最終話 四葉のクローバー
魔法が解け、白紙の世界に戻ってきた私に、シラタマは耳心地の良い美声で「ちゃんと皆にお別れは言えたのかい?」と尋ねてきた。
その問いに、私は瞳を閉じて頷く。
瞼の裏には、まだ大切な人たちの姿が鮮明に映っていた。
そんな私を透き通るような眼差しで見つめながら、シラタマは尻尾をゆらゆらと揺らす。
「それなら……もう後悔も、心残りもないかい?」
「……後悔はないよ。何一つ」
そう、後悔はない。
私は六ヶ月前のあのとき、シラタマの手を取ったことも含め、自分の行いをどれも悔いてはいなかった。
……だけどさ。
「心残りっていうか、『もっと生きてこういうことがしたかったなぁ』ってのは、ちょっとだけ……ごめん、本音を言うとかなりある」
白い世界でふわふわと浮きながら、私は心の奥底の本心を吐露した。
『みんなに会って直接さよならを言いたい』という、最後の願いが叶った癖に、私は何処までも我が儘だ。
でも、これは仕方ないことかも。
人間が欲深い生き物だってことくらい、天使のシラタマは重々承知してるよね。
例えば、あの本の作者がかえちゃんだって分かったから、次の夏休みには、心実にかえちゃんを紹介してみたかったとか。
きっと心実は「ファンです!」と興奮して、かえちゃんは反応に戸惑うに違いない。それを、私は生暖かい目で見守るんだ。
二年生になれてたら、今度こそ魔法模擬試合で、山鳥くんと森戸さんペアに勝つつもりだった。その頃には魔法をもっと覚えて、樹虎との連携も上達していて。団子三姉妹なんて、一瞬で負かしていたはず。五位ばっかりじゃなく、ランキング一位とか目指しちゃって。……あ、でも、心実とのバトルはやっぱり避けたいです。
そういえば、心実は生徒会入りが決まっていたんだっけ。あの笑い上戸会長が卒業したら、次の生徒会長は誰になるんだろう。まさか心実がいきなり会長、ってことはないよね。
何はともあれ、祭双子と一緒に、生徒会で活躍する心実を見てみたかったな。
あと機会があったら、梅太郎さんとのお茶会に、理事長さんを交えたら面白そうだった。あの調子だと、梅太郎さんは理事長さんに振り回されているようで、たぶん負けてない。そこに、樹虎や心実も入れてさ。ポチ太郎を連れて草下先生も来たら、相当賑やかになるんじゃないかな。
ポチ太郎といえば、今度ちゃんと躾をしようと思っていたのに、結局出来なかった。草下先生は無限に甘やかすから、まだまだ好き放題するんじゃないかと心配だ。
……でも、ポチ太郎が柊雪乃さんに遺書を届けてくれたから、みんなに会ってお別れが言えた。そう思うと、彼は彼のまま、のらりくらりとお犬様生活を満喫していけばいいのかも。
そうだ、山鳥くんが「来年は文化祭でバンドをやりたい」って話してたな。実は海鳴さんは歌が上手くて、森戸さんはドラムがプロ並みらしい。意外な特技だ。そんで、肝心の山鳥君はギターを始めたばかりで、来年に間に合うように猛特訓中だとか。
私もバンドに誘われたが、残念ながら音楽はからっきしだ。でも、みんなのライブは見に行ってみたかった。
あ、たんぽぽやつくしが、私の学校に入りたいって騒いでいたっけ。あの二人がもし魔法適性が出たら、おススメするよ、うちの学校。お母さんは私の制服姿に「似合うじゃない」って笑ってたから、たぶんそうなったら賛同すると思う。お父さんは寮に入ることに最後まで渋ってたから、嫌がるかもだけど。
制服姿で、家族写真をもうちょっと撮っとくべきだったよ。
紅葉や杏と、温泉旅行にも行けたら良かったな。かえちゃんの誕生日サプライズ、毎年楽しみだったのに。気心の知れた友人と、美味しいものを食べて温泉に浸かって。
杏は恋バナが大好きだから、樹虎のことを旅館で夜に話してみるんだ。みんな、どんな反応をするんだろう。
そうそう、樹虎と恋人になれたんだから、デートくらいはしたいよね。定番は遊園地? 水族館? ……どっちも嫌がりそうだけど、そこは強制連行で。でもちょっと恥ずかしいこと言うと、私はわりと、樹虎と行けるなら何処でもハッちゃけられる自信がある。
そして手を繋いで、彼の隣を歩いてみたかった。
いつか心実が言っていた、クローバー畑でのピクニック。
みんなで晴れた日に、大勢でワイワイしながら四ツ葉のクローバー探しなんて出来ていたら、きっと時がこのまま止まればいいのにと願うほど、楽しかっただろうと思う。
まだまだ、生きてやりたいことなんて、山ほどあるんだよ。
だって私は、『死にたい』なんて願ったことは、実は一度もないんだから。
でも、そんなことを言い出したらキリがない。
だから私は、『もっと生きたかったなぁ』と思いながら――――――――死んでいく。
「……それで、シラタマ。私はこれから、どうなるのかな?」
静かに問い掛ければ、シラタマは何もない白い空間の、ずっと先を指差した。指と言っても、猫の手だけど。
目を凝らしてみれば、彼の示す遠く遠くの方に、一筋の薄い黄色の光が差し込んでいるようにも見える。
「あそこが、死んだ人間の魂が行き着く、『魂の終着点』だよ。君は今から、あそこに向って進んでいくんだ。……いよいよ、僕ともお別れだね、三葉」
「そうだね。私は、シラタマには本当に感謝しているよ。私に、もう一度生きるチャンスをくれてありがとう」
腕を伸ばして、シラタマの柔らかな肢体を抱き締める。
耳をピクピクとさせて擽ったそうに身じろぐ彼は、偉い天使様というより、やっぱり私の友達の綺麗すぎる野良猫だった。
その毛並みを一撫でしてから、彼と離れて私は歩み出そうとする。
だけどその前に、シラタマは「最後に僕から」と呟いて、尻尾と腕をくるりと回した。
すると、私が進もうとした遥か先に、徐々に何かが現れ始める。
白い空間の一部に、鮮やかな色彩を浮かび上がらせたそれは。
「クローバー畑……?」
さっきまではぼんやりと黄色の光が見えるだけで、何もなかったそこには、今は確かに一面緑のクローバー畑が広がっていた。
さらには、耳を澄ませば私を呼ぶ複数の声が聞こえる。
良く見たらクローバー畑の中には、私の大切な人達の姿があった。
「多くの場合、人は生きていた時のことを回想しながら、何もない白い空間をゆっくりと歩んで、魂の終わりを目指すんだ。それを、人は俗に走馬灯とも言うね。……でも、『ゆっくり歩いていく』なんて、あまり君らしくないだろう?」
シラタマの酷く優しい声音が、私の耳に沁み渡る。
私の方はただただ食い入るように、遠くに広がる夢のような光景から目が離せなかった。
「天使が力を使って干渉できるのは、同じ人間に一度きり。だけど、このくらいの幻を見せるくらいなら、そう大したことじゃない。何よりこれは、天使としてではなく、君の友人として僕から最後の贈り物だよ」
「は、ははっ……シラタマってば本当に……私にサービスが良すぎるよ」
涙で視界が霞んでしまっては勿体ない。
私は泣かないように気を付けながら、ゆるゆると情けない笑顔を浮かべた。
頭に浮かぶのは、いつかの梅太郎さんの言葉だ。
『きっと君の向かう先は、四ツ葉のクローバーの咲くハッピーエンドだよ』
ああ、そうですね、梅太郎さん。
私には、みんなのいるあの場所に……四ツ葉のクローバーが確かに見えます。
「あの光景に向ってなら、君は走っていけるだろう。――――――三葉は最後まで、走り抜ける姿が三葉らしいよ」
私はシラタマの言葉にコクリと頷いた。そして息を吸って、白い空間に溢れさせるように、遠くのみんなに届くように、声を張り上げる。
「私は生きた! いっぱいいっぱい生きた! でも本音を言えばもっと生きたい! だけど死んでいく! そんでもって私は――――――」
この六か月間を必死に生きられて。
「――――――たくさんたくさん幸せだった!」
そして、私は思いっきり駆け出した。
何処が地面だか分からない空間だから、空を走っているような気分で、一直線にみんなのいるクローバー畑に向って。
もう涙を耐えることもなく。
泣きながら笑って、私は何処までも走って行った。