ここからは誰かの時間の中で
柔らかな日差しが降り注ぐ、雲一つない晴天の日。
陽光を受けて輝く白い毛並みを靡かせて、その猫は走っていた。
塀の上、アスファルトの上、足場の不安定な屋根の上だろうと、軽快な足取りに迷いはない。
一軒家の庭に立ち寄って、「猫だぁ!」とはしゃぐ、まだ幼い男の子と女の子の間をスルリと抜けて。
スマホを耳に当て、「次はクローバーヌお姉さまの外伝を書こうかと……」等の会話をしている、女子高生の横を通り過ぎ。
猫はまるで羽でも生えているかのように、自由に次の場所を目指して駆けていく。
♣♣♣
山奥に建つ、私立桜ノ宮魔法高等学校。
その学生たちが生活する、通称『梅桜寮』の寮監室。
そこの畳のスペースで、白い顎鬚の柔和な顔立ちの男性は、慣れた手つきで急須でお茶を注いでいた。
古めかしいちゃぶ台には、湯呑みが二つ置かれている。
向かいに座る女性は、金の縦ロールが特徴的な美人であり、男性より30歳ほど若い。どうもチグハグな組み合わせだった。
だが、向かい合う二人の間には、お互いが居ることが当然のような、熟年夫婦に似た雰囲気がある。
「相変わらず、梅のつくる甘味は美味しいわね。この白玉ぜんざいは、貴方の店の看板商品になるのかしら?」
女性の前には、丸い器に盛られた白玉ぜんざいがあり、彼女はそれをゆっくり咀嚼したあと、真っ赤な唇を綻ばせてそう問うた。
『梅』と呼ばれた男性の方は、にっこりと頷く。
「でも、少し意外だったわ。梅が急に、『文化祭で店を個人的に出したい』と言い出すなんて。確かに貴方の甘味は素晴らしいけど、そういう形で生徒に提供しようだなんて、何というか、梅らしくない発想ね」
「おや、やはり寮監がそんな店を出すのは、控えた方がよろしいですかねぇ」
「いえ別に? 変わった趣向で良いんじゃなくて? 私は面白ければ何でも構わないわ」
この学校のトップとしては、些か自由過ぎる女性の発言に、しかし男性は慣れた様子で「ありがとうございます」と返した。
「……と、ところで、梅。その、店の名前はもう決めているのかしら? まだなら、私が考えてあげても良いのよ?」
チラチラと、女性は期待を見え隠れさせて男性の顔を窺う。
「それが、もう決まっているんですよねぇ」
「………………何よ、どんな名前よ」
「『梅屋』です」
剣呑な眼差しに早変わりした彼女に、男性は気にすることなくニコニコと言った。声は穏やかだが、瞳からは「これは絶対変えない」という強い意志が窺える。
「少し安直じゃなくて?」
「僕にはこのくらいの名前が落ち着くんですよねぇ。お嬢様の素晴らしいネーミングセンスには、僕はまだまだ追い付けません。どうかその輝くセンスは、他で発揮してください」
その発言を良いように捉え、女性は頬を紅潮させて「そ、それなら仕方ないわね!」と顔を背けた。それに男性がしれっと返事をしたところで、彼女は「あら?」と声を上げる。
赤い瞳は窓の方を向いていて、どうも外に何か魅かれるものが見えた様子だ。
「どうしたんですか?」
「今、猫がそこを通ったのよ。真っ白な毛並みで、とても綺麗な猫だったわ」
「おや、それはまた……」
男性は立ち上がって窓を開けた。差し込む陽に眩しそうに目を細めながら、その猫の姿を探すが、すでに去ってしまったあとだった。
「何処となく、梅が以前作っていた猫の人形に似ていたわよ」
女性は一瞬だけ見た記憶を辿り、のんびりとお茶を啜りながら付け加える。男性はその猫の姿を想像して、「なるほど」と笑い声を立てた。
「彼はただの猫じゃないらしいですからねぇ。……天気も良かったから、あの子の代わりに、僕たちの様子でも見に来たのかもしれません」
「? なに、その意味あり気な発言。説明を要求するわ」
「魔法と同じで、理屈じゃないんですよ、お嬢様」
理解出来ず口を尖らせ、「なんとなく生意気よ、梅」とぼやく彼女に、男性は朗らかに微笑んだ。
♣♣♣
生徒会室では、愛らしい容姿の黄色髪の少女が、繋げて置かれたデスクの一つを占拠し、テキパキと山積みの書類を片付けていた。
といっても、これは本来は彼女の仕事ではない。書類を溜め過ぎて追い詰められた、彼女の双子の弟に泣きつかれ、仕方なく手伝ってやっているのだ。
「どうして私がアホアキトの分まで……本当、卒業したバカ会長といい、生徒会の男は頼り無さすぎ!」
ブツブツと愚痴りながらも、少女の手は止まらない。忙しなく動くペン先に合わせて、右サイドに結んだ髪がぴょんぴょんと跳ねている。
他の生徒会メンバーはおらず、デスク以外には白いボードと書類棚、小さなガラス窓しかない簡素な室内には、彼女一人だった。肝心の弟も、顧問に説教を食らっていて不在だ。
暫く孤独に書類と格闘を続けていたが、彼女は疲れたのかペンを転がして「んー」と伸びをする。
そしてふと、制服のポケットから折り畳んだ紙を取り出し、椅子に凭れながらそれを開いた。
差出人の名前がない手紙。
そこには、ミミズが這ったような汚い字で
『あの頃は気付けなかったけど、私をずっと気にかけてくれてありがとう。
私は、すべきことがあって何とか足掻いて生きてる。
貴方もどうかお元気で』
と、それだけ書かれている。
読み解くのも困難なほどの悪筆だが、それを眺める少女はやけに嬉しそうだった。
「よし、残りもパっとやっちゃうかー!」
大事そうに手紙をしまって、少女は勢いよく身体を起こす。
その際、窓越しに駆ける白猫が視界を過った気もするが、ここは三階だったと思い直し、見間違いだということにしておいた。
「でもアキトはあとで、ここみん会長にシバいてもらおう」
ボソッと不穏な呟きを溢し、少女はペンを取って作業を再開した。
♣♣♣
特別棟一階の化学室。
居並ぶ薬品棚に、等間隔で長机が置かれた室内には、窓から暖かな日差しが入り込んでいる。
パイプ椅子に腰かける男性は、白衣の裾を揺らしながら、膝上に座る犬に赤い首輪を取り付けようと奮闘していた。
「いいか? ポチ太郎。これはお前のためなんだぞ? いくら研究所の基盤が崩れ始めているとはいえ、まだ安心は出来ない。あの組織そのものが潰れるまで、お前にも危険が及ぶ可能性は十分あるんだ。むしろそんな現状だからこそ、こちらも警戒を怠るべきではない。賢いお前なら分かるだろう?」
「わふ?」
眼鏡の奥を光らせ真剣に語る男性の言葉を、果たして犬の方は理解しているのか。犬は薄いピンクの毛に琥珀の瞳と、奇妙な配色と同じ奇妙な鳴き声を返すだけだ。
だが、男性はその返事に納得し、「よし、流石はポチ太郎だ」と頷いた。
「何より私は、どうもお前を甘やかし過ぎていたきらいがあるようだ。……彼女にも以前、注意されたことだしな」
作業を中断し、男性は寂しげな笑みを口元に浮かべた。そんな彼の手を、犬は舌先で優しく舐める。
気遣うようなその行動に、男性は穏やかに礼を言い、また首輪の取り付けを始めた。犬はそれを、耳を伏せて大人しく受け入れている…………今のところは。
「いい機会だから、これはお前の躾もしようと購入した、より強力な『魔力制御首輪』だ。前のとは違い、簡単には外せまい。可哀想だが、自由な行動は少し控えてくれよ、ポチ太郎」
カチッと音がして、首輪がようやく留まった。
それに男性が満足気に息をついたところで、犬が窓の方に向って、急に「わふわふ!」と激しく訴えるように鳴き出す。
「な、なんだ、どうしたっ?」
「敵襲か!?」と、男性が慌てて犬を床に下ろし、窓の方へと駆け寄った隙に。
犬は鮮やかな手並みで首輪を外し、転移魔法を発動させてさっさとトンズラした。「何だ、ただの猫じゃないか……」と男性が戻ってくる頃には、首輪だけが虚しく転がっているのであった。
♣♣♣
普通棟の数ある教室の一つ。
昼休みに入り、人も疎らなその教室内では、一組の男女が鋭い眼光で睨み合っていた。
「前にも出しゃばんなって言っただろうが、チビ。お前が余計な行動をしたせいで、俺の魔法の発動が遅れた。お前は隅でサポートにでも務めてろ」
「お言葉ですが、二木さん。あれは私に問題はなく、むしろ最善の行動だったかと。そもそも二木さんの風の属性魔法こそ、サポート向けなのですから、私の後ろに控えていて欲しいのです」
どうも二人は、午前中にチームで行った魔法演習での、お互いの行動に不満があるらしい。
両者一歩も引かず、険悪な顔付きで舌戦を繰り広げている。
強面だが整った相貌の赤髪の少年は、眦を釣り上げて舌打ちをかまし。それに相対する小柄な金髪美少女は、紫電の瞳を尖らせている。
この二人は魔法の実力は折り紙つきだが、仲の悪さもまた有名であった。
「大体二木さんがそんな感じだから、前の魔法模擬試合でランキング入りを逃したのです! なんですか、個人評価は高いのに、連携の点で大幅なマイナスって! そんなの前代未聞なのです!」
「あ!? あれもお前が勝手な事したせいだろうが!」
「違うのです! チームワークを乱したのは二木さんなのです!」
「乱すも何も、まず俺たちの間にチームワークなんて存在しねぇだろうが!」
ヒートアップしていく言い争いに、周囲の生徒たちのハラハラも加速していく中、ガラッと扉が開き、「見つけた、木葉さん!」と、朗々とした声が教室内に響き渡る。
「いや、探したよ。はいこれ、文化祭でのステージ申請。バンドやりたいんだけど、これ会長の君の許可がいるんだろ?」
現れた茶髪の少年は、荒む場にも臆せず近付き、プリントを手渡した。少女はそれを反射的に受け取り、赤髪の少年も口を噤んだため、争いも一旦終息をみせる。
「あ、はい。了解なのです。バンドですね」
「うん。良かったら二木くんもどう? もう一人ギターでさ」
「誰がやるか」
茶髪の少年の気安げな誘いに、赤髪の少年は素っ気なく返す。だが以前とは違い、これでも彼の態度は随分丸くなったと言えるだろう。
茶髪の少年は気にした風もなく、「でもなぁ」と苦笑を浮かべる。
「二人ともペアなんだから仲良くしなよ。クラスの奴ら怖がってるし」
「……おい、山鳥。俺たちは『ペア』じゃねぇ」
「そうです、山鳥さん。私たちはあくまで『チーム』なのです」
揃って言い切った二人に、茶髪の少年は目を丸くした。次いで、微かに眉を下げ、何処か遠い過去を懐かしむような瞳で、「そうだな。『三人』でチームだったよな」と、切なげに呟いた。
「それにさ、二木くんのペアはずっと『彼女』だけ! とか、そういうことだろ?」
「…………否定はしねぇ」
「妬けるなぁ、本当」
からかうような言葉に、場の空気が和むかと思いきや。
どうも少女の方は、赤髪の少年の物言いが気に喰わなかったようだ。「お姉さまを自分のものみたいに扱うその態度、やはり二木さんは私の永遠の敵です……!」と、仮にも自分の相方に対して、熱い闘志を燃やしている。
さらに茶髪の少年は、「あ!」と思い出したように声を上げた。
「そういえば、水村さんたちから伝言。『公開魔法バトルには、あんたらも出なさいよね! そして私たちが勝つんだから!』だって」
『公開魔法バトル』とは、魔法模擬試合より気軽なトーナメント方式で、客を楽しませる要素が強い、文化祭の新たな催しだ。今年からは、非魔法適性者の人に魔法をもっと知ってもらおうと、魔法に親しみやすい工夫が色々と加えられつつある。
しかし、考案者である少女は首を傾げた。
「あの、失礼ですが水村さんって……」
「三人セットの一人だろ。確かあいつが『団子三姉妹』とか呼んでた」
ブッと吹き出したのは茶髪の少年だ。そのあだ名がツボに入ったらしい。
「い、いいな、その呼び方っ。彼女たちが知ったら怒りそうだけど……っ」
お腹を押さえて笑いを噛み殺しながら、少年は「じゃ、じゃあまたな」とそそくさと去って行った。茶髪の少年は、爽やかに見えてわりとイイ性格をしているようだ。
残された二人は、横目でお互いの様子を窺う。
「で、出んのかよ、そのバトル。お前は主催者側なんだろ」
「別に出場は可能です。元々、私は出る気でした。……今回の文化祭は、古い友人が遊びに来るので、私も盛り上げたいのです」
聞いた癖に、「あっそ」と赤髪の少年は興味無さそうに頭を掻いた。それに少女が文句を言いかけたところで、彼女は傍の窓ガラスに目を止める。
一瞬、揺れる白い尻尾と耳が見えた気がしたのだ。此処は二階のはずなのに。
「? どうした」
「あ、いえ。見間違えかもなのですが、お姉さまが大事にされていた人形に、よく似た猫が通ったような気がして。もしかしたら今のが……」
「……人形っていうと、あいつが魔法模擬試合で使ってたやつか。そういえばあいつ、何でか物質操作魔法は、あの人形にしか碌に使えなかったな。俺があれだけ練習に付き合ってやったってのに」
ったくと悪態を付きながらも、少年の金の双眼は酷く優しい色を帯びていて。
その瞳に込められた、諸々の感情を知る少女はやはり……彼のことが改めて気に喰わなかった。
「……いいですか? 二木さん。お姉さまと最初に仲良しになったのは私です。二木さんはポッと出なのですから、それをお忘れなく」
「はっ、それでもあいつに頼りにされてたのは、どう考えても俺の方だっただろうが」
バチっと視線が火花を上げて交錯し、二人は再び不毛な言い合いを開始した。
♣♣♣
方々を駆け回って、流石に少し疲れが見え出した頃。
白い猫は最後に、今は空き部屋となっている、女子寮の一室に訪れた。
器用にも、僅かに開いた窓の隙間から侵入し、布団の敷かれていないパイプベッドへと着地する。
前にここで生活していた少女が居なくなってから、空室のまま月日は経過したが、まだ部屋中には、その少女の気配が残っているようだった。
それに浸りながら、猫は「にゃあ」と鳴き声を一つ。
――――――大丈夫。君の大切な人たちは、君の面影を何処かに残して、今日も生きているよ。
ふわりと、柔らかな風が室内へと入り込む。
白い猫はもう一鳴きしてから、その風に溶けるように姿を消した。
彼の鳴き声に答えるように、「ありがとう」と笑う声が、風に乗って何処までも響いていった。
これにて、『余命六ヶ月延長してもらったから、ここからは私の時間です』は終了となります。
最後までお付き合い頂いた読者様には、心よりお礼申し上げます。
本当に本当にありがとうございました!
追記:登場人物まとめを追加しました。