2 暗転
あの後、私は気持ちが落ち着くまで、しばらく段差にしゃがみ込んでいた。
結局サインを貰えなかった日誌を提出しに、再び草下先生のところへ行くには、心の回復が必要だったからだ。
雨は窓を叩きつけるように降っており、このままさらに強まっていくだろう。動くのはかなり億劫だったが、そろそろ帰らなければびしょ濡れになる可能性が高くなる。それに、早く寮に帰って癒されたいとも切望していた。寮には私にとっての絶対的癒し存在が二人(正確には一人と一匹)いるのだ。
寮監の梅太郎さんと、猫のシラタマだ。
梅太郎さんは優しいおじいちゃんで、私を「三葉ちゃん」と名前で呼んでくれる、この学校で唯一の貴重な存在だ。私の鬱憤が溜まりに溜まったとき、一緒にお茶をしながら愚痴を聞いてくれる、私の心のオアシスなのだ。
そして猫のシラタマは、寮の裏で倒れていたところを助けてから、たまに私の部屋に遊びに来るようになった可愛いやつだ。野良猫のわりには純白な毛を持つ美丈夫で、私が今日のように落ち込んでいる時ばかりやって来る、不思議な猫なのである。
そこで私はふと、シラタマがもし来ていたら、雨の中で待っているのではないかと思い当たった。
こうしちゃ居られないと、スカートに埋めていた顔を勢いよく上げ、日誌を持って立ち上がる。
「あっ」
しかし勢いが良すぎたのか、髪につけていた飾りピンが外れてしまった。クローバーを模したピンは、親友がくれた大切な物だ。それが一番下の段まで転がっていってしまった。
こういう時、魔法でちょいっと拾えれば楽なのだが、この校内では許可なく魔法の使用は出来ない。生徒全員に、入学時に魔封じが施されているのだ。これがないと、余計なトラブルを生んでしまうからだそうだ。魔封じをされる前に、盛大に魔法バトルを繰り広げた二木君なんかが良い例だ。授業時や申請して許可さえ下りれば使用は可能なので、まったく普段から使えないというわけではないが。
……ちなみに、三ヶ月で私がまともに取得した魔法は、初級の初級である移動魔法だけだ。
私は溜息を飲み込んで、まずはピンを拾おうと足を踏み出した。
――――そのとき。
どんっ
「え……?」
背中を押された感触に、突然の浮遊感。
急速に変化する視界に、次いで襲う体のあちこちを強打する痛み。
私、誰かに突き落とされた?
かろうじて脳がそう判断した瞬間に、頭を打ち付ける嫌な音が脳内を揺らした。どうやら私は、誰かに突き落とされ、無様に階段を一番下まで転がり、頭を床か段差に強く打ち付けたらしい。
視界が霞んで、意識が遠のいていく。
「な、んで……」
――――――最後に私の瞳が映したものは、階段の上の暗闇に浮かぶ、突き出された真白い手だけだった。
♣♣♣
そこは一面が白い世界だった。
ぼんやりと目を開ければ、、私は何もない白で埋め尽くされた空間で、ふわふわと浮いていた。
体の痛みもなければ、打ち付けたはずの痣もどこにも見当たらない。自分の状態を確認して、ようやく私は気づいた。
これ、私は死んだんじゃないか、と。
誰かに階段から突き落とされ、頭を打ったろころまでバッチリ覚えている。頭蓋骨まで響くほどの衝撃だったから、打ち所がかなり悪かっただろうことも。
「そっか、私、死んじゃったのか……」
口に出せば、じわりと胸に広がる苦い感情。
確かに高校に入学してから、死にたくなるほど辛い日々ばかりだったが、何も本当に死にたいと思ったことはなかった。それなのに、こんな理不尽に私は命を奪われ、世界からログアウトして行くのかと思ったら、私の胸に浮かんだのは『後悔』の二文字だった。
こんなところで死ぬのだとわかっていたら、もっと好きに生きたのに。
あの腹立つ団子三姉妹にも、無茶苦茶な鬼畜眼鏡教師にも、調子のりまくりの赤髪不良にも。そして私を邪険に扱ってきたクラスメイトやその他のやつらにも、もっと言い返したり反撃したりしてやればよかった。
もしもう一度生き返れるのなら、今度こそ、私は自分らしい自分で生きてみたい。
大好きな親友や、愛する家族。このクソみたいな学校で唯一好きな人間だった梅太郎さん。可愛い可愛い猫のシラタマ。そんな私の心の支えだったみんなに、恥じない私でいたい。
そして今度こそ私は後悔しないように生きて、自分が四葉のクローバーになるための幸せを、自分の手で掴みに行くんだ。
だから。
「私は、もう一度生きたい……っ!」
そう、心の底からの叫びを口にしたときだった。
「それなら、あと少しだけ、この世界で生きてみるかい?」
急に視界を覆うように光が弾けたと思ったら、いつのまにか私の目の前には、羽を生やした真白な毛並みの猫――――シラタマがいた。