不思議な梅の木
府城・安河府安河県を出て、いわゆる丝路を東へ三十里(15km)程度進むと、赤雁県という街に辿り着く。
丝路沿いの為に決して田舎ではなく、異国の気配も漂う美観の街ではあるが、大きな街ではなかった。県衙と市場、それから小さな茶楼と寺があるくらいの、平凡な街である。
赤雁県を出てしばらく東にゆけば藤峡なる谷間の関所に達する。しかし客桟の掌櫃によれば、関所を越えた先で土砂が崩れて、今は通れないとのことだった。
とはいえ土砂を退けるのに長くはかからぬだろうと人々は言うので、夏は回り道をせずに赤雁県に滞在することにした。
「何があるという街でもないから、寝転がるくらいしかやることがない」
夏は客桟の軒先にある長椅子に寝っ転がり、正面、寺の前の広場を眺めていた。石畳の美しい広場だった。
「長閑な日だ」
市場の酪餅──つまり羊の乳を使って作った胡餅をたらふく平らげた猫は、満腹のあまりひっくり返って、夏の腹の上で寝ている。
「これだけぽかぽかしていると、いわゆる『眠くなる』って感覚もわかる気がするな」
広場の中央には一本の立派な梅の木があった。連日暖かい日が続いたからだろう、薄らと赤く色付く花を咲かせている。
梅の枝を行ったり来たりする鵯を目で追っていると、1人の青年が木の側にやって来た。そして彼は何をするでもなく、そこで佇んだ。
「街に着いた時にもいたね、彼」
猫は尻尾をぶんと振った。寝ているので話しかけないで欲しいらしい。
「何をしているんだろう」
その晩、関所まで様子を見に行った商人らが客桟に帰って来た。
彼らが言うに、未だ関所は開かれず。近隣の益荒男たちが集まって、えっちらおっちら泥を取り除いている最中とのことで、思った以上に時間がかかりそうだという話をしていた。男たちは勇ましいが、如何せん牛が非力だと言う。
翌日、夏はいよいよ回り道をするべきかと地図を広げて、長椅子に寝っ転がりながらそれを眺めた。
しばらくする内にまた青年が現れて、梅の木の側に立った。そして何をすると言うわけでもなく、少しばかり首を垂れて、木の幹に体を向けている……。
ついに夏は気になってしまって彼に近寄ってみることにした。
すると彼は夏が近づいてきたことに驚いて、ハッと何かを隠すような素振りして振り返った。
「あっ、いやっ。お、お伺いして良いですか?」
「え?」
「栗色の髪をした、涙黒子のある、二重瞼の女性を見たことがありませんか?」
夏は小首を傾げた。
「その娘の名は春燕と申します」
青年が言うに、春燕は幼馴染であった。
春燕の家は貧乏である。それでも痩せた畑で何とか食い繋いではいたのだが、数年前の旱魃をきっかけに食えなくなって、1人、家族のために村を出て出稼ぎに行ったのだと言う。
半年後くらいに一度村に帰って来て『よい稼ぎ場を見つけた』と言い、そこそこの金子を家に置いた。数日ほど滞在して、また街へと戻ってしまった。
青年が会えたのはその時ばかりで、春燕は会話の中でここ赤雁県を稼ぎ場だと仄めかした。
青年はもう一度春燕に会いたいと思う一心で金を工面、それから一年経ってようやく赤雁県まで出てきたのは良いが、彼女の働き口が分からない。とびきりの美人であったから、茶楼で働いているのかと思ったけれど、そうでもない。
「まさか春を鬻いでいるのではないかと思ったのですが……。でもこのように小さな街では、そのような花街はありませんでした」
そうした花街はなかろうとも、街角に立って体を売る女はどんな街にもいるものだった。だが夏はそれに関して、口を噤んだ。
「果たしてどこに行ってしまったのでしょう」
夏はうーんと唸って、
「僕も気にしてみるよ」
翌日、やはり関所は通行止め。良い回り道もなく多くの商人が立ち往生。おかげで茶楼も客桟も大繁盛。街中響くは楼主と掌櫃の笑い声。
夏は朝から山門へと続く石段に座って、遠巻きに広場を眺めて青年を待った。何となく勘が働いて、梅の木の側で佇む理由を知りたかった。近づくと何かを隠すような素振りを見せたから、その幼馴染と待ち合わせしているわけではないと思うのだが……。
南風に吹かれて、緑の柳がそよぐ音を聴きながら待っていると、一刻(15分)も経たぬうちに広場に青年現れた。そしてやはり梅の木の側に立つと、じっと幹を見つめた。
広場には都合よく人がいない。というより、青年は人がいないことを見計らって現れる。
夏は抜き足差し足、そーっとそーっと青年に近寄った。彼は一体、幹を凝視して何をしているのか──。背中越し、そっと覗き込む──。
(……洞?)
幹に空洞。
その中に、なんと小さな、小さな生物がいる。
いや、生物というか、人である。
小人だ。
三寸(約10cm)の小人が洞の中の部屋で生活をしている!
寝台があって、木架があって、鏡台があり、書棚がある。
小人は火を焚き、湯を沸かし、そして茶を淹れた。
次いで木架から化粧道具を出すと、ぽんぽんと顔に化粧を施し始めた。
たまに手を止めては氷砂糖をころりと口の中に入れて、甘味を楽しんでいる。
ほっぺに手を当ててご満悦。茶を飲んでほっと一息。
呑気なものだった。
そしてその小人は栗色の髪をしていた。涙黒子もあるようで、二重瞼。美人であった。
「……うわあ!」
夏が目を点にして見つめていると、ついに青年は気がついて声を上げた。
「なっ、い、いつからそこにいたのですかっ……!」
「ああ、いや……。少し驚かせてやろうと思って」
青年は目を泳がせながら、
「……何か見ましたでしょうか?」
「え? 何かって?」
「い、いや。何でもありません。人の悪い旅人さんだなぁ、あはは……」
晩になって、夏は客桟の小部屋から青い月をぼうっと見上げながら、木の洞の住人について考えた。
(あれは花魄だろうな……)
花魄は一般に花の精とされる。
しかし獣の類でも、もちろんそういう人種でもなく、その正体は亡霊だった。
花魄は人の無念が凝縮されて現れるものである。そのことは恐らく、青年も知らないだろう。
きっと青年は、木の洞に見える謎の小人が現実なのか、或いは幻想なのか、その答えを求めて何度も梅の木の側に立っていた。もしかしたら気が触れてしまったのかも知れないと、不安だったのかも知れない。そして答えの出ぬまま洞を見つめたのだろう。
花魄は自殺者が出た花木に宿るものである。つまり、過去に誰かが梅の木で首を吊ったらしい。概して、その者の面相に似るものだった。
あの花魄は長い夢を見ている。生前に憧れた暮らしを、梅の木の中で再現している。未練がそうさせる。
何があって自死したのかは分からない。でも、梅の木で首を吊ったのは確実だ。
翌朝、客桟の掌櫃に問うてみた。
「ああ、そんなこともあったなあ。確かに、女が梅の木で首を括ってた! ありゃ酷かったな! 顔は紫で、糞が垂れ出ていた。何処ぞの女が分かったもんじゃねえが、二度と見るもんじゃねえな。寺の坊さんが吐きそうになりながら木から下ろしてたぜ。なっはっはっ。ありゃ酷え、ありゃ酷え」
そう言って上機嫌の掌櫃は、金を数えるのを再開した。
夏は梅の木の側に立った。そして三つの太陽が天に輝く頃、青年は広場に現れた。
「やあ。茶楼の茶商に聞いたのだけれど、君の探している春燕という子は、府に向かったらしい」
「え? そうなのですか?」
「糸取りの仕事を斡旋したと言っていたから、間違いない」
青年は笑みを浮かべた。心底安心した表情だった。
「そうなのですね。ありがとうございます。よかった。本当に良かった」
そうして青年は門の方へと向かって行った。府に向かうらしかった。
「……本当のことを言うべきだったろうか」
当たり前だ、と猫は乱暴に尻尾を振った。
その日の夕刻、関所は開通した。




