龍と少女
その日、少女は東方が瑠璃色に染まる頃合いに客店を出た。
「3日くらい歩けば陵青県に入るから、そこからは船で川を下れば手っ取り早く府に出られるらしい。早く郭のある大きな街に入るのがいいね。これだけ寒いんだもの」
少女は振り向いて話しかける。
後ろからとことことついて行くのは毛長猫で、少女の話には特に反応を示さず、3本の尻尾をピンと上にして歩いていた。
絶えず北風が吹くが、客店の主人が焼き石を持たせてくれたから、これは助かった。手が悴んでも懐中のそれに触れていれば何とも心強い。
風は遠く連なる山々の雪の匂いを乗せている。肺いっぱいにそれを吸い込めば、気持ちがしゃきっとして脚に力が沸いた。脚に力が沸くと、ちょっぴりお腹が空いてしまう。
「とりあえず街に着いたら、何かを食べよう。粥に麺、饅頭に焼餅。この辺は何でもかんでも美味しいそうだ」
「にゃあ」
飯の話になるとばっちり反応を示す猫だった。
しばらく歩いて、空が真っ青に染まった頃──、切り立った崖の狭間に縫うように伸びる街道、その先に人だかりが見え始めた。道を塞いでしまって、これでは通ることが出来ない。
「何だろう? 土匪が通行料を取るようになってしまったのかな?」
近寄ってみると、老若男女みな困り顔だった。人と人との隙間をずいずいと進んでいくと、なんと街道のど真ん中に龍が寝ていた。
いや、寝ているというよりも巣を作ってしまって、完全にまったりとしていた。蛇のように長い体をぐるぐると器用に丸めて、鼻ちょうちんまで作って、うたた寝を決め込んでいる。伸ばしてみれば三丈(10メートル)程度はあろうか、白い髭の立派な龍だった。
「近寄ると危ないよ!」
少女が一歩足を踏み出すと、少年が声を上げた。
「近づけば襲われる。みんな困っているよ。これで6日目だ」
近くの村々から長老たちが集まっているのだろう、髭の長い老人があーでもないこーでもないと額を寄せ合って相談していた。
さて、どうしたものかと少女が考えていると、
「どけどけ! 俺たちが退けてやる!」
荒くれな感じの大男が、どかどか群衆を押し退けながら現れた。ぞろぞろと若い衆を連れていて、それぞれ農具を持っている。
「やい! どけ龍公! この街道にでんと構えられたら、誰も生活できねえや! 人間様が怖いってところをみせてやるぜ!」
そうして男たちが近寄るが──、龍がぱちりと目を覚まして、があと吠えた。吠えたと同時に少しばかり火が噴いたものだから、若い衆は怖気ついて尻餅をついてしまった。
それでみな、ああ、と悲しげにため息をついた。少女が見るところ、売り物の草履や籠をうんと背負っている人もいるし、このまま街道が使えなければ、やがて立ち行かなくなる村もあるだろう。
長老たちにとって、あの大男たちが頼みの綱だったのだろうか『処女を何人か人牲に捧げて、立ち退いてもらうよう願い奉るべきか』と相談し始めたのが少女の耳に聞こえた。
「え〜っ? そんな物騒なことしなくたって大丈夫じゃないかな。とりあえず龍に話を聞いてみようよ」
大人たちは目を丸くする。
「龍に話を聞く……?」
少女は自然な感じに龍に近寄って、大男が声をあげた。
「お、おい。近寄ると噛みつかれやしないかっ!」
「無闇矢鱈に恐れたり、敬いすぎたりすると気を悪くするよ。或いは敵意が無ければ大丈夫」
少女の言う通りだった。龍の顔の前まで近寄っても、落ち着いている。少女はそっと龍の額に触れた。そして沈黙が続いた。
人々は固唾を飲んで見守っていた。この及笄したばかりにも見える年頃の少女が、今にもがぶりと齧られてしまうのではないかと……。
そして天高く舞う鳶の声が降りて来た時、少女は振り返った。
「お腹が空いているらしい。ここでのんびりと待っていれば何か食べ物が行き来するんじゃないかと考えているんだ。ちょっと前に、いい匂いを漂わせながら人がいっぱい歩いているのを見たのだって」
長老の1人が呆然と言った。
「龍と喋れるのか?」
「なんとなく気持ちを理解しただけだよ」
「しかし腹が減ったとは。この通り、供物は用意してある」
長老は龍の前に並べた供物を指差した。山菜や穀物、魚や酒の壺、それから苦労して用意したであろう牲の真っ白い羊が供えてある。
「龍は賽会のことを言っているんじゃないかな」
賽会とは地方土着の祭りのことを言う。五色旗や神像などを掲げながら村々を巡って練り歩く。大概は香炉を持って、もうもうと煙を出しながら街道を行くものだった。
「龍は香や霞を好むよ。血生臭いものは、余程のことがないと食べないよ」
群衆は顔を見合わせた。
「練り香でも持っていれば良かったんだけど、今はこれしか持ち合わせていないや」
言って少女は大きな背負袋から、小さな木片を取り出した。大男はぐいっと顔を近づけてそれをじっくりと見る。
「な、なんぞこれは。何やら良い香りがするのう……」
「沈香さ」
香木の一種だった。遥か南方、海の向こうからやってくる神木らしい。少女も詳しいことは知らなかった。
「沈香!? 畑付きの家を3軒は買えるぞっ!!」
群衆は口を揃えて『もったいない、もったいない!!』と大騒ぎ。
「仮にそうだとしても、僕が持っていたところで宝の持ち腐れだ。金品と交換するつもりはないわけだし」
少女は特に気にする様子もなく沈香に火をつけた。細い煙がふわりと舞い上がる。不思議なことにその時ばかりは北風もおさまっていたが、群衆の誰もがそれに気づくことがなかった。
龍はくんくんと鼻をひくつかせると、四足を張ってむくりと起き上がった。鱗が陽の光にキラキラと青白く輝いて、群衆の大半が目を細める。
そして龍は鱗を立てて、霊力でふわわと浮き上がると、みながぽかんと口を開けてぼうっと立ち竦む中、細い煙と共に天へと昇っていった──。
その場に残されたのは龍が巣にしていた木々の根っこや蘭の葉っぱ、それから、どこぞの朽ちた道観から持ってきたであろう赤い柱や透かしの入った花窗、あとはよくわからない瓦落多だった。群衆は『こんなものを巣にするのだなあ』とそれをしげしげと眺めた。
「きっとここは縁起の良い場所になると思うから、祠でも建てると良いかも知れないね」
そう言うと少女は龍の巣を踏み越えて、何事もなかったように街道を進んだ。終始静かにしていた猫は身軽な感じで少女を追いかけていく。
群衆は龍の巣に落ちている鱗を拾おうと群がった。だが、龍に近寄らないよう注意した少年だけが、遅れて駆けて、少女を追いかけた。
「ちょっと待って、アンタ何者なんだ? 俺たち、お礼をしないと!」
「僕? そうだなぁ。前は夏と呼ばれていたよ。こっちは勝手についてくる毛長猫の小狸」
小狸はふがふがと鳴いて挨拶をした。何かを喋ろうとしているかのような口の動かし方だった。
「お礼なんかいいよ、別に」
「どこまで行くんだ? 村が近くにある。休んでいけよ」
「東へ。丝路を通って扶桑の近くまで行くよ。そこに会わなくちゃいけない人がいて、渡したいものがあるんだ。別に急いでいるわけではないけれど、休んでいるのも勿体無いと思って」
止んでいた北風が吹いて、夏と名乗った少女の白銀の髪が踊った。踊る髪に隠れる彼女の面相、その物悲しげな雰囲気に、少年はわけもなく言葉を失った。
そうして夏はまた歩き出す。猫は夏について行く。轍のない黄色い砂の道を、自分の足で歩いて行く。
風の大陸は乾いた風を生み、遠い山々は青く烟って、空気は澄んでいる。どこまでも突き抜ける蒼穹に遠雷の音、龍の声。賤しい龍はご機嫌のようだった。
──天には3つの太陽が輝いている。
太陽にはそれぞれ金烏と呼ばれる三本足の烏が棲んでいた。
一番強い輝きを持つ金烏を天烏といい、二番目に強い輝きを持つ金烏を中烏、そしてもっとも輝きの弱い金烏を某烏と呼んだ。
金烏が天に昇るのは、遥か北方の果て鐘山に棲まう燭竜なる巨大な竜の指図によるものである。
この竜が瞼を開けている間は金烏が東から西に抜けてもよく、そして瞼を閉じている間は金烏は空を飛べない。つまり竜の瞼が開いている内は日中、閉じている内は夜となる。
同じ客店に泊まっていた辻方士の予報によれば、本日、金烏は気怠げ。一方で某烏は気合が入っている。これを金失某好の日と言うが、とかく寒い日となる。おそらく数日間は続くと見られた。




