43 三葉の慟哭
柊雪乃さんの感情の発露を目にした瞬間。
私の身体を拘束していた呪縛は解け、夕陽と共に沈もうとしている彼女に向って、私は考えるよりも先に手が動いていた。
「っ!」
走ったところで、フェンスの向こうにいる彼女の腕は掴めない。
脊髄でそう判断した私は、咄嗟に魔法を発動させた。
――――この学校で、私が初めて習得した、唯一の特技であった『移動魔法』。
それで私は、落ち行く『彼女の身体』を、こちらに思いっきり引き寄せた。もちろん、この魔法で人間の身体が動かせるなんて保障はなかったし、操作できる重量制限も優に超えている。
けれど、火事場の馬鹿力か。それとも、彼女の中にある『私の魔力源』と、私の魔法が引き合ったのか。
彼女の宙に投げ出されようとしていた身体は引き戻され、ガシャンと音を立てフェンスに張り付いた。
「――樹虎っ!」
力あらん限りに彼の名を呼べば、それだけで樹虎は、私の言おうとしていることが理解出来たようだ。
魔法模擬試合のときの、ペアでのコンビネーションを思い出す。
ハッとしたのは一瞬で、彼は素早く風の属性魔法を発動させた。私の魔法の効力が切れる前に、彼の起こした風が、ふわりと柊雪乃さんの細い身体を持ち上げて、フェンスを超えてこちら側に下ろす。
私は押し寄せてきた尋常じゃない疲労感を振り払い、彼女の元に走り寄った。
長い髪や制服を乱し、冷たい地面に座り込む柊雪乃さんは、流石に状況に脳が追い付いていないようで、呆けたように走ってくる私を見つめていた。
そんな彼女の前に座り込んで私は――
パンッ!
「え……」
――――右手を思い切り振り上げて、その白雪のような頬を平手で容赦なく叩いた。
背後で同じく駆け付けようとしていた樹虎が、息を呑んで立ち止まったのが分かる。
まだ思考回路が正常に働いていないのだろう、ゆっくりと瞬きを繰り返す柊雪乃さんに、私は叩いたあとの状態のまま、全身全霊を込めて叫ぶ。
有りっ丈の感情をぶつけるように。
喉が張り裂けんばかりに。
「―――――ふっざけんな!」
自分でも何処からそんな声が出たのかと思うほど、鋭いその叫びは、辺り一帯に響き渡り、ビリビリとフェンスの金網までを揺らした。
長い睫毛に縁取られた彼女のグレーの瞳が、微かに見開かれる。
薄らと赤くなった頬は痛々しく。初めて本気で人を叩いた私の右手には、嫌な感触が残っていた。
それらを無視して、私は彼女に至近距離から言葉を浴びせる。
「何が、何が『私がまだ生きる理由が思いつかない』だっ! それっぽい御託を並べて、生きることから逃げようとしてるだけの癖に! 死んで償う!? 死ぬことが復讐!? ふざけたことを言わないで!」
脳の端から端までがガンガンと痛くて、溢れ出る感情の奔流に、口先と思考が追い付かない。
言葉を整理出来ず、自分が何を喋っているのかも余り理解していないが、ただただ唇だけは動き続ける。
あの一陣の風と共に外れたのは、彼女の感情の留め具だけじゃない。
私の押さえてきた激情も、一緒に解き放ってしまったようだ。
今の私の胸に渦巻いている感情は、醜くて汚いものばかりだ。当然のように、この人への憎悪はまだ奥底で息をしていて、それがしつこく私の心を真っ黒に染めようとする。
だけど。
今の私が最も強く抱いているのは、憎しみの感情じゃない。
これは…………煮え滾るほどの『怒り』と、歯噛みするほどの『悔しさ』だ。
「……加えて、あなたは言った。自分の時間は短い制限付きだと」
母親のために、その制限のギリギリまで生きるつもりだったけど、もうその母は居ない。
それなら、生きる意味もないのだから、自分を保てるこの間に、今すぐ自分の命を捨てればいいだろう、と。
その言葉の羅列たちが、私には少し脚色されて聞こえてしまって。
――――どうせもう死が近いのに、そんな短い生を必死に生きても無駄だと、そう言われている気がして。
それが、私の胸の奥底に触れてしまった。
状況は大きく違うが、『少ない限られた時間を生きている』という点だけは、この人と私は同じなのかもしれない。
でも、この人はまだ足掻ける時間があるのに、自分の罪から逃げ、死んで全てを終わらせようとしている。
聞こえてくる『声』に、自分を徐々に侵食されていく恐怖がどれほどのものか、私には分からない。
でも、まだ抗えるのなら。まだ、その恐怖や侵食と戦える時間があるのなら。
「生きる意味であった母親が居なくなっても。自分を殺したいほど憎んでいたとしても。あなたは生きてよ! 償いも復讐も、自分が自分じゃなくなるそのギリギリの瞬間まで、恐怖しながら足掻いて戦って、生きてやってよ! そうじゃないと、そうじゃないと私が……っ!」
あなたに命を奪われて。
余命を六ヶ月延長してもらって。
限られた少ない『生』に、今まさに必死でしがみ付いて生きている私が。
「惨めじゃないか……っ」
血を吐くような勢いで、絞り出すように飛び出た思いの塊は、夕陽と闇の狭間に吸い込まれていった。
私は熱くなる目頭に耐えて、ぐっと唇を噛む。この人の前で、涙を流すことだけはしたくない。
私は悔しい。
私の命を奪ったこの人が、自分の命を簡単に捨てようとしていることが。
今の私が何よりも尊く思っている『生の時間』を。それを私から奪っていったこの人が、『自分の生の時間』はあっさりと放棄してしまえることが。
悔しくて腹立たしくて堪らない。
私が本当は死んでいて、余命僅かなことを知っているのは、今は何処にいるかも分からないシラタマくらいだ。そのことを、この場でこの人や樹虎に明かすつもりはない。上手く説明できる気はしないし、天使に余命をもらって生きているなんて、荒唐無稽で信じてもらえないだろう。
元よりこれは、誰にも言わないと自分自身で誓った秘密だ。
だから、シラタマがいない今。私のこの行き場のない怒りや悔しさは、きっと誰にも理解してもらえない。
それでも、喉が潰れて耳障りな声になっていようと、叫ばずにはいられなかった。
「私の前で、私を『殺した』あなたが、自ら死を選ぶなんて許さない……! どんな理由があろうと、私だけは絶対に許しはしない! あなたは生きて自分の罪を償え! 研究所への復讐も、したければ生きてしてみせろ! 自分の残された時間を、もっと大切にしてっ、そのギリギリまで……罪を背負って生き抜いてみせてよ!」
――――それが、あなたが出来る、きっと唯一の私への償いだ。
私の言ったことは支離滅裂で、目の前にいるこの人には、半分も伝わっていないかもしれない。
自分がこの人に求めていることが、正しいのか間違っているのかも、自分でも分からないくらいだから。
だけどこれが、私を殺した相手に対して、私がぶつけてやりたい思いのすべてだった。
気を抜けば緩みそうになる涙腺を引き締めて、私は真っ直ぐに彼女を見つめた。ぼんやりとしていた彼女のガラス玉のような瞳には、酷い顔をしたボロボロの私が映っていて。
赤紫の陽に照らされた中で、どのくらい二人で見つめ合っていたことだろう。
やがて柊雪乃さんから、その口を開いた。
「野花三葉さん、貴方は……」
彼女が私に何かを言おうとしている。
しかし、私の頭はぐらぐらと揺れていて、目の前の彼女の表情も声も、意識から遠のき始めていた。
恐らく、一気に無茶な魔法の使い方をした故の…………魔力切れによる、身体の疲労のせいだ。
「――――――」
彼女が何かを話しているはずなのに、私の耳はもうほとんど聞き取れていない。彼女の輪郭が黒に溶かされて、私の視界からもフェードアウトしていく。
ただ。
「三葉っ!」
切羽詰まったように私の名を呼ぶ、彼の声だけは耳に届いて。残った力を振り絞って後ろを向き、薄れ行く視界の端に、彼の暖かく燃える炎が見えたと同時に。
私は気を失った。