44 今日だけは
重い瞼を押し上げ、視界に広がったのは、見覚えのある白い天井だった。
ここは保健室で、自分はどうやらベッドで寝かされていたらしい。明瞭ではない頭で、それだけ判断するのと同じタイミングで、横から耳通りの良い低い声が聞こえた。
「ようやく起きたか」
「あれ、樹虎? なんで私……」
そこまで言いかけて、ハッと気付く。
そうだ、私は――――。
「ひ、柊雪乃さんは!? あのあとどうなったの!?」
かけられていた薄い布団を跳ね飛ばし、勢いよく体を起こす。
一気に頭が覚醒して、屋上での情景がスライドショーのように浮かんだ。情けないことに気を失ってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。
ベッド傍のパイプ椅子に座る樹虎に、必死に説明を求めるように視線を投げかければ、彼は憮然とした態度で端的に答える。
「あの女なら逃げた」
「に、逃げたって……」
「お前が倒れたのを俺が受け止めている間に、転移魔法を発動させてどっかに消えたんだよ。そのあと、あの女がどうなったかは知らねぇ」
「ちょっとそれって!」
また別のとこで死のうとしているんじゃっ……!?
慌ててベッドから降りようとすれば、樹虎が「落ち着けよ」と、取り乱しかけている私の腕を軽く掴んだ。
「大丈夫だろ。あいつはもう、今すぐ死のうとなんかしねぇよ」
やけに自信に溢れたその声と、強い金色の眼差しに、私は勢いを削がれて動きを止めた。
彼の目には、何故かはっきりとした確信の光が映っている。
もしかして、私が気絶したあと。彼が倒れ行く私を受け止め、彼女が消えるその数秒の間に、何かしら二人でやり取りでもあったのだろうか。
「消える前に見えた、あの女の目には生気が宿っていた。あれは、これから死のうとする人間の目じゃねぇ。どういう考えであそこから消えたかまでは分からないが、今すぐ死ぬことは少なくともねぇはずだ。それにあの女、最後に…………」
「? 樹虎?」
言葉を切り、考え込むような素振りで黙り込んでしまった彼に、私は首を傾げた。
「とにかく。あの女は放っておいても大丈夫だ。それにお前の方は、あの女に話も聞けたし、言いたいことも言えたんだろ? なら、もうお前が構う必要はねぇよ。落ち着いたらさっさと寮に帰るぞ」
「え、あ……」
樹虎がガタリと、音を立てて乱暴に椅子から立ち上がる。
空気的にそれ以上は言及出来ず、また、私は彼の足元に目を止め、そちらに気を取られてしまった。そこには、教室に置きっ放しだった私のバッグが置かれていて、どうも私が眠っている間に、わざわざ樹虎が持ってきてくれたようだ。
今さらだが、気絶した私をここまで運んでくれたのも、当然ながら樹虎であり……どんなふうに運んだかは、聞かない方が得策かな。
「そういえば、保健の土田先生は? もう時間も遅いし、保健室閉めなきゃいけないよね? 私を待っていてくれてるなら、お礼言わなきゃ」
「あの教師なら、ちょうどお前を運んできたら此処の鍵を閉めるところで、『ちょっとコイツ休ませろ』って言ったら、鍵置いて走り去ったぞ」
「え……」
それはつまり、樹虎にビビって、『鍵は任せたので、あとは自由に使ってください』と逃走したということだろうか。教師としてどうかと思うが、たぶん樹虎も凶悪な目つきで睨んだりとかしたに違いない。
私はチラリと彼の、強面だけど整った顔を下から覗き見た。
保健室に運んで貰ったことだけじゃない。その前にも、私を探すために、校内中を走らせたりもしたんだった。
今日は、何だか樹虎に負担をいっぱい掛けてる気がする。
あんな状況に関係のない彼を巻き込んだことも含め、私は猛烈に申し訳ない気持ちに襲われた。
「あの、ごめんね樹虎。その、色々と迷惑かけて……」
「……迷惑ってどれのことだ」
「い、色々と」
自分が不甲斐なくて、彼の顔が見れずに、白いシーツに視線を落としたままそう答えた。
そうすると、あの屋上での出来事が、今度はゆっくりと思い返されて。それに伴って、あのどうしようもない、どろどろとした醜く苦しい感情も、再び胸中へと蘇ってくる。
つい涙腺も緩みかけて、私は樹虎に気付かれないように、布団に強く指を食い込ませた。
ここで、泣くのはダメだ。
これは生理的な涙ではなく、ごちゃごちゃした汚い感情を吐き出したいだけの、自分の内に巣食う『弱さ』を露呈させてしまう涙だから。
この余命を延長してもらった六ヶ月の間。私は後悔しないように、強く生きようと誓ったんだ。
『弱さ』の証である涙なんて、流すことは許されない。
それにここで泣いて、これ以上、樹虎を困らせるの嫌だ。
皺になったスカートも視界の端に入れながら、泣くな泣くなと自分に言い聞かせていたら、樹虎が「ハァ」と呆れたように溜息をついたのが聞こえた。
「お前に迷惑かけられるなんて、魔法模擬試合のときから日常茶飯事だろうが。今さら殊勝な態度取るな、似合わねぇ」
「……は、はは。確かにそうかも。いや本当に、頼れるペアがいて嬉しいよ」
私は顔を上げて、無理やり笑顔を取り繕った。
大丈夫。
涙は引っ込めたし、声は震えていない。
それでも、まだ脳内には屋上での光景が展開されたままで。
その中で私はふと、ある引っ掛かりがあることを思い出した。この話はもう触れない方がいいかな、とも思ったけど、どうしても気になり、躊躇いつつも、その引っ掛かりを口にする。
「ねぇ、樹虎。柊雪乃さんが『母が世界のすべてだった』みたいなことを言ったとき、樹虎がその言葉を気にしているふうだったけど、えと、もしかして、あの……」
柊雪乃さんの言葉に、樹虎は思いを馳せるように「……世界のすべてか」と零していた。
あれはまるで、自分のことと重ねているような物言いだった。
…………もしかして樹虎も、誰かただ一人の、『自分の世界のすべてだと思う人』が居たのかな。
「あれは……少しだけ、従兄の兄貴のことを思い出したんだ」
「従兄の、お兄さん?」
「昔、俺はそいつに懐いてた時期があったんだよ。あの女の母親みたいに亡くなったとかじゃねぇけど、今は擦れ違いがあって、その兄貴とは絶縁した。自分にとっての唯一の存在を失くすって点で、あのときはほんの爪の垢程度に、あの女の気持ちが分かっちまったってだけだ」
深い意味はねぇよ、気にすんな……と、樹虎は言ったが、彼がこんなふうに自分のことを話すのは珍しい。きっと、従兄のお兄さんは、樹虎にとって本当に大事な人だったのだろうな。
私はそっと目を伏せて、柊雪乃さんが感情を露わにした瞬間を反芻する。
彼女は後悔に彩られた瞳で、己の行いや人生を嘆いていた。唯一無二の大事な母親のために、盲目的に研究所で働いてきた彼女は……どうしていたら、今とは違う未来を歩めていたのだろうか。
例えば。
もし彼女の傍に、彼女の間違いや暴走を止めてくれる人が居たら。
もし彼女に、母親以外にも、彼女を理解してくれる人間が居たら。
――――――今のような、悲劇とも呼べる未来は避けられたのだろうか。
ふと頭に浮かんだのは、祭先輩の存在だ。『ゆきちゃん』と呼んで、柊雪乃さんを気にかけていた彼女は、もしかしたら、柊雪乃さんの人生を変える『誰か』に成り得ていたかもしれない。
考えても仕方のないことだが、そんな『もしも』の話が、ぐるぐると脳内を巡った。
そうはならなかったから、この今があるのだと、分かってはいるのだけれど。
「……『ただお母さんに笑って欲しかった』、か」
思わず、私は柊雪乃さんの言葉を小さく呟いていた。
母親と共に笑って一緒に居たかった――――ただそれだけの、素朴で純粋で、だけど強すぎる想いを利用された彼女は、根本的なところでは、研究所の『被害者』だ。
――――だけど私にとっては、やはり柊雪乃さんは、私を殺した『加害者』で。
それを思うと、また胸の内で、あの時の憎しみや恨み、次いで湧いた怒りや悔しさが渦巻いてきて、今すぐにでも泣いて喚いて叫びだしたい気持ちになってしまった。
……自分の感情が、酷く不安定で嫌になる。
私は、ふるふると頭を振った。
まだ感情を制御できているうちに、早く寮に帰って寝てしまおう。そうすれば、きっと気持ちをリセット出来るはずだ。
私はまた明日から、頑張って残り少ない人生を必死に生きなくちゃいけないんだから。
こんなところで、弱さを晒して立ち止まるわけにはいかないんだ。
パパッと乱れた髪を整えて、私は樹虎にニコッと笑顔を向けた。いつも通りの明るい声の調子を意識して、沈みかけた空気を払うように話しかける。
「ごめん、もうこの話題は終わりにして、樹虎の言うように早く寮に帰ろうか! あんまり遅くなると、明日の準備とかにも支障でちゃうし。そうそう、明日も文化祭練習をやるから、樹虎も来てね。今日は一緒に出来なかったけど、明日はペアで劇を頑張ろうよ。大丈夫、樹虎なら風の属性魔法で大活躍できるから」
「……おい」
「あとね、文化祭当日に回りたい店とかも、そろそろチェックしなくちゃって、心実と話していて。あ、心実といえば、魔女っ娘喫茶をやるらしいんだけど、絶対凄く可愛いし、良かったら一緒に見に行こうよ。それからえっと――――」
「おい!」
勢いに任せて口を動かしていたら、樹虎が「もう止めろ」と言わんばかりに、私の話を鋭い声で遮った。
その声に一瞬、驚いて思わず作った笑顔が崩れかけたが、すぐに口元を吊り上げて笑みを浮かべ直す。
「ど、どうしたの樹虎? あ、無駄話は叩くなってことかな? ごめん、早く帰りたいよね。今ベッドから降りるから、ちょっと待って」
「……お前、本気でその『顔』で寮に帰るつもりか?」
「え?」
「俺は『落ち着いたら』、さっさと寮に帰るぞって言ったんだ。そんな泣くの我慢して無理に笑ってる、不細工な顔して寮に帰ったら、梅太郎の爺とかが騒ぐだろ。……もともと大した面してねぇのに、今のお前は二割増しでブスだぞ」
「なっ」
仮にも女の子相手に吐く暴言じゃないと、その点に私は全力で噛み付きたかったが、それ以上に空元気がバレていたことに絶句した。
上手く笑えていたと思っていたけど……私、今そんなに、酷い顔をしているのか。
「…………普通に考えて、あんなことがあった後に、落ち込むな、泣くなって方が無理だっつうの。目の前で人が死のうとしているってだけでも、ショックのでかい出来事なのに、あの女はお前を殺しかけた犯人でもあるんだろ? そんな奴と対峙してすぐあとに、笑って何でもない話なんか出来るか」
「っ!」
正確には、『殺しかけた』じゃなく、『殺した』犯人だ。
樹虎の言葉の一つ一つが、私の頑なに閉じ込めようとした、心の脆い部分の殻を剥がしていく。部屋に広がる独特の薬品の匂いが、やけに鼻孔を突いて、それが目にまで沁みてくる気がした。
「お前は自分を殺しかけた相手の命を、この世に留めた。そして、自分の思いをぶつけて、正面から当たっていった。それはきっと、誰でも出来ることじゃねぇと、俺は思う。あのときのお前の言動を、俺はスゲェと思った。……だけど、あんな事があったあと、無理して笑う必要もねぇとも、俺は思う」
「きとら……」
「抱えきれない感情があるなら、泣けばいいだろ。泣いて喚いて暴れて、吐き出せるなら吐き出せばいいじゃねぇか。誰が咎めるんだよ。それで少しでも楽になるなら、遠慮なく泣け。――――どうせ此処には、お前の迷惑に慣れてる俺しかいねぇんだから、誰に気遣う必要もないだろ」
そう一気に喋って、彼はフイッと顔を背けた。
らしくない恥ずかしい言葉の数々に、照れているのか。それとも、私が泣いてもいいように、視線を外してくれたのか。
それは分からないけど……彼の広い背中と、燃え盛る赤い髪が視界を埋めた途端、私の目からは、自然と静かに一滴の雫が落ちた。
「あ……」
脳の端では、まだ『泣くな、耐えろ』と咎める自分がいるのに、一度流れたら、涙というのは止められない。
私の瞳からは、汚い感情を綯交ぜにした透明な水滴が、次から次へと溢れ出した。
「う、あ……」
――――私は、自分を殺した柊雪乃さんが憎い。
でも、彼女が本当は、悲しい被害者だということも分かっていて。
だけど、憎しみは奥底で燻ったままだし、あのとき感じた、身を焼くほどの怒りも悔しさも、今でも鮮明に心に残っている。
それが、堪らなく辛くて痛い。
自分で処理しきれない感情ばかりが、私をじわじわと苛んで、苦しくて仕方がない。
……それを泣いて、外に出してしまおうなんて、自分の感情に負けた『弱い私』のすることだって、分かっているのに。
私は、そんな『弱い私』にも負けないくらい、強くなくちゃいけないのに。
強く、残りの余命を生き抜かなくちゃいけないのに。
「あ、うあ……っ」
流れ落ちる涙はシーツに染みをつくり、聞くに堪えない嗚咽は、空間を覆うカーテンの中で虚しく響いた。
佇む樹虎は黙ったまま此方を見ず、だけど確かに、『そこ』に居てくれて。
私の『弱さ』をただ静かに、背中で見守ってくれていた。
「うぅ、ああ、うあぁ……っ!」
――――――今日だけだ。
今日だけは、私は余命六ヶ月延長してもらう前の、『弱い三葉』のままで泣く。
みっともなく泣いて叫んで吐き出して、そしたら。
明日からはまた一生懸命、残りの生を強く笑って生きるから。
だから。
「あぁぁぁぁっ!」
ねぇ、何処にいるかもわからないシラタマ。
今日だけだよ、今日だけだから。
どうか。
今日だけは弱い三葉のままで、泣くことを許してください。