15 魔力覚醒薬
草下先生の突然の登場に、一番反応を示したのは、私でもましてや二木君や心実でもない…………犬モドキであった。
「わ、わふっ!」
鋭い声に驚いたのか、毛をぶわっと逆立てて、犬モドキは化学準備室の中に文字通り凄い勢いで飛んで行った。開け放たれた扉の向こうで、勢い余って室内の棚に思いっきり激突している姿が見える。そのままポテリと床に落下したため、さすがの私も心配になって室内に足を踏み入れた。
そして、真っ先に目に飛び込んできたのは、ぶつかった衝撃で、棚の上の重そうな段ボールがグラグラと揺れているシーンだった。案の定、それは重力に逆らえず落下する――――その下にいる、犬モドキに向かって。
「危ない!」
私は咄嗟に、犬モドキを抱きかかえて転がった。ドスンッと鈍い音が間近で聞こえる。そっと起き上がれば、すぐ側で段ボールの中身がぶちまけられているのが見え、ギリギリだったと胸を撫で下ろす。中身は大量の資料だったようで、小動物(?)が下敷きになれば無事では済まなかっただろう。
「わふ……」
復活した犬モドキも何処にも怪我はないようで、そこで安心した私は、やっと室内を見渡して―――絶句した。
「なんじゃこりゃ……」
電気がついていないため薄暗い室内は、こじんまりとしていて、大きな物は段ボールの載っていた棚くらいしかない。だが、そんなことは問題ではなく、問題なのは、壁一面が写真やポスターで埋まっていたことだ。
全部、犬、犬、犬。というか、犬モドキ。
室内は至るところに、犬モドキの写真や等身大の特注らしいオリジナルポスターが貼られていた。中には、犬モドキの成長記録らしいグラフなどもある。
これが、先生の隠したかったもの……?
唖然として二の句が継げないでいると、クールな表情を崩した先生が、勢いよく室内に飛び込んできた。
「無事か!? ポチ太郎……っ!?」
ポチ太郎? と私が首を傾げていると、私の腕の中の犬モドキが「わふっ」と返事をするように一鳴きした。先生はそんな犬モドキ(ポチ太郎というお名前なのか?)を見て、今度は心の底から安堵したように表情を緩め、私に駆け寄りぎゅっと抱きしめてきた…………ポチ太郎を。
「まったくお前は……! やんちゃなのもいいが、魔力制御首輪を外して逃げ出すなど、肝を冷やしたぞ。一体どこに行っていたんだ? ああ、毛が乱れているじゃないか! すぐに櫛で梳きなおさないと……!」
私の手からポチ太郎を奪った先生は、彼の全身を余すことなくチェックし始めた。普段の先生からは考えられないような、優しげな甘い声でポチ太郎に構い倒す様子に、私はどちらかといえばドン引きだ。
聞きたいことは山ほどあるのだが、話しかけたくない。
どうしようか……と逡巡していると、ドカッと鈍い音が室内に響き渡った。
音のした準備室の入り口の方を見ると、壁を蹴りつけたらしい二木君が、金の瞳を苛立ちで鋭くさせてこちらを睨みつけていた。
「おいコラ、このクソ教師。いいからさっさと全部説明しやがれ」
…………今日の二木君は、何だかとっても頼もしいです。
♣♣♣
ひとまず、私たちは一つの机の周りに集まって、椅子に座って話すこととなった。私たち三人と、先生が向かい合う形になり、先生の腕の中ではポチ太郎がグウグウと寝ている。本当に自由な犬だ。
「おい、まずこの犬はなんだ? なんで魔法なんて使えるんだ」
短気な二木君が、何の躊躇いもなく話を切り出した。目に見えてイライラしているが、彼は完全に巻き込まれた形になるので仕方がないとは思う。むしろ、ここまで付き合ってくれているのが奇跡だ。彼もやはり、この魔法犬のことは気になるみたい。
ちなみに、ここに飛ばされた経緯は既に先生には伝えてある。さすがにポチ太郎に対して怒るかなーと思ったが、彼は「やってしまったものは仕方ないな。緩い首輪を付けた私も悪い」と、酷く優しい手つきでもふもふの頭を撫でていた。ゲロ甘だ。その優しさの百分の一でも私に向けて頂きたい。
「なぜ君たちにそんなことを話さなくてはいけない、と言いたいところだが、事情を話さなくては君たちは納得しないだろう」
「当たり前だ」
「私も正直、化学準備室で秘密裏に飼っていたこの犬……ポチ太郎のことを口外して欲しくない。事情をすべて話せば、黙っていてくれると約束できるか?」
「約束するです」
二木君と心実が話を進めてくれ、先生は諦めたように深いため息をついた。そして、何故か私のほうに探るような視線を寄越す。私はその視線の意図が分からず、戸惑うように肩を揺らすことしか出来なかった。
「いいだろう、すべて話そう。不本意だが、ポチ太郎の危ないところを救ってくれた恩もある。…………まず君たちは、『魔法総合研究所』という名を聞いたことがあるか?」
私が何か反応を返す前に、横から「あ」と声が上がった。
「知ってるの? 心実」
「は、はいです。以前お姉さまにお話した、私の親友が魔法適性を検査してもらった、魔法の専門機関の名が、確かそれだったと思うです」
私は初耳だったが、心実の話に登場していた、便利な技術を持った機関の話は覚えていた。あれのことか、と納得する。
「そうだ。表向きは、魔法の可能性を追及するため、魔法分野の専門的な研究をしている民間の機関だ。だが、あそこには裏がある。あの機関は、国が定めた『魔法使用法』に違反するような、非人道的な研究をいくつも隠れて行っている。その主な研究の一つが――――非魔法適性者に、魔力を無理やり覚醒させる薬の開発だ」
「なっ……!」
私は驚きで声を上げた。二木君や心実も驚愕に顔を染めている。
「そ、そんな薬が本当にあるんですか?」
「長期に渡る実験を繰り返し、完成形に近いものが存在する。飲んだ者は、薬との相性で得られる魔力の強さに差はあるが、必ず魔法が使えるようになる。現にこのポチ太郎は…………もとは研究所の実験動物で、その薬の投薬によって魔力が芽生えたのだ」
「わふっ!」
元気よく手を上げたポチ太郎の、私と同色の琥珀色の瞳と目が合う。いつの間にか起きたらしい。
常識から外れた話だが、この犬が魔法を使うことを、私たちは身を持って体験している。それではさすがに信じざるを得ない。
「薬の名前は『魔力覚醒薬』。まだ広く出回っているわけではないが、一部では高額での取り引きも行われている。他にも実験用に、何も知らない魔法に憧れる少年少女に、薬を無料で提供等もしているようだ」
「その薬には、その……副作用などは無いのですか?」
「まだデータ収集の段階のはずで、無いとは言い切れない。個人差がでかいからな。今は少しは改善されていると思うが、試作品段階では、最初の被験者が記憶障害や精神異常を起こし、今もその後遺症に苦しめられているという噂も聞く」
心実の問いの答えに、私はゾッとした。そんなリスクのある薬を配るなんて、正気の沙汰じゃない。
しかし何故、先生はここまで詳しいのだ?
「……何でお前が、そんなにその研究所について詳しいんだよ」
二木君が憮然とした態度で、私とまったく同じ疑問を口にしてくれた。先生は一度ぐっと言葉を切り、心底忌々しいといった顔で、絞り出すような声で呟く。
「それは私が――――もともと研究所の研究員だったからだ」