1 これが彼女の日常でした
「野花さん、悪いんだけどこれ全部チェックして、先生に届けといてくれない?」
どさどさと、机の上に降り注ぐプリントの数々。私は突然のことで状況が呑み込めず、見下ろしてくる彼女たちの顔をまじまじと見つめた。
時間は放課後。意気揚々と帰り支度をするクラスメイトを横目に、私は日誌を書いていた。本来は日直はペアでの仕事だが、私の相方の不良君が仕事なんてするはずなく、私は朝から一人で日直当番をこなしていた。珍しく授業に出席していた彼が、此方を見ようともせずさっさと帰ったせいで、最後の最後まで仕事をさせられている。
だけど、これさえ終われば寮に帰れるのだ。
そう思って、必死にペンを動かしていた時だった。
「実は私達、このあと部活の大事なミーティングがあるの。もう時間なくて」
「野花さん、部活も入ってなくて暇でしょ? お願い」
「このくらい頼まれてくれるよね?」
高圧的な物言いは、到底、人に頼む態度ではない。
私の机を囲むように、急に現れたこの女子三人。こいつらは、クラスの女リーダー的存在だ。三人でお揃いのお団子をしていることから、私は密かに団子三姉妹と呼んでいる。
「あの、でも私、日直の仕事がまだ……」
「え、なに? 聞こえない」
「あ、ううん。わかった……よ」
聞こえてないはずねーだろ!
そう思いながらも、反論出来ず了承してしまう。しなかった後を考えるのが怖いからだ。
「マジ? ありがとー」
「ね、早く行かなきゃタクトのライブ生放送始まっちゃうよ!」
「早く部屋行かなきゃ!」
慌ただしく短いスカートを翻して、彼女たちは去っていた。
「部活のミーティングじゃないわけ……」
わかっていたことでも、頭が痛くなる。ちなみに、彼女たちに何かと仕事を押し付けられるのは、もう週三くらいの恒例行事だ。
いつかそのお団子に串刺しちゃる!
そんなことを思いながら、今日も私の仕事は増えていった。
♣♣♣
「このプリントは確か、水村たちに頼んだはずだが。なぜ君が持ってくるんだ? 野花三葉」
パイプ椅子に足を組んで座りながら、鋭利なナイフのような眼差しを向けてくる先生に、私は返す言葉もない。
場所は化学室。魔法と化学の関係性について、実験を交えて勉強する特別教室である。ここを根城にしている白衣姿の彼は、化学教師で私の担任の草下恭一郎先生だ。
スマートな体躯に、些か神経質そうだが、バランスのいい整った顔立ちをお持ちである。女子の羨むサラサラヘアーは、見事な銀髪。長い前髪がノンフレームの眼鏡にかかり、そのガラス越しでは、深海を想起させる深い青の瞳が色彩を放っている。
ちなみにこのファンタジー的な配色は、彼が外国人だからとかではない。
魔法適正のある人は、髪の色や目の色が変色するのだ。
実は私だって、もとは純度100%の日本人らしい黒髪黒目だったのに、今の髪は薄いピンク、瞳は琥珀色だ。
変色したのは、忘れもしない悲劇の中学卒業式の日。目が覚めたらこの配色になっていた。ちなみに動揺しまくった私は、卒業式をすっぽかして何故か美容院に真っ先に駆け込んだ。何を喋ったかは定かでなく、知らぬ間に肩よりあった髪を切られ、現在のようなミディアムボブにされたのは記憶に新しい。
そして、金や銀の色は、魔力が強い証拠だ。
つまりこの草下先生は、イケメンで頭もよくて魔力も強い。非常に(主に女子に)人気の教師なのだ。
しかし、私はこの先生が大の苦手である。理由は明白だ。
「その、忙しいらしい水村さんたちから任されまして……」
「忙しいからと頼まれたら、君は何でも引き受けるのか? はっきりと意思表示しないから、そんな風に押し付けられるんだぞ」
「あの、でも、先生に日誌を届けるついでにならと……」
「私が頼んだのは彼女たちだ。君のしていることは彼女たちのためにもならない。君は、もう少し考えて行動した方がいい。大体、この日誌にも不備がある」
提出したばかりの日誌を開き、先生は長い指先で、トントンと一点を指す。
「ここに、ペアであるはずの二木のサインがない。日直はペアでの仕事だろう」
「ふ、二木君がつかまらなくて……」
「日直のサインが揃っていない日誌を、提出するなど言語道断だ。二木ならこの棟の二階に上っていくのを先ほど見たから、今すぐサインを貰ってきなさい」
「え」
絶句である。この先生、絶対私に無茶ぶりだと分かって言っているに違いない。
私がこの先生を苦手な理由はこれだ。何故かこの人、私にだけ異様に風当たりが厳しいのである。
他の人のときはサインくらいでネチネチ言わない、割と融通の利く良い教師なのだ。なのに、私にはひたすら鬼畜。何かしでかした心当たりはない。初対面で嫌に冷たい目で見られたと思ったら、瞬く間にこの扱いだ。マジで私が何をした。
むしろ、彼に恨みがあるのは私の方だろう。
初登校時の公開処刑に、善良な生徒である私を凶暴な不良と組ませる、鬼の所業。「二人とも名前に数字が入っているし、二と三でちょうどいいだろう」と意味不明な発言をしたときは、眼鏡のツルを折るところだった。
「返事は? 野花」
「……………………はい」
けれど逆らえない私は、すごすごと日誌を持って、二木君を探しに行くことになった。
♣♣♣
廊下を暗い足取りで歩いていると、視界に窓の向こうの暗雲が映る。まんま私の心情そのものだ。季節は梅雨なだけあり、山奥ということも相まって、最近の天気はすこぶる悪い。私の憂鬱を煽ってきやがる。
けれど私は、二木君はすでに帰ったのではと期待もしていた。
この学校は敷地だけは無駄に広く、4棟が連なった構造をしている。
一棟は、通常の授業を受ける『普通棟』。
一棟は、各部の部室や規模のでかい購買のある『多目棟』。
一棟は、魔法の実技演習などに使う『訓練棟』。
そして今いるここが、特別教室が揃う『特別棟』だ。
二木君が行った二階には、音楽室や家庭科室など、不良には到底縁のない教室しかない。用事があったとも思えないし、すでに帰ってしまっている説が固い。いなかったならさすがに仕方ないと、あの鬼畜眼鏡も許してくれるだろう。
しかし、現実はとことん私を裏切ってくる。
「……居るし」
二階に続く階段の踊り場で、窓を眺める男が一人。見間違いようもない、ウルフカットの燃えるような赤い髪。後姿からでも均整の取れた体つきがわかり、その背中からは謎の威圧感を放っている。
確かにそこには、私のペアである二木樹虎が居た。
見つけてしまったら、話しかけないわけにもいかない。私は勇気を出して、無意識に足音を殺して階段を上った。
ちなみに私と彼は、入学してからもうほぼ三ヶ月はペアを組んでいるというのに、まともに会話が成立したことはない。彼には「俺に必要以上に近寄れば潰す」と、ペアが決定したその日に言われた。倦怠期のカップルでもここまで殺伐としてない。
「あ、の……二木くん……」
階段の上から二段目のところに立ち、十分に距離をとって声をかける。彼が緩慢な動作で振り向けば、チェーン付きのイヤーカフスがチャリっと音を立てた。向けられた顔は、目つきも悪くかなりの強面だが、それを差し引いてもイケメンだ。特に印象的なのは瞳。野性的な色を帯びた金の瞳は、一瞬で人の意識を奪う。
……けれど私は、その瞳にちゃんと映してもらったことがない。
「今日は、その……に、日直で。草下先生がサインを……あ、違う、えっと、日誌があって……」
ちゃんと伝えなきゃと思うのに、口が上手く回らない。彼を前にすると、私は必要以上に委縮してしまう。
要領の得ない私の態度に苛立ったのか、二木君が思い切り壁を蹴った。凄い音が響いて、私は大げさに肩を揺らしてしまった。
チッと短い舌打ちを落とし、彼がこちらに向かって歩いてくる。
冷や汗と動悸が止まらない。
彼が私の横を通り過ぎる。その際、私を一瞥した彼の目は、まるで邪魔な道端の雑草でも見るようだった。
そして、低く無機質な声で呟かれた言葉。
「俺に必要以上に話しかけんなっつったろ……うぜぇんだよ、グズ」
――――それだけを言い残し、彼は階段を下り、廊下の向こうに消えて行った。
「……」
彼が去った後も、私は暫くそこから動けなかった。
表紙が歪むほど日誌を持つ手に力を込め、油断すれば流れそうな涙を耐えるために、奥歯をきつく噛みしめる。泣かないことだけが、私の最後のプライドだった。俯く私の視線の先には、ちっぽけな自分の靴のつま先が見えている。
―――虚しくて悔しくて頭がぐちゃぐちゃで、今すぐにでも叫びだしたい気分だった。
本当に、私はいつからこんなふうになったのだろう。
中学の頃は、普通に友達もいて、学校は面倒くさいけど嫌いな場所ではなかった。もっと誰とでも普通に喋れたし、人に対して断ることもお願いすることも、普通に出来る人間だったはずだ。
私は、彼のあの瞳が怖い。まるで私が何の価値もない存在だと、そう思わせるように、私をまともに映さないあの瞳が怖くてたまらない。
思い出すとまた涙腺が緩んできて、誤魔化すように頭を振った。
今は、耐えるしかない。いつかきっと、すべてが上手くいく日が来るはずだと、自分に言い聞かせる。
それでも惨めな気持ちだけは拭えなくて、私は無意識に喉の奥から声を絞り出していた。
「ちくしょ……」
どこまでも矮小で弱々しい呟きは、降り始めた激しい雨の音にかき消された。