42 境界線
「魔力源を抜かれ、魔法を使えないはずの貴方が、何故かこの魔法専門学校に居る。そこでようやく、魔力源が消失していく原因を特定した私は、上の階から貴方を見下ろし、自分の取るべき行動に迷った。……そうしたら案の定、『声』が聞こえてきた」
『あの子が生きていることが邪魔だ』『取るべき行動なんて決まっているだろう』『母のためにも消えてもらわなくては』『迷うな、惑うな、今すぐ消してしまえ』
彼女の紡ぐ言葉たちが、耳を撫でる風と共に、私の鼓膜を犯す。
「かつてない程、『声』に思考を埋められた。母に関連することは、特に付け入られやすいと、分かっていたはずなのに。動揺と焦りで心に大きな隙を作ってしまい、抗う間もなく意識が飛んだ。気が付いたら、貴方は階段の下に横たわっていた」
陽をそのまま反射するほど、名の通り雪のような白い指先が、フェンスにそっと添えられた。
真白な手。
あの日、生命が消える間際に見た、私を突き落とした手だ。
「意識の飛んでいる間の記憶はなくても、私が魔法を使って貴方に忍び寄り、突き落としたことは明白。自分の犯した罪の重さに慄き、咄嗟に貴方の安否も確認せず、私はそこから逃げた」
「あなたは……私を突き落としたことを、意識がない間であろうと、確かに『自分の罪』だとは、認識されているんですね」
「ええ。魔力源に意識と身体を乗っ取られていようと、やったのは私に変わりない。あれは間違いなく大きな『私の罪』。―――だから、次の日。普通に廊下を歩く貴方を遠くから確認して、私は心の底から安堵した。目立った外傷もなく、運良く助かったのだと。私は、人殺しまではしていないと。身勝手にも、ホッとしたの」
ああ、そうか。
犯人であるこの人ですら、当たり前に知らないのだ。
私が本当は死んでいることを。
本当は私を『殺しかけた』のではない、『殺してしまった』のだということを。
私はこの人のせいで、命の灯火を消されたのに。この人のせいで私には、もう残り僅かな時間しかないのに。
それなのに。
――――私の命を奪ったこの人が、当然のように、私が死んだことを知らないんだ。
小刻みに震える手で、ぐっと胸を押さえた。
その事実を改めて突きつけられ、封じ込めていた感情の蓋が開く。彼女に対面したときから奥底で燻っていた、自分を殺した相手への憎しみや恨みが、じわじわと胸中に溢れ出して止まらない。
もし彼女のように、私にも身体と意識を乗っ取ろうとする『声』が聞こえていたら。
今なら、きっとこう囁くはずだ。
自分を死に追いやった彼女に……『復讐しろ』と。
まるで、どろりとした黒々しい液体を、胸に一滴ずつ流し込まれているようだった。酷い苦みを含んだ感情の雫が、灼熱の激情となり、心に黒い染みをつくっていく。毒のような思いが胸の真ん中で滲んで、苦しくて仕方ない。
「うっ」
吐き出す場のない、処理しきれない悪感情の奔流が気持ち悪く、口元を覆って、耐えきれずに足をフラつかせる。
思わずバランスを崩しかけたら、トンっと誰かが私の不安定な背中を支えてくれた。
誰かなんて、一人しかいない。
「き、とら」
「……階段から落とされたときの、後遺症や怪我は本当にねぇのか」
「え、あ、うん」
影が差したかと思えば、私の顔をじっと覗き込む、樹虎の端正な顔があった。虚を突かれ、反射的に返事をすると、「ならいい」とだけ言って、彼は視線を移す。
「……コイツが生きていてホッとした、なんて勝手なことをほざいたが、お前はコイツが生きていたら、魔力源が消失して困るんだろ? 本当は今でも、そうやって油断させて、まだ命を狙ってる可能性もあるんじゃねぇのか?」
そう問う声には、隠す気もない警戒心が剥き出しになっていた。
真っ直ぐに柊雪乃さんを睨む、その瞳の奥には怒気の炎が爆ぜていて。けれどそんな強い瞳に反して、彼の手は安心させるように私の肩に乗せられている。
その温かい温度が。私のために本気で怒りを燃やし、守ろうとしてくれる、彼の存在が。
私の胸中にある、黒い毒を薄めてくれた。
ふぅと、息を吐き出す。久しぶりに呼吸が出来た気がして、心が落ち着いていくのが分かる。
巻き込んだことは心底、申し訳ないけれど。
――――――今この場に樹虎が居てくれて、本当に良かった。
「言ったでしょう? 『今』の私には、貴方を殺す意思も理由もないと。……確かに彼の言う通り、少し前までは、貴方が生きていて安堵したと同時に、残った魔力源消失の問題に、私はどうすべきか懊悩していたわ。『声』は貴方を『もう一度消せ』と命令する。でも、取り返しのつかない罪をもう犯したくはない。けれど魔力源は迷っている間も減っていく。そんな矛盾を抱え、焦りと葛藤の日々を送っていたのは事実よ」
「……魔法模擬試合の開会式の日。私は強い視線と悪寒を感じました。あれはあなたですよね? あれも、その日々の間のことですか」
「そうよ。貴方と会えば、また一気に『声』に意識と身体を奪われかねない。だから、貴方と遭遇しないように気を付けていたのに……開会式の時は、つい視界に入れてしまった。意識が飛んだのは一瞬で、何とか正気をすぐに取り戻せたけど、自分がどんどん不安定になっていくのが、酷く恐ろしかったことを覚えているわ」
そんな状況下だったから、彼女は日記を紛失しても、気に止める余裕も無かったのだろうか。落としても探す時間も惜しく、放置していたのをポチ太郎が偶々見つけたのかもしれない。
「貴方を殺さず魔力源を維持する方法を模索している間に月は経ち――――つい数日前。私という人間の根底を揺るがす知らせを受けた」
「それは、雪香さんが……」
「そう。――――――私の母・柊雪香が死んだの」
ポツリと落とされた無機質な声は、悲しみも何もない空っぽのまま、虚空へと霧散して消えた。
最愛の母親の死を口にしている彼女の表情は、それでも微動だにせず。
垣間見えた気がした瞳の光も完全に隠され、まだ『柊雪乃の心』は、水面の向こうに沈められたままのようだ。
彼女は灰色の双眼に、波風一つ立てない水の膜を張ったまま、口を動かし続ける。
「弱い身体で無理をした母は、研究室で急に倒れてそのままだったそうよ。……そして母が死んだことで、私はもう一つ自分の罪を知った」
「もう一つの罪……?」
「私の罪は、貴方を殺しかけたことや、魔力源を奪って何人もの人生を歪めてきたことだけじゃない。母が死んだことも、私のせいだった」
「え……」
母親の死の原因が、柊雪乃さんにある、ということだろうか。
私は樹虎の身体からそっと離れ、自分の足でコンクリートの地面を踏み締めながら、彼女の言葉の続きを待った。
「私は、ずっと母の研究の成功のためだけに生きてきた。そのために、大きな犠牲を払い、何度も罪を犯して。自分の行いが許されない過ちだと理解した上で、迷い揺らぎながら、それでも研究所のために働き続けたのは、母がそれを望んでいると思っていたから。……でも、それは違った」
「違った?」
「そう、違ったのよ。――――母は、『人から奪った魔力で薬を造る』ことなんて、初めから望んでいなかった」
「!」
息を呑んで固まる私の代わりに、樹虎が「どういうことだ? お前の母親は薬の開発者の一人なんだろ?」と問い掛けてくれた。
その質問に柊雪乃さんは、隠されたもう一つの……彼女にとってはあまりにも残酷な、最後の真実を明かす。
「母の死を告げられた日。私はフラリと、母と共に過ごした懐かしい家に向かった。家の前には、母の助手をしていたという男が居て、私は彼から『母の真実』を伝えられた。ずっと私は、母は悲願である薬開発のために、進んで研究所に入ったのだと思っていたけど、そうじゃなかった。――全部、私のためだったのよ」
「あなたの、ため」
「私たち母子には親戚も居らず、頼る宛もなかった。病弱な母は、いつまで娘を自分だけで養えるか、常に危惧していたらしい。何も後ろ盾の無い状態で、娘を一人置いて逝くことになるかもしれないと、思い悩んでもいたそう。研究所の奴らは、それを見越して母に条件を持ち掛けた。自分たちの研究に手を貸せば、今後、娘にあらゆる面での援助は惜しまないと。娘を研究に巻き込んだりもしないし、母親の死後も研究所で娘の面倒を見て、何不自由ない生活を送らせることを約束すると」
「焦りが募っていたことや、他に縋る宛もなかったことから、迷った末に研究所の話を受けたのだと、母は助手の彼に明かしたそうよ」
そう語る柊雪乃さんの眼差しは、ここではない遠くの空へと向けられていた。
しかし、助手さんから聞いた通りなら、私の中で抱いていた柊雪香さんのイメージも変わる。
てっきり、娘より薬開発を優先している母親なのかと思っていたが、むしろ薬などは二の次で、娘の幸せを何より願っていたようだ。
だけどそれなら。
「あの手紙は……? その話の流れなら雪香さんはたぶん、あなたに危ない研究には関わって欲しくなかったんですよね? 研究所も巻き込まないと約束したはず。でも手紙の内容には……」
「母は、私が薬開発のために『仕事』をしていることを、一切知らなかったわ。助手の彼も、私と対面して初めて知ったのだそう。あの手紙は、研究所の奴らが用意したニセモノだった」
「ニセモノ……ッ」
「研究所の狙いは最初から、私たち母子二人だったのよ。薬開発に有用な知識と優れた頭脳を持つ母親。必要な禁断魔法と相性の良い魔法能力を備えた娘。そのどちらも利用するために、私たちを引き離し、互いの正確な情報が行かないように工作されていたの」
母子二人は意図的に会えないように仕組まれ、母は娘への、娘は母への想いを利用されていたのか。
私は、彼女に同情する気も憐れむつもりもないけれど。
これだけは、本当に腸が煮え返るような思いで言える。研究所の奴らのしたことは、非道で、残酷で、悪辣で――――何処までも罪深い。
「しかも、母は条件のために薬の成分の開発はしたけど、最後まで人から魔力を奪うことには反対していたらしいわ。研究所の奴らを止めるため、犠牲の出ない別の方法で薬を造ろうと、ほぼ一人で寝ずに研究もしていた。……私のしてきたことは、そんな母をさらに追い詰めただけだった」
「それで、母親の死の原因も自分にある、と」
「ええ。この話を聞いたとき、私は自分が崩壊する感覚に襲われた。『すべてを壊せ』という『声』が聞こえたと同時に意識が飛んで、ひたすら暴れ続けたみたい。気づいたら家は半壊していて、助手の彼が止めてくれなかったら、もっと酷いことになっていたに違いないわ」
それが、意識を完全に手放した三回目か。
こんな真実を明かされたら、強い精神力を維持しろという方が無理なのかもしれないが。
「魔力を大量に使って暴れたせいか、今は魔力源たちは落ち着いていて、ここ暫く『声』は聞こえていない。でも一時的なもので、すぐにまた聞こえてくる。今度は何を囁いてくるのか私にも分からないけど、それに抗える気力はない。必死に自分を保つ意味がないもの。……そうまでして生きる意味が、母を喪った私にはもうない」
「だから、あなたはそこから――――」
――――飛び降りようとしているのですか?
その私の声無き問いを察したのか、彼女は静かに目を伏せた。
「元より私の時間は短い制限付き。言ったでしょう? 今は何とか抗う余地はあっても、きっともうすぐ完全に魔力源に乗っ取られる日が来ると。生きる意味もないのに、自分を喪う日まで怯えて生き続けるなら、自分が自分であるうちに、今すぐ自ら命を絶てばいい。……何より私はすべてを知ってから、自分を殺したくて仕方がないの」
「自分を、殺す……」
「私たちを騙していた研究所は憎いけど、私はそれ以上に、自分が憎くて堪らない。あんな偽りの手紙に縋って、母を追い詰め、人の人生を歪め、貴方を殺しかけた。自分が愚かで滑稽で、私は私を殺したくて仕方ない。それに私の罪はもう、己の死を持ってしか償えない。私が死ねば、体内の魔力源は消える。貴方の魔力源の場合は、すべて貴方の元に戻るでしょう。そうすれば薬の材料は失われ、もう禁断魔法を使える者もいない。多少なりとも、私が罪を犯した人たちへの償いになるし、研究所にも復讐できる」
――――――これだけ揃って、『私がまだ生きる理由』の方が、思いつかないわ。
矢継ぎ早に話し、彼女は最後にそう締め括った。
世界のすべてであった母親を喪い、どうせ自分の『意識の寿命』は僅かで、自分が居なくなれば償いも復讐も出来る。
そう彼女は結論付けて、今まさに死ぬために此処に居るのだろう。
私はそんな彼女の『死ぬための言い分』を聞いて……またザワリと、胸が黒く波打った。
だけどこれは、先程の憎悪だらけの感情とはまた少し違う。
この感情は。
「…………これが、私の口から貴方に伝えられるすべてよ。話し終えたし、私はそろそろいくわ」
柊雪乃さんの視線が、遥か下にある地面に向けられる。フェンスの向こうに立つ彼女の姿が夕闇と共に揺れて、私はいよいよ這い寄る死の気配に、息を詰めて身体を硬直させてしまった。
まるであの錆びついたフェンスが、生と死の境界線のようだ。
私は彼女に言うべき言葉があるのに。
言って、彼女を――――止めなくちゃいけないのに。
そんな思いに反して、私の指先や唇は、ピクリとも動いてくれない。またもや私は、彼女が纏う独特の空気に呑まれかけてしまっている。
今まさに、死と生の狭間にいる人間の、何者も寄せ付けないその空気に。
「最後だから言うわ。野花三葉さん、それに私が魔力を奪ったすべての人たち、そして母へ。謝って許されることじゃないけれど…………ごめんなさい」
「っ!」
「本当に、どうしてこんなことになったのかしら。私はただ、母の役に……ああ、違う。母に喜んで欲しくて、ああ、これも違うわ。私は、私はただ……っ」
彼女が、ぐっと額を強く押さえた。
自分の最後の最後に、ついに沈めたはずの心が、水底から一気に浮かび上がってきているのだろうか。
彼女の瞳や表情に、はっきりとした感情の色が映り出している。
――――――そこで、まるで図ったかのようなタイミングで、ビュッと一陣の風が屋上に吹き抜けた。
彼女の白銀の髪が翻り、夕闇に光の粒子を散りばめる。赤と紫の空模様に、金色が弾ける幻想的な光景の中。
彼女は。
「――――母に……お母さんにっ、『雪乃』と名前を呼んで、もう一度笑いかけて欲しかっただけなのに……っ!」
まるで幼子のように、泣きそうに表情を歪め。瞳を後悔の念や諸々の感情で揺らしながら。震える声で、そう言った。
それは確かに私が初めて見た――――――『柊雪乃』という人間のすべてで。
そして彼女はその嘆きを吐き出したと共に、フェンスから手を離し、身体を前へ傾けた。