馬腹の川
巳の刻に3つの太陽が天に昇った。
3羽の金烏は其々が気楽だと思う力で輝きを放っている。
こうした日は三烏凡輝と言って、空は藍のような、暗く深い青に色づくものだった。遥か宇宙の表情に近づき、太陽は鋭く明るい。また、空気は凍てつく。
三烏共に凡輝なれども、元より数日前から金烏が弱っていたことを考えれば、即ち他の二烏が気弱になったに過ぎない。しかし金烏は少しずつ力を取り戻していっているらしく、明日明後日には暖かくなるだろう──、と街角に立っていた辻方士は言っていた。
「寒……」
雲一つない乾いた空の下、夏は碼頭で釣りをしながら船を待った。
「船で2日ほど南に行けば府に着く。そこからは東に向かって歩こう」
夏の言う府は安河府のことで、大陸の都市の中でも、取り分けて堅牢な大城があることで天下に佳名を轟かせている。郭の中に入れば殆ど迷宮であるらしい。また、水運拠点としても有名だから、普通に生きていれば安河府を知らぬ者はいなかった。
「釣れた」
小狸が釣れたばかりの鯉魚に噛みついた時、すうーっと船が通りかかった。帆のついた、屋根ありの客船だった。
乗っているのは驢馬が7頭と商人らしき男が1人、それから船の艄公が1人。艄公は長い長い竿を川底に刺して船を停めると、それに少しばかりもたれながら言った。
「乗るか?」
「南に行くでしょう?」
「支流には行かねえぜ」
「いいよ。府に出たい」
「なら乗りな。二百文だ」
日雇い労働2日分の、間々ある金額である。艄公は現実的な賃金を要求した。
乳河は陵青県を含む黄狼平野を南北に走る河川であり、南方母海にまで繋がる。支流を含めば長さは四千四百里(2400Km)となり、大陸では四番目に長い川となった。
乳河沿いには河川舟運によって栄えた街がうんとあるので、船さえ手配できれば旅路に苦労はない。川沿いを陸路を行くよりも遥かに楽ができる。
船には火鉢が置かれていて、夏はありがたくそれにあたった。先客の商人が火鉢の側で茶餅──つまり茶葉の固めたものを茶臼で挽いていた。
「茶はいかがか、お嬢さん」
粉を茶碗に入れて、湯を注ぐ。湯気と共に豊かな香りが立ち昇った。
「いいのかい?」
「売り物だが、まあ商人たるもの売り物の味を知っておかなきゃな。アンタは幸運だったのさ」
折角なので茶をもらった。まるい味の茶だった。遅れてキリリとした苦味が広がり、鼻から抜ける香りは濃厚だ。
「イケてるね」
「役人が競い合うための名茶だ」
役人間ではもてなす茶が如何に高級で如何に美味であるかを競い合う文化があった。これを闘茶と言い、士大夫たる者、名茶を知っていて当然という考えの下にある。
「いくらで売れると思う?」
「さあ。50文かな」
「馬鹿言え。仕入れで600文だぞ。1貫は貰わねばやってられん」
1000文が1貫、つまり佃戸が農具一式を買い改めるのに必要な程度の値段だった。
猫は夏の飲みかけの茶をちゃぷちゃぷと舐めた。風雅な猫であるから気に入ったらしく、飽きることなく舐め続けている。
そうしている内に川霧が出て、辺りが白く烟った。本日三烏凡輝、夜明けから更に気温が下がり、川の水温が追いついていないらしい。霧が出ると同時に水と泥の臭いも立ち、咽せかえりそうな程だった。
「ひどい霧だな。オヤジ、無事に府に着けるんだろうか」
「俺を信じろ。この道25年だ」
一炷香が経つ内に、霧はますます濃くなって、ついに周りが殆ど見えなくなった。
「ん……?」
商人が眉を顰めた。
「1、2、3……。驢馬が一頭足りないぞ」
「そんなわけあるか。数え間違えたんじゃねえか」
「いいや、確かだ。そうだろ、お嬢さん」
問われて夏も指折り数えてみたが、確かに7頭いた驢馬が6頭になっているようだった。
「ああ? もう一頭減ったぞ」
「この霧で見えてねえ驢馬でもいるんだろう」
「船の中くらいはばっちり見えてらぁ」
再び夏も数えてみたが、やはり商人の言う通りもう一頭減っている。
「馬腹かな」
ぼそりと呟くと、商人も艄公もぎょっと顔を引き攣らせた。
馬腹とは川辺に生息する獣である。人面の類で、体は虎だと言われた。鳴き声は赤ん坊が泣き叫ぶのにそっくりで、家畜を襲って食う。しかし一番の好物は人間の尻肉と膵臓であるから、2人とも焦った。
商人が小声で言う。
「お、おい、ビビらせるんじゃない。こんな霧の中で馬腹なんかに出会したら、只事じゃねえぞ」
僅かの沈黙があって、霧の帷の中から、ほんぎゃあ、ほんぎゃあと赤ん坊の鳴き声が聞こえ始めた。
そして艄公が声を荒げる。
「船の中央に寄れっ!」
しかし商人は、驢馬の手綱を纏めようとして、甲板に出た。
「これ以上驢馬を食われてたまるかっ! これも大事な財産だ!」
「驢馬なんてどうにでもなるだろう! 惜しけりゃ原っぱで野驢でも捕まえて来やがれっ!」
夏は徐に立ち上がり、辺りを見回した。見回したと言っても霧ばかりで何も見えないので、ただしくは耳だけで馬腹がどこに潜んでいるかを探ろうとした。
「お嬢ちゃん、座れ、座れ! 危ねぇぞ!」
「まあでも、どこに隠れているか、大体の見当はついたよ」
そして夏は腰に下げた単刀を抜いた。美しい紋様の彫られた青白い刃の単刀だった。
「まさか戦う気かっ!」
「馬腹は狙った獲物を逃がさない。もちろん話が通じる相手でもないから、撃退する他ないのさ。誰でも彼でも気持ちが通じ合えば良いのだけれどね」
瓢箪を取り出し、刃に酒を注ぐと、不思議なことにその刀は白光を放った。それで商人も艄公も彼女の持つ単刀が、いわゆる妖刀の類であると理解した。
次いでその場でヒュンと刀を振るうと、まるで豆腐でも切るかのように川の先まで霧が真っ二つ、文字通り霧散した。視界が開けた。
夏は船舷に片足を乗っけて水面を眺めた。翡翠色の川の水、深い所で影が動いている。馬腹がじわりじわりと船に迫る──。
刹那、馬腹はざばりと川から跳ね上がった。しなやかな虎の体で空を掻きながら夏に襲いかかる。爪は極端に長く、一本一本が匕首のようになっている。
顔部は人面というよりかは、どちらかと言うと猿、たとえば金絲猴のようで、歯茎と歯を剥き出しにして大口を開けて迫った。
「正面から来た。潔い」
そして猫がその大口に釣られて大欠伸をした時、夏は単刀を馬腹の頭に振り下ろした。
カツンと硬く鋭い音がして頭蓋が割れて、そのまま夏ごと船の上を転がった。驢馬たちが驚いて暴れる。商人も艄公も青ざめて、尻を擦って後ずさる。
夏は立ち上がると、念のため馬腹の首に刀を差し込んだ。真っ黒な血が船床に広がる。
商人が呆然として呟いた。
「で、でけぇー……。本当に人面虎だ……」
目算およそ八尺(2.5メートル)、人喰い虎のような大きさであった。獣臭もきつい。溝のような臭いがしている。
「馬腹の肉を食べると戦避けになるらしい。口が達者なら、肉一切れで失った驢馬代くらいは回収できると思うよ」
戦避けとは即ち、戦乱に巻き込まれずに済む──ということである。しかし商人は放心してしまって、何も答えることが出来なかった。
夏はひゅんと曲芸のように刀を振るって血を払う。見事な装飾の入った鞘にそれを押し込むと、しゃきんと小気味良い音が鳴った。
その剣捌きを見て、艄公は言った。
「アンタ、武人なのか? まだ幼いように見えるが……、何度か戦争に出ているのか?」
「どうかな。戦はたくさん見たけれど、人に向かって剣を振るったことは無いよ」
「いいや、そんなわけがねぇ。俺も若い頃は軍にいたが、バケモノ相手に落ち着き払っているような人間は、見たことがねえ。それに、人殺しの目をしていた」
夏は猫を見る。
「戦いで言うと君の方がよっぽど人を殺しているよね」
猫は二度目の大欠伸。
「さあ馬腹を解体しようか。このままだと血が臭って他の獣を呼び寄せる」
天を見上げる。怖いくらいに群青に色づく空に、太陽が高くへばりついている。時間は十分にありそうだった。暗くなるまでに解体を終わらせたい。
「小狸、肉を食うといい。戦避けになるよ」
猫はぷいと顔を背けた。戦は人生──いや、猫生の華だと思っているので。




