帝王学以外の学問を修めたことによって、例の人物から許可を得たのだ。
しかし、一部は私の犠牲によって今回の視察は成立した。
「なんであの人と出かけないといけないんだ……」
例の人物であるマクシミリアン様と出かけると約束させられたのだ。
「随分、お兄様に気に入られたのね」
「いえ、あれは気に入ったのではなく、いたぶって愉しんでいるだけでしょう……」
あの人の恐ろしいところは、反抗すれば反抗するほど嗜虐的な顔になるところだ。
手のひらの上で踊らされてる感がハンパない。
「さあ、視察に集中しましょうか」
彼女の目の色が真剣さを帯びる。
視察は無事に終わった。
商会や銀行、農村までも訪れ、アイラ様は多くの経験を得た。
遠くからそれを見つめていた私は、その結果に満足した。
「帰っていいですか」
「無駄な抵抗をするな」
地獄の時間がとうとうやってきた。
そう、本日はマクシミリアン様との楽しい楽しいお出かけだ。
目的地に到着したが、もう帰りたい。
「なんで廃村なんですか!」
周囲には不気味な空気が漂う。
冷たいような生温いような風が、頬を撫でていった。
「ひぃっ」
傍にいた騎士の背に隠れる。
面倒見のいい騎士だったのか、後ろにいる私の頭を優しく撫でてくれた。
「おい、軟弱者」
「なんて言い草だ」
「さっさと行くぞ」
騎士の影から引っ張り出された私は、渋々マクシミリアン様の背を追いかけた。
ここに来た目的はまだ聞いていないが、色々と諦めた。
どうせ帰れないのだから、目的が何であろうが関係ない。
「マクシミリアン様、ここへは何の目的で?」
「言ってなかったか」
「言ってないですね」
この兄妹、意外と似ている。
こんな風に重要な情報を言ったつもりになって、言わない所とか。
「ここへは『悪魔』に関して調査にきた」
「…………」
マクシミリアン様はいまだに病を患っているらしい。
そう、『中二病』という名の病に。
(可哀そうに……)
「なんだ、その憐みの目は」
彼は不快そうな顔で横を歩く私を見た。
そんな彼に、私は慈愛の笑みを返した。
「言っておくが、『悪魔』は実在する」
「…………マクシミリアン様、夢を壊すようで悪いのですが———」
「まあ、これは国家機密だがな」
「はっ……?」
国家機密という一気に現実味を帯びた言葉に、肝が冷え始める。
これは…………一般人が聞いてはいけない系の話だったのでは?
「よかったな、これでお前も国の要人だ」
「イヤだ!そんなの認めません!」
緊張感なく先頭を歩く主君と使用人に、騎士たちは微笑ましい視線を向けていた。
「なあ、主君ってあの使用人といる時は本当に楽しそうだよな」
「ああ、好きな子をからかって喜んでいる男児に見える」
「オレには珍獣を愛でてるような感じがするけど」
「いずれにせよ」
「「「主君が楽しそうで何よりだ」」」
「ちょっ、マクシミリアン様!勘弁してください!」
こうして、私の嘆願が聞き届けられることはなかった。