18 夕暮れの訓練棟にて
開いたドアから現れた存在。それは――――
「わふっ!」
「え……」
――――予想外すぎることに、まさかのポチ太郎であった。
「な、なんでポチ太郎がここに!?」
私は慌てて、素知らぬ顔で部屋に侵入した、ピンクの毛玉のもとに駆け寄る。近寄ってしゃがめば、ポチ太郎は尻尾をぶんぶんと振って、私の胸へと飛び込んできた。
それを受け止めて、私は痛む頭で問い掛ける。
「もしかして、また抜け出したの……?」
私の言葉がわかるのか、ポチ太郎は何処か誇らしげに「わふっ!」と鳴いた。やはり化学準備室から再び脱走して来たらしい。…………昨日の今日で、どれだけ杜撰な管理体制をしているんだ、あの鬼畜眼鏡は。
「ダメだって。誰かに見つかったら大変なことになるよ?」
「わふふ?」
「いや、わふふじゃなくて……って、あれ?」
私はそこでようやく、彼が何かを咥えていることに気づいた。
見覚えがあるような物だったので、ポチ太郎に離すように言えば、彼はあっさりそれを私の手の上に吐き出してくれた。
掌で光る、銀の塊。
やっぱりこれって……。
「――――おい、このボケ犬。とっとと俺から盗んだものを返しやがれ」
バンッと強い音を響かせてドアを蹴り開け、突然登場したのは二木君であった。額には青筋を浮かべ、大変ご立腹なご様子である。
その耳には、いつも付けているイヤーカフスがなくて。やっぱりこれは二木君の物かと、私は手の平で輝くそれと彼の耳を交互に見比べた。
「わふっ、わふっ!」
「っ! てめぇ、待て!」
ふわっと私の腕から浮かび上がったポチ太郎は、次の瞬間、瞬きの合間にシュンッと音を立てて姿を消した。
おそらく、転移魔法で化学準備室に戻ったのだろう。
……思ったのだが、先生は昨日、「ポチ太郎が逃げ出すのは今回が初めて」みたいな発言をしていたが、あれは先生が気付いていないだけで、ポチ太郎はわりと頻繁に脱走していたのではないだろうか。
やつなら、先生がいない時間と戻ってくる時間を見極めて、誰にも見つからず、散歩でもして戻ってくるくらいの芸当は出来そうだった。首輪もきっと、外すことも付けることも自由自在に違いない。
お馬鹿そうに見えて意外と(魔法が使える時点ですでに)スーパードッグなので、この推測は正しいのではないかと思う。
まぁでも、今はそんなポチ太郎の只者じゃなさについて考えている場合ではなく、「あいつ、人の物を持ったままどこ行きやがった……!」とキレている二木君を、なんとかするのが先決だ。
「落ち着いて、二木君。イヤーカフスはここにあるから」
「……あ?」
そこで初めて、彼は私の存在に気付いたようで、こちらを見て微かに目を見開いた。
「ちょっとヨダレでべたべただけど、これ二木君のだよね? さっきポチ太郎が私に渡していったの」
常備しているティッシュで包み、二木君に差し出せば、彼は何故か若干気まずそうに、無言でそれを受け取った。
それから二人の間に訪れる、謎の沈黙。
き、気まずいんですけど。
彼に会ったら言いたいことはいっぱいあったのに、上手く言葉が出てこなくて、私は口を開けないでいた。
「……おい」
「ふぇい!?」
意外なことに、声をかけてくれたの二木君の方だった。私は完全に不意を突かれ、喉の奥から変な声を漏らしてしまい、彼に怪訝な目を向けられた。止めて、そんな目で見ないで。
「…………今日はあのチビはいないのか」
「チビ……? 心実のこと、かな? 彼女は今日は委員会でいなくて、私一人だよ」
「……そうか」
自分から聞いた癖に、彼の返答は味気ない。
私はここから何とか話を続けようと、思いついた話題を必死に提供する。
「そ、それより二木君、大変だったね! ポチ太郎に悪戯されて。私もピンを取られたことがあるけど、あ、それは二木君のおかげで助かったあれね! あの子逃げるの上手いから、捕まえるの大変だったでしょ。かなり走らされたんじゃない?」
「は? 俺は別に、すぐそこをうろついていたら、急にあいつが現れただけで……」
「え?」
すぐそこって、この部屋のドアの前?
ぐっと、何かに気付いたように、彼は言葉を呑み込んだ。もしかして、来てくれたはいいけど入るに入れず、ドアの前でうろついていたら……なんて。さすがにそれはないかな。
彼はこれ以上の追及は許さないといわんばかりに、「っつうかよ」と話題を変えてきた。
「……お前、あの教師に啖呵きってたけど、勝算はあるのかよ」
「えっ、しょ、勝算?」
「ランキング入り出来る作戦でもあるのかって聞いてんだ」
仏頂面で痛いところを突いてくる二木君に、私は曖昧な笑いを返すしかない。基本的に、現状は根性論の私に、勝つための算段なんてそんな大そうなものはないのだ。
ただ――――
「そういうのはないけど……どうせ先生に自分の力を示すなら、有無を言わせないくらいの結果を残した方がいいかなぁって。もちろん、欲しい物があって、駆け引きのために持ち出した話ってのもあるけど。……それに」
「それに?」
「私、今まで魔法の練習とか、本気でやったことなかったんだよね」
――――――私ははっきり言って、今まで魔法が好きではなかった。
魔力なんて手に入れたせいで、親友や家族とは引き離されて、こんな遠くの山奥の学校に入れられてしまったし。弱い魔力のせいで、クラスメイトに嫌厭され、先生にはあらぬ疑いを持たれてしまった。
正直、今でも魔法は好きではない。
でも最近は、心実と特訓することで、ほんの僅かだが魔力は向上した。今だって、物質操作魔法はからっきしだが、それでも習得できる可能性が0というわけではない。
……私はたぶん、入学してから今まで、「もとから魔力が低いから仕方ない」と、頑張ったふりをして最初から諦めてきていたんだと思う。
その結果が、先生の疑いに拍車をかけることになったのだから、笑えない話だ。
「だからいい機会だしさ、人生に一度くらい、ランキング入り目指して、本気で魔法に向き合ってみてもいいかなーって」
「人生って……大げさだな」
「そうかな?」
まぁ、あながち誇大表現でもない。どうせ限られた時間なら、一度くらい、本気で苦手なことに取り組んでみるのも悪くないだろう。
「どうせ喧嘩売っちゃったなら、負けたくないしね。…………そういうわけで二木君にも、ペアとして特訓に協力していただけたらな、と思うのですが」
どういうわけで? と突っ込まれそうだが、私はここぞとばかりに本題を彼に切り出してみた。窺うように、二木君の顔をじっと見つめる。
一呼吸おいて。
部屋の窓から差し込む夕陽に負けないくらい、真っ赤な髪を掻いて、彼は深々と息を吐き出した。
……なんだか駄目そうな雰囲気だ。やっぱり私とこれ以上深く関わる気はないのか、それともペアでの出場辞退、足手纏いだと断られるのか。
いや、それでも何とかもう少し頼み込んで……などと私が考えていたら、彼は急にスタスタと、部屋の真ん中に向かって歩き出した。
私がハテナマークを飛ばしている間に、彼はモップの前に立ち止まり、「おい」と私を呼んだ。
「――――とりあえず、どんくらい魔法が出来るかやってみろ」
「へ」
「……見ててやるからやってみろって言ってんだ」
え、え?
「と、特訓に付き合ってくれるの?」
「…………いいからやれ。やらねぇなら帰るぞ」
「あ、待って、やる、やります!」
私は急いで二木君のところへと走り寄る。
いつものように、彼は不機嫌そうに顔を顰めていたが、私は小走りしながら小さく笑ってしまった。
これは、私と彼のペア関係も一歩前進か?
「これから改めてよろしくね、二木君!」
「おい、調子乗んな。ひとまずてめぇの酷い魔法の実力を見るだけだ」
「見てアドバイスくれるんでしょ? それってもう、特訓に付き合ってくれてることになるよね。あ、もちろん、試合の方も私とペアで出てくれる感じで……」
「いいからやれ!」
怒られてしまった。
でも私はなんだか段々、彼の本当の性格が分かってきた気がして、笑いを堪えることが出来ない。
少しだけ試合に対する希望も増えて、私はハイテンションで彼との特訓を開始したのだった。
…………が。しかし。やはりまだまだ彼との距離は遠いようで。
「てめぇ、何でこんな魔法もろくに出来ねぇんだ! このグズ!」
「なっ! グ、グズって呼ばないでって言ったじゃん! だいたい、二木君ももっと分かりやすい助言くれても良いと思うけど! すぐ怒る癖も治しなよ!」
「あぁ!? まともな魔法も使えねぇくせに、人に文句言ってんじゃねぇぞ、グズ!」
「また言った! このクソ不良!」
でも一応、喧嘩できるくらいには進展したということで。ようやく、私と彼はペアとして活動を始められそうです。