40 夕闇の遭遇
化学室から出たあと、私は素直に寮に戻る気になれず、学校に住まう幽鬼のように、ふらふらと宛てもなく校舎を彷徨い歩いていた。
先生との約束を破る罪悪感はあったが、思考することに疲れ、体が勝手にそんな行動を取ったのだから仕方がない。
一体どのくらい、そうしてフラついていたのか。
知らぬ間に来ていた訓練棟の三階。その廊下で立ち止まり、ふと窓ガラスを見れば、空には不気味なほど赤い夕陽と紫色の闇が、見事なコントラストを描いていた。
周囲に人の気配はなく、文化祭準備はとっくにお開きになったらしい。ぼんやりとしていた意識が戻ってきたことで、広がる静寂にようやく気付いた。
私が無意識にここに来たのは、少しでも賑やかな日常の空気に触れて、胸に巣食う靄を一時でも払いたかったからだろうか。
心の何処かで、重い現実を忘れられる逃げ道を求めていたのかも。たぶん私は誰でもいいから、くだらない話をして、いつも通りの明るい三葉でいさせて欲しかったのかもしれない。
こんなことを考える辺り、先生の言うように、私の精神はわりとギリギリだったようだ。
でも、こんな時間じゃ誰かに会うこともない。一人きりの学校というだけで、余計に物悲しい気持ちが湧きあがってくる。
問題は、まだ幾つか残っているんだ。明日からまた、やらなくちゃいけないことも、頑張って立ち向かわなくてはいけないことも、沢山ある。私にはあまり時間はないのだから。
しっかりしなきゃと、私は自分に言い聞かせながら、今度こそちゃんと寮へ帰るために足を踏み出した。
その時。
「――――三葉っ!」
「え……」
聞き慣れた声がしたかと思えば、背後から誰かが荒々しく走ってくる音が聞こえた。
ぶっきら棒で、だけど何故か耳に馴染む、心地の良い低い声。
振り向けばそこには。
「き、とら?」
「――――こっ、のグズ! 今まで何処ほっつき歩いてやがった!」
長い足を動かして一気に私の前まで来た彼は、開口一番。ギラつく金の目で私を睨みながら、吠えるようにそんな言葉をぶつけてきた。
訳が分からず、私は目を白黒させてしまう。だけどすぐに、いつもの調子で反射的に言い返していた。
「なっ、何なの急に! いきなり現れてそれって……大体、グズって言うなってあれほど!」
「うるっせぇ! こっちはな、お前が呼ぶから、わざわざ魔法使用許可まで取って、クラス練習に顔出してやったんだ! なのに、肝心のテメェが居ないってどういうことだ!?」
ん? と、私は一瞬、何のことかと首を傾げたが、彼の発言に心当たりがあることを思い出した。
そういえば私は今日、生徒会室や化学室に行く前に、木の上でお昼寝している樹虎の元に立ち寄ったんだった。確かそこで、彼を文化祭練習に来るように誘って……あれ。
「クラスの連中は、テメェは体調不良で寮に帰ったって言うから、文句の一つでも言おうと寮で梅太郎の爺に聞けば、テメェは帰って来てねぇって言うし。学校のどっかで倒れてんのかと思って、わざわざ探しに来てやってみれば、こんな処でぼうっとしやがって! テメェは脳内までトロいのか! このグズ女!」
後半は聞き逃せない罵詈雑言だが、私は樹虎の発言を噛み砕くのに、鈍くなっている頭を必死に使っていて言い返せなかった。
えっと、まず樹虎は、私が誘ったクラス練習に参加しようとしてくれたと。でも私が体調不良で(これは先生の嘘だけど)居なくて帰ったら、寮に私は戻って居らず、何かあったのかとここまで来てくれて……。
「つまり樹虎は――――私を心配して、探し回ってくれたの?」
よく見れば、彼の赤髪は、汗で濡れた首筋に張り付いている。秋の夕暮れ時で肌寒いはずなのに、白い長袖のシャツは捲し上げられ、彼の鍛えられた腕が外気に晒されていた。
もしかして、もしかしなくても。
私を見つけようと、樹虎はこんな時間まで、この広い学校中を走ってくれたんだよね。
「……お前に文句言うためだって言ってんだろ」
樹虎は苦虫を噛み潰したような顔でそう返したが、さっき勢いで、『学校のどっかで倒れてんのかと思って』と零したことを、私はバッチリ聞いている。
体調が優れずに帰ったはずなのに、何処にもいない私を心配してくれたのだと、素直にそう言えばいいのに。
そんな不器用な『いつもの樹虎』の様子に、私は堪らない安堵感が込み上げてきた。
つい先ほどまでの鬱屈とした思いも、耐えがたい寂しさも、暖かい火に当てられて氷解していく。彼の燃え盛る髪が、今の私には、極寒の中で見つけた大切な火元のように感じて、私は自然と安心しきった笑みを浮かべていた。
「おい、そのニヤけた面をやめろ」
「んー、それはちょっと無理かな。樹虎が私のペアで本当に良かったなーって、しみじみ思ってるとこだから」
「はぁ?」
意味が分からんという目で見られたが、こんな他愛のないやり取りですら、今の私には大切な日常の一部だ。
樹虎に「ごめんね、あとありがと!」と溌剌と言えば、彼は物言いたげに口を動かしたが……諦めたのか、ハァと息を深く吐き出した。
「……元気じゃねぇか」
「ん? なんか言った?」
「何でもねぇ、帰るぞ」
……まぁ、聞こえてたけどね。
本当に、私のペアが樹虎で良かったよ。
迎えに来たはずの私を抜いて、彼はさっさと先に行く。その後ろ姿が、のそのそと歩く大型の肉食獣のようにも見えて、私は忍び笑いを小さく廊下に響かせながら、その背を追った。
「待ってよ、樹虎! 走って疲れてるなら、どうせなら一緒にゆっくり―――――」
彼の横に並ぶ数歩前。私は不意に視界に入った窓の外を見て、出かけた言葉を呑み込んだ。
「え……?」
足を止め、真正面から窓に向かい合えば、それが私の見間違いではないことが分かった。
――――――向かいの棟の屋上に、薄らと人影が見える。
しかも危険極まりないことに、その人影が居るのはフェンスの向こう側だ。
向かいの棟はこの棟より高さが低い。遮る障害物もなく、三階のここからは、わりと屋上の様子がはっきりと確認出来た。
あれは、どう見ても人間だ。
慌てて窓を開き、身を乗り出して目を凝らせば、それが夕陽を受けて輝く白銀の髪の…………副会長さんであることが分かった。
さすがに表情までは見えないが、遠くからでも分かるくらい、何処となく様子がおかしい。
そこで私の頭には、先生から最後に告げられた言葉が唐突に蘇った。
『ただ、その、彼女の母親は――――――数日前に、亡くなられたそうだ』
「っ!?」
まさか。まさかまさかまさか。
頭の中を、一瞬にして様々な想像が巡る。
このシチュエーションはどう考えてもヤバイと、ガンガンと警鐘が鳴っている。
まさかとは思うけど、彼女は今まさに、『母親のあとを追おう』としているんじゃ……?
クルッと、脳が決断を下す前に、私は踵を返した。そして、一目散に駆け出そうと足を踏み出す。
本能が急げと命令する。とにかく今すぐ彼女の元へ行かなくては、手遅れになると。
「おい、何処にいくつもりだ!?」
そんな私の腕を、樹虎が強く掴んで引き留めた。彼からしてみれば、やっと見つけた私が急に逃走しようとしているのだから、当然の行動だ。
「樹虎、離して! あれ見てよ、あれ!」
「あれ……?」
訝しげに私の指差す方を見た彼は、結構視力には自信のある私より、さらに目が良いようで、すぐに副会長さんを見つけて状況を把握したようだ。
驚いたように、金の瞳を見開いている。
「私、止めなきゃ! 今すぐ行って、彼女を止めなきゃ……!」
「落ち着け! あれはお前の知り合いか?」
「そういうのじゃないけど……私は、彼女と話す必要があるの! とにかく、今すぐ行かないと手遅れになるかも……!」
気持ちばかりが逸り、焦りが着実に募っていく。樹虎はまだ腕を離してくれなくて、私はその場から動けない。
向かいの棟まで、しかも屋上に向かうとなるとかなり距離があるのだから、一刻も早く走り出さなきゃいけないのに。
「探してくれたのに本当に悪いんだけど、樹虎は先に帰って! 私は何とかあの人のところへ……!」
私がほとんど叫ぶようにそう言えば、彼は「チッ」と短く舌を打ったあと――――手を離すどころか、何故か私の腕を強く引き寄せた。
「うぇ!?」
ポスンッと、そのまま引力に従い、私は彼の胸へと体ごとダイブした。ふわりと眼前で赤が揺れ、仄かな汗の香りが鼻孔を擽る。
そして、腰の辺りに腕を回され――――
「な、何してんの!? 何してんの樹虎!?」
「間近で騒ぐな。急いでんだろうが!」
片手で私をグッと力強く抱き寄せたまま、彼は開きかけの窓を、乱暴に全開まで開け放った。白シャツに頬を押し付けたまま、視線だけを動かせば、窓の向こうの夕焼けの中に、変わらずフェンスを超えた側で佇む副会長さんの様子がチラリと見えた。
私の状況処理が追いつかないでいるうちに、樹虎は空けた窓枠に、グッと片足を乗せる。
え、ちょ、え?
「ね、ねぇ、樹虎……何するつもり……」
「あ? あそこまで飛ぶんだよ」
「飛ぶ!?」
何言ってんだこの不良は!?
「ここ三階だよ!? 無理だよ、何言ってんの!?」
「浮遊魔法の応用と、風の属性魔法の合わせ技で、短時間・短距離なら飛べるんだよ。あそこまでくらいなら一気にいけるだろ」
「いけない! 私の気持ちがもういけないよ!」
心実といい、魔法能力に秀でたやつはどうしてこうも、私に難易度が高すぎる魔法を披露したがるんだ。急がなきゃという焦りは吹っ飛んで、今の私には恐怖心しかない。
下を見れば地面が遠くて、頭がクラッときた。
「暴れんなよ。あと、しっかり服でも腕でも掴んでろ。俺も絶対離さないから、お前は怖かったら目でも瞑ってやがれ」
私の静止など意に介さず、彼が耳元でそう囁く。私は内心では覚悟なんて出来てはいなかったが、不覚にも、彼のそのやけに自信に満ち溢れた声に、怖いとか無理とかそんな感情が薄れてしまった。
もうどうにでもなれ……と、半ばヤケクソ気味で、彼の胸元のシャツをぎゅっと握り、私はキツク目を閉じた。
「し、信じてるからね、樹虎! もうさっさと勢いよく行っちゃって!」
ハッと彼が鼻を鳴らす。次いで、行くぞ――――という、樹虎の合図が鼓膜を震わせたと同時に、体から重力が消えた。
「っ!」
バサバサっと、服だか髪だかが、唸る風にはためく音だけが聴覚を支配する。叫びたくなる欲求も耐え、唇を硬く結んだ。
宣言通り、彼が私を強く抱き寄せる腕だけが、心の安定を辛うじて保っている。
今どんな状態なのか、想像することも怖くて、私は瞳を決して開かず、ひたすら樹虎にしがみ続けた。
そして。
「―――――おい、着いたぞ」
実際は何秒単位なのだろうが、何時間にも感じられた暗闇の中。
彼の声に誘導されるように瞼を押し上げれば、やっと、私は地面に足をついていることに気付いた。樹虎の腕が、まだ私の腰にあることにも一緒に気付き、慌てて距離を取る。
たたらを踏みながら、視界をぐるりと回せば、灰色のコンクリートの地面や、薄汚れた給水塔。錆びついた赤銅色のフェンスが飛び込んできた。
そして、そのフェンスの向こう側には――――
「……柊、雪乃、さん」
―――驚いているのかすら判別し辛い、何も映してない空虚な瞳で、私をじっと見つめる彼女が居た。
「こんにちは…………野花三葉さん」
化け物の口の中のような、毒々しいまでの夕闇を背負ったまま、彼女は……私を突き落とした犯人は、そう唇を震わせた。