東の人
曹佾は自他共に認める苦労人である。
自ら苦労を買って出た覚えは無いが、何故だか苦労がついて回るのだった。それはもう、鮒の糞が如くである。
(やんぬるかな。思えば私の人生は苦労の連続であった……)
仙になったのも苦労が転じただけのこと。
曹佾はかつての皇后の兄である。つまり朝中に身を置いていた。
朝廷は腐敗の温床だった。無理が通って道理が通らぬ。賄賂の横行は当然で、あからさまな身内贔屓に、自分の匙加減で法を曲げる役人たち──。真面目な曹佾は常にそうした人間の尻拭いをしてきた。
しかし一番の悩みの種は血を分けた弟であった。仙となって久しいが、未だにあれほどの蠢材には出会ったことがない。
何処ぞの馬の骨とも知れぬ人妻に惚れたと大騒ぎし、商人から金銀財宝を巻き上げて勝手気儘に貢ぎに貢ぎ、目障りな夫にはあらぬ疑いをかけて投獄、それは酷くないかと周囲が諌めれば、ムキになって夫を処刑した。そうして妻が気鬱になると、ついに面白くなくなったのか、ぽいと捨ててしまった。
あれには堪えた。あの時ほどの恥を感じることは、もう二度となかろう。
その事があって曹佾は『権力など下らぬ』と憤慨。火を噴きそうなほどに激怒したのはその日が最初で最後であるが、とかく癇癪玉を破裂させた勢いで凡ゆる財産を捨てしまって、次いで朝廷に官位を返すと、喪服に着替えて山に籠った。
──恥だ! もはや狂った世界では生きたくはない。自らを畜生に堕とすことと同義だ。ならばこのまま死んだ方が良い。
餓死するつもりで瞑想を続けた。次第に空腹も便意も尿意も忘れていき、五感すらも朧げとなっていって、
(……ここは)
ふと瞼を開けると、白い世界にいた。
洞にいたはずだが、これはどういうことだろう。頭上に広がるのは鉛色の空、そこからひらひらと雪が舞い降りて、風が吹くと寒かった。
そして、少し離れた所に玉で出来たらしい見事な宮殿が見える。
(まさか私は極楽に来てしまったのだろうか……)
そのように呆然としていると、
『ひどい格好。まるで浮浪者じゃないか』
背後から話しかけられて、曹佾は振り返った。
少女が立っていた。歳は自分よりは歳下だと思う。二八、つまり16歳程度に見えるが、もしかしたら及笄にも至ってないのかも知れない。もちろん誰かは分からない。ただ、胸が切なくなるほどに寂しい目をしていた。
『私は死んだのでありましょうか』
問うと少女はうーんと小さく唸った。
『よく働いた人間はよく眠れる。よく生きた人間はよく死ねる。君はよく働いたが、残念ながらよく生きてはいない』
『よく生きるとは、何でしょう』
『思うがままに生きるということさ』
曹佾は目を瞬かせた。
思うがままに生きるとはどのようなことか。言っている意味は理解できるが、具体的にどう生きるのが『思うがままに生きる』という状態であるのだろう。
生まれてから勉強ばかりに身を窶していた曹佾には、真意を計りかねた。弟のように周囲を振り回して勝手気儘に生きよ、ということを言いたいわけではないとは思うが──。
『まずは腹ごしらえでもしたら? ここには桃くらいしかないけれど、丁度良い感じに熟したものが雪の上に落ちていたんだ』
──あの時、婉姈様に初めてお会いして凡そ一千年。私はまだ、思うがままに生きることの意味を理解できずにいる。
ならば、ここで鴸に殺されるわけにはいかない。婉姈様の教えを飲み込めぬまま死ぬのは不遜である。
鴸は星空を飛ぶ。腹のあたりから不気味に長く伸びた真っ白な人間の手は、曹佾の襟を掴んでいる。翼が空を切って進む。絶えずごおと風音が鳴っていた。
そして殺すのに十分な高さまで到達したと考えたのか、鴸はぱっと軽い感じで曹佾を放った。
「……ッ!」
曹佾は刹那に腰の剣を抜いて、鴸の掌に突き刺した。そのまま柄に掴まって耐える。
(運良く落ちずに済んだようだが、この先どうしたものか。いずれは振り落とされるだろう)
体が風に流される感覚、曹佾はほとんど水平になりながら必死に食らい付いていた。
(武芸に秀でたところでもあれば、そのままするすると手をよじ登り、鴸の胸を一突き出来ようものだが──)
幼少の頃から勉強に次ぐ勉強で剣の腕は鈍い。剣で得意なのはそれを振り回して踊る宴会芸くらいのもので、よよいと披露して鴸が喜んでくれるなら幾らでも舞うが、もちろん踊ったところで見逃してはくれないだろう。
つまり己に出来ることは一つ。根性で耐え続ける、ということだけだ。
(なあに、結局いつもと変わらぬではないか。今日まで粘り腰でやってきたのだから、何とかなろう)
そうして覚悟を決めた時、巨大な虎が夜空を駆けるのを見た。
「あれは開明獣」
見るのは初めてだが、間違いない。崑崙を守護する怪獣である。
噂通りに顔は9つ。老人の顔があったり青年の顔があったり女の顔があったり、中には癩を患っている顔があったりと様子は様々で、幾つかは牙を剥き出しにした厳しい虎の顔であった。背には夏が乗っているようだ。
9つの顔は揃ってぱかりと口を開けた。それぞれの口内から光が漏れて、そこから真っ赤な炎が噴き出す──と思われた時、夏が言った。
「火なんて噴いたら曹佾が焼け落ちるよ」
「ああ!? じゃあどうしろってんだ!」
「爪で切り裂くか、喰らうかだろうね」
鴸は開明獣の接近に気がついて速度を上げ始めたようで、あれよあれよと距離が開く。
「追いつかねえ。やっぱり火を噴こうぜ」
開明獣の炎は万里の先まで届く理外の炎である。
「老君の作った最高傑作が、あんな見窄らしい鳥に負けるのかい? 君は本当に老君に創られたのかな?」
「なにぃ?」
「頑張れ」
開明獣は一つ舌打ちをして、力強く空を踏み込んだ。まるで鴸へと続く透明な道でも敷いてあるかのように、まっすぐと、ぐんぐんと、勢いよく猛進、次第にその差が縮まる。
──そして開明獣は鴸に飛びかかった。鋭利な爪でその背を切り裂く。月を撫でるかのような勢いで黒い血飛沫が高く上がった。
夏は開明獣の背から身軽にとんと跳んで鴸へと飛び移ると、後頭部に単刀を深く突き刺した。とどめ、一瞬の早業。
それで鴸は死んだのだろう、突然に浮力を失い、褐色の羽を散らしながら落下し始めた。
「小狸!」
開明獣は即座に反応し、ぐんと空を蹴って夏を回収。癩の首が夏の腕を咥えた。そして一気に急降下、先んじて墜落していた曹佾を背に乗せる。
勢いそのままに地上に降り立つ。滑り込んだものだから塊のような砂埃が上がった。遅れて砂礫や岩の欠片と共に鴸が落ちてきて、どんと地面と衝突、血と羽とが四方八方に散った。
「……城壁の外か。街に落ちて騒ぎにならなくてよかった」
夏がほっと溜息をつくと、癩の首が咥えていた腕を放した。すとんと着地、肩を回す。
「乗り心地はどうだった?」
「ありがとう御座います。夢心地に御座いました」
曹佾が開明獣の背から飛び降りる。激しく揺られてふらふらするのか、軽く頭を抱えた。
「さすが科挙組。世辞が上手い」
「そればかりで科挙を突破して御座います」
開明獣はしゅるしゅると姿を小さくして毛長猫の姿に戻った。あんまり巨体のままでいると腹が減ることに気がついたので。
「一件落着。これで街は落ち着きを取り戻すかな?」
「そのように思います」
夏は鴸の頭から単刀を引き抜き、ひゅんと振り回して血を払った。月光に煌めく刃、そこに血の一滴も残っていないのを認めて鞘に収める。きんと鋭い音がした。
「しかし、一度ならず二度も命を助けていただくことになろうとは。この曹佾、恥じております」
「二度も? 前に君を救ったことなんてあったろうか」
「仙となった時のことに御座います」
夏は曹佾に振り返る。僅かばかり目を見開き、まるで意外と言ったような表情をしていた。『そのように考えるのか』と驚いているようにも見えた。
それで曹佾は、普段から感じていた一つの疑問を、つい、口にした。
「不躾ながら。──本当は、あの時、私は死んだのでしょう?」
沈黙の後、夏は目を逸らして、小さく言う。
「……さあ、どうかな」
「時々、私は考えるのです。仙とは何なのでしょう。生きているのでしょうか、死んでいるのでしょうか。なぜ寿命がなく、病気もしないのです。なぜ私の体は死人のように冷たいのです。考えれば考えるほどに、自分の存在が分からなくなります」
「言える事は、ただ一つ。僕は君を救おうと思って仙にしたわけではない」
夏は街道の方へと歩き出す。
「……まさか、もう行かれるのですか。鴸を屠ったと知れば知府も歓迎しましょう。私からも改めて御礼の場を設けさせていただきたく存じます」
「もうじき太陽が昇る。夜明けと同時に府を出るつもりだったから、それでいいんだ」
「お気を悪くしたのなら謝ります。酒宴では西方の珍しい食べ物もたんと用意されましょう。せめて贅沢な香辛料の香りを嗅いでいくだけでも」
小狸は目を輝かせてハッと振り返った。しかし夏が興味を示さなかったので、尾っぽを下げながら彼女を追いかけた。
「婉姈様」
「夏夏か阿夏」
「あなたは『自分が無価値に思える』とおっしゃいました」
夏は足を止めて半身を返した。
「言ったね」
「何故そう思うのです」
「いざ問われると困るな。わけもなく自分が無価値な気がしているんだ」
「私には理解できかねます。あなたほどの人が無価値などと」
「同じ仙でも、君には過去がある。でも僕には何もない。何もないまま、僕は存在している」
夏は気を使うように笑って、
「でも、ご飯食べたり、景色を眺めながら歩いている間は、少しばかり無価値な自分から遠のく気がしているんだ」
「……つまり、旅に出て良かったと?」
「そうだね。旅の目的は鬱屈としたものだけれど、旅自体は決して悪いものじゃない。何より、古い友人に会えた」
遠く、横一直線に瑠璃色を頂く山並みから縷々たる風が吹き始めて、夏の髪が踊った。
「曹佾。君は、思うがままに生きられそうかい?」
曹佾は少考して、
「苦労という苦労がこの世から消滅する時が来れば、私も羽を広げる事ができるのではないかと思う次第に御座います」
「きっとすぐ来るよ。苦労が挑戦の色を帯びる時、君の世界は変わると思う」
そして夏は再び歩き出す。猫はその後をとことこと追いかけて行った。
「阿夏、少なくともこの曹佾にとっては、あなたが無価値な人間などではないことを覚えておいて欲しく思います」
夏はするりと手を上げてひらひらと振った。別れの挨拶。
「出来るなら側にお仕えしとう御座います。あなたの孤独を理解しとう御座います」
夏は歩みを止めなかった。
そして曹佾は袖を合わせ、深々と長揖した。
「あなたさまが齎す天下安泰が弥栄であることを御願い申し上げます」
東から薄くなりつつある星空は、黎明の明かりを孕んで、荒涼とした大地を仄かに照らし始めていた。風向南東、風勢穏やか、春の気配をのせている。
「小狸。老君の言う事は本当なのだろうか。本当に東には、僕が僕を好きになれる何かがあるんだろうか」
猫は何も反応を示さなかった。
「僕はね、思うんだ。そんなものは存在しないんじゃないかって──」
陵青県で出会った辻方士の予報によれば、そろそろ金烏が勢いを取り戻し始める頃だろう。その証拠に瑠璃色の稜線はあっというまに赤らんで、梔子の色に染まり始めていた。
夏は東を見つめた。眩しい。目を細める。
万里無雲、金烏夭夭。きっと今日は暖かい。




