西国の美術品
さて、たとえ為妾であろうとも、知府の妾ともなれば六礼に近い形を踏んで側女となる。
六礼とは即ち伝統的な婚姻の儀礼のことを言う。簡単にではあるが以下に記そう。
まず第一に納采。男性側が仲人を通じて女に求婚することを言う。
次に問名。生年月日を訪ねることである。これは占いに用いる。
納吉。占いの結果が『良かった』と伝えることで、方士は基本的に占わずして占いの結果を伝える。
納徴。結納品を贈ることである。
請期。婚礼の日取りを決めること。
そして最後に親迎であるが、これは婿が直接花嫁を迎えに行くことである。
伊蓮妮は妾であるから、これら全ては行わない。納采に似たようなものがあって、媒人を通じて契約を交わす。その後は身代金を受け取り、吉日を選んで輿入れするだけの流れであった。正妻は六礼を行なっているわけだから、これと同程度、或いはこれより丁寧な待遇があってはならない。
「持参金がわりに、このような品々をお渡ししようかと……」
ある日伊蓮妮は、安済坊の病人に、こっそりと、その品々を見せた。
そっと、匣の蓋を開く。中身を見て、みなが一斉に、おおと声をあげる。夏も目を丸くして驚いたし、心が雅な猫もぶんぶんと尻尾を振って興奮した。
「うわっ。これは見事な代物だ」
匣の中に入っていたのは三つの杯だった。硝子で出来ている。色は若葉の緑のようでもあり海の青のようでもあり、曖昧かつ絶妙な感じで、美しく輝いている。硝子も質が良い。透き通っていて、そこに彫り込まれた柄も実に繊細であった。回回世界を思わせるような唐草模様である。
「父が旅の中で人を治療し、その礼として受け取ったものです」
いわゆる豪商を治療することが多かったのだと伊蓮妮は言う。
「つまり……、形見を渡してしまうの?」
「私にはもう必要のないものですから。この杯の価値を本当に理解してもらえるような、雅な方の手に渡る方がよろしいかと」
伊蓮妮は養蚕が始まる頃の吉日に輿入れすることとなっていた。
当日の朝は早かった。日の昇らぬ内から、そうしたことに詳しい近所の髪結い婆を呼んで丁寧髪をすいてもらい、化粧を施す。そして、正式な婚礼よりも豪華にはならない程度に見栄えのする華服を着て、決して豪華すぎない簪を頭に刺して迎えを待った。華美な服では無かろうとも、その時の伊蓮妮の美しさは息を呑むほどで、猫も乞食たちもうっとりとした。
天烏が東の空に姿を現した頃に、府城から来た知府の下僕が安済坊に到着した。管家、それから小さな輿を持つ下僕が四名、付き人となる婢女が2人と、小規模な迎えであった。
別れ際、伊蓮妮は言った。
「実は一人一人に手紙を書いてみたんです。読めない人も多いこととは思いますけど、ぜひ伝えたくて」
乞食たちは手紙を受け取る。すぐにその場で中身を見る者もいたが、やはり彼女の言う通り文字は読めなかった。
「婉姈さんにも」
夏は少しばかり照れながら、それを受け取る。
「ありがとう。……じゃあ、達者で」
「はい」
夏は伊蓮妮が輿に入るのをじっと見ていた。人の婚礼──言っても妾ではあるが──を見るのは初めてであったが、特に懐かしさを感じることはなかった。気を失った時に見た夢の中で、誰かが『娶あわせる』と言っていたから、失われた記憶と婚礼に何某かの繋がりがあるのではないかと考えていたが、そうでもないのだろうか……。
そして輿は府城へと向かっていった。猫はしょんぼりとして尾っぽを下げ、去り行く伊蓮妮を物憂げに見つめる。
乞食たちの反応は様々であった。
まず、おいおいと泣いているのは仲達。北の出身で、目的もなく旅をしているらしい。金に困ると自らの腕を切って血を流し、獣を相手に負傷した侠客だとして道ゆく人から金をせびって食い繋いでいた。あわれ傷に菌が入って安済坊の厄介となる。
未だに妾になったことにぐちぐちと文句を垂れているのは陳大郎で、自称『南部一の武人』である。見た目は小太りの壮年だが、脂肪の下に筋肉があるようにも思えない。猫は嘯いているだけだと考えているが、『うまいか』『おいしいか』と自分の食べ残しを分けてくれるので、悪いやつではなかった。
他には子安、孫四郎、維清等々、個性豊かな乞食たちが涙ながらに彼女を見送った。
その日の午後、安済坊の帳簿をまとめていた吏員が現れて、新任の医者が来るまでここを閉鎖することを告げた。つまりは各々解散である。みな既に怪我や病は治っていて、伊蓮妮を目的にたらたらと滞在していただけなので、追い出されようとも問題はなかった。
解散と言えども食い扶持を求めるとなると、どうしても府に向かうしかないので、乞食たちは一斉に東へと向かった。各々孤高の人だから、もちろん肩を並べて歩くことはせずに、なんとなく二里(1Km)ほどの距離を空けながら、飽くまで他人として街道を歩いた。
本日、中烏陽煌。三烏の内、二番目の輝きを持つ中烏が取り分けて元気な日で、概して穏やかな天候となる。
日差しはあたたかい。春風が砂漠の砂を運んでいるからか、空はやや白く濁っている。百舌の鳴き声が絶えずしている。
夏と猫も東へ歩いた。傷は大体塞がり、流した分だけの血も作られたので、もうふらふらとすることもない。
夏は途中で立ち止まり、背後を振り返った。遠くに人影、李玄である。鉄杖をつき、よぼよぼと覚束ない足取りで、時折前に転げそうになりながらも、跛を引いて歩いている。
「……大丈夫だろうか」
猫は興味なさげに顎の下を掻いた。
なんとも危なっかしいので、夏は彼を待ってやる。
「李玄、あれはなかったぞ。ほら、男嬰をどうのこうのと。彼女、恥ずかしがっていた」
「へへぇ」
李玄は媚び諂うような笑みを浮かべて、深く首を垂れた。
「それから、僕は今、夏と名乗っているんだ。呼ぶとしたら、夏夏か阿夏」
「へぇ、へへぇ」
言い終わる前に叩頭し始めた。
夏は頭を掻きながら『起来』と発し、李玄の腕を取って立ち上がらせる。
「軽っ。おいおい、ちゃんと食ってるのかぁ?」
李玄の目の焦点は合っておらず薮睨み。手も病的に震えていた。
「僕が獣に囲まれているのを助けてくれたのは李玄だろう。助かったけれど、その体であんまり無理をしちゃダメだよ」
「へぇ」
耄碌しているのか、生返事である。夏が思うに、諸々と曖昧な瞬間があるようで、言われたことの半分程度しか理解をしていない様子だった。と言っても毎度毎度そのような感じではなく、しゃっきりと喋り出す日もあるし、今日よりもさくさくと歩く日だってある。つまり、調子によるらしい。
「李玄はどこに行く? とりあえず府の方に行くの?」
ここでいう府とは石峰府府城のことである。
石峰府は古くから鉱山で名を得ていた。4つの県を包する府で、戸数は五万を超える。特に名鉄で佳名を轟かせているので、城内には幾つもの職人街が形成されていると夏は聞く。
「府に行ったとして、その後はどこへ行く?」
李玄は黙々と歩く。
「僕は扶桑を目指している」
そして李玄は、ちらりと夏の顔を見た。この時ばかりは笑みも失せていた。
「君は扶桑なんて場所はあると思う?」
口をもにもにとして動かして、李玄は黙って歩き続ける。果たして聞こえたのか聞こえなかったのか、耄碌の一瞬に被さって会話が出来なくなったのか、それとも聞こえないふりをしたのか……。夏にはわからなかった。
「まあ良い。何があろうとなかろうと、やることは変わらないんだ。道が続くまで、東の果てに行ってみる」
府城に近づくほど土は赤みを帯びて、山々もそのように色づいた。山に木々はなく、あったとしても寂しげに佇む雑木で、耕作地も減ってゆく。河岸にはいくつもの鉱山集落が形成されているようで、川も濁り始めた。
夏は李玄の歩みに合わせて街道を行った。亀のような速度ではあったが、李玄がまったく休憩は取らずに歩き続けたので、二晩程度で赤褐色の城壁を見上げることができた。
「これまた目が覚めるような見事な街だ」
石峰府・府城は赤い街である。建物は凡そ赤土で出来ていた。
慌ただしい様子の大街、馬車や商人が激しく往来している。店先には鉄製品が並んでいて、心なしか街全体が鉄っぽい臭いがしていた。
「農具が吊るされている」
大陸中部には商品を吊るしておく文化がある。店の軒先に吊るされた農具や金物を農民たちがぼーっと眺めているのが目につく。遠くから農具を買いに来ているのだろう、街の慌ただしさに慣れない様子である。鉄舗の前にはちょっとした行列が出来ているし、大量の農具を荷台に乗せて運ぼうとしている農民もいた。
「まずは丹薬を作り直したい。あんな感じに怪我をして、これ以上歩けませんでしたでは情けないからね」
なので材料を揃えたいと考えていたが──。
「──思うにそういった街ではないのかな。鉄、鉄、鉄、どこもかしこも鉄ばかり。街の何処かには薬舗があるとは思うのだけど」
大街には茶楼や飯屋はあるものの、鉄雑貨を扱う店や鍛冶屋、刀舗ばかりで薬舗はない。街の喧騒に混じって常にカンカンと鎚音が聞こえている。
「大街から離れても職人街があるだけのようだ。辰砂や雄黄などは鉱山から取れないのだろうか……」
辰砂は水銀の原料である。肉塊のような見た目の鉱石で、炉で熱し、その蒸気を集めると水銀になる。雄黄は硫化砒素で出来た赤い鉱石で、これも丹薬に使用した。
「李玄がいるうちに丹薬作りを手伝ってもらおうなんて思ってたんだけど、こりゃあ、なかなか難しいかな」
そして猫が鳴く。
「何? 飯? まあ確かにここしばらく病人食ばかりでまともなものは食べていなかったような──」
古董舗の前に差し掛かった時、夏は足を止めた。
砂漠を超えた西国の美術品を扱う古董舗だった。店先に並べられているのは遥か西の綴織、銀の燭台、硝子玉、珊瑚の枝。
開け放たれた扉から中の様子が伺える。質素で狭そうな店内、象牙で出来たであろう置物や見事な柄の編み込まれた絨毯、古い時代の青銅器などに混じって、美しい硝子の杯が飾られていた。
硝子は澄んでいて、回回世界風の精巧な柄が彫られている。
夏がそれを手に取ると、李玄は氷のような冷たい目をして、杯を見た。彼の中からは曖昧さは失せて、手の震えも止まっていた。
黙って硝子の杯を見ていると、盗まれると思ったのだろう、小太りの店主が店の奥から顔を出す。
「やあ、上物だね。この杯はどこで手に入れた?」




