第6章
(1)
初七日の法要が終わると、私達は居間に集められた。事件の日に家にいた5人に加え、今日も庄野弁護士が参加していた。
高梨刑事が静かに話し始める。
「今日は、この数日間の調査結果を報告させていただきます。それから、二、三、質問にお答え頂きたい」
その横では、郷田刑事がにらみを効かせている。
調査報告といっても特に目新しいものはなく、初めて聞く情報と言えば、あの絵葉書が購入されたのが、年が明けてすぐのことだという点だけだった。伯父の財布に入っていたレシートと、店の記録が一致したらしい。
「それで、あの『助けてくれ』の意味は、わかったんですか?」
一通り聞き終わると、洋介が尋ねた。
「前にもお話しましたように、幸三さんはご自分の身に危険が迫っていることを察していたと、考えています」
高梨刑事が答えた。
「それならば、親父はいったい、誰に殺されると思っていたんでしょうか?」
洋介が食い下がる。高梨刑事は黙ったまま、鞄から書類を取り出した。
「真由美さん、これに見覚えはありますか?」
彼が真由美の前に差し出したのは、1通の離婚届だった。真由美は両手でそれを受け取った。
「いいえ。初めて見ます」
彼女は小さな声で答えた。手が震えているのがわかる。
「幸三さんの大学の研究室で見つかりました。デスクの鍵のかかる引き出しに入っていたのですが」
高梨刑事が説明を加えた。
「幸三さんは、既にサインをしています。あとは、あなたが名前を書き込めばいい状態になっている」
高梨刑事の言葉に、真由美は目を閉じた。
「あの人が離婚を考えていたなんて……」
小さな声でつぶやく。
「幸三さんが、この離婚届を市役所にもらいに行ったのは、年が明けてすぐ、あの絵葉書を購入したのと同じ日です」
「どうして、そんなことがわかったんですか?」
私は思わず、口をはさんだ。離婚届をもらうだけなら、いちいち名前など言わなくてもよいはずだ。
「市役所に、幸三さんの教え子がいたんですよ。新年早々、教授が離婚届をもらいに来た。印象に残っていたそうです」
「なるほど」
洋介が頷いた。
「書店のレシートに刻印された時刻と、教え子の証言から考えて、幸三さんは市役所で離婚届を手に入れた後、書店に立ち寄っているようです」
郷田刑事が説明した。
「それが、今回の事件と何か関係があるんですか?」
友川助教授が尋ねた。
「真由美さん、失礼ですが、この離婚届の件、本当にご存じなかったのでしょうか」
高梨刑事に聞かれ、真由美は驚いたように顔を上げた。
「全く知りませんでした」
右手に握りしめられた離婚届が、かすかに音を立てた。
「離婚というお話も、出ていなかったのですか?」
郷田刑事が、真由美の顔をじっと見つめる。
「もちろんです」
彼女は目を伏せた。
「心当たりもありませんか?」
郷田刑事に再び尋ねられ、真由美は黙ったまま頷いた。
「それでは、これはいかがですか?」
高梨刑事が、上着の内ポケットから写真を取り出した。
そこには、真由美が友川と共に食事をしている様子が、写されていた。
「これは……」
真由美が絶句する。隣に座っていた友川助教授も、写真を覗き込み息を飲んだ。
「ご説明いただきましょうか」
高梨刑事は、その写真をポケットに戻し、厳しい口調で言った。
「食事をしただけです。それだけです」
友川助教授が答える。真由美も黙って頷いた。
「この写真が撮られたのは、幸三さんが殺害される前日です。一体、何をお話しなさっていたんですか?」
郷田刑事の質問に、2人はそっと顔を見合わせた。
「教授の健康状態について、真由美さんから相談を受けていました」
「健康状態?」
尋ね返され、今度は真由美が口を開いた。
「主人は、自分が胃ガンだと思い込んでいる様でした。本当は、軽い胃潰瘍だったのに。どうしたら、その誤解をとくことができるだろうかと、友川さんにご相談申し上げました」
「私も、製薬関係の研究をしておりますので、多少の医学的な知識は持っています。何かお力になれればと思って、お話をお聞きしていました」
友川助教授が付け加える。私と洋介は、思わず顔を見合わせた。刑事達も、困ったように目くばせをし合っている。
「あの、何か?」
友川助教授が、不安そうな顔で尋ねる。
「幸三さんは、本当に胃ガンだったのですよ、それも末期の状態でした。解剖で明らかになったのですが」
高梨刑事が穏やかな声で説明した。
「うそ。日向先生からは胃潰瘍だって……」
真由美の視線が宙を泳ぐ。どうやら、本当に知らなかったようだ。真っ青な彼女の横顔を見ながら、私は気の毒な気持ちになった。
「ひとつ、よろしいですか?」
突然、口をはさんだ洋介に、郷田刑事が一瞥をくれた。
(2)
「何でしょう?」
高梨刑事が尋ねる。
「さっきの写真、誰が撮ったものですか? アングルなどから見て、隠し撮りのように見えるんですが」
洋介の問いに、高梨刑事は頭を掻きながら答える。
「なるほど。あなたも探偵ですから、こうした写真は見慣れていらっしゃるのでしょうね。これは、幸三さんが依頼していた探偵社の調査員によって、撮られたものです」
「親父が依頼していた?」
洋介が、眉間に皺を寄せた。
「真由美さんの素行調査をさせていた、ということですか?」
「ええ、そうです」
高梨刑事が頷く。
「身内のあなたには、頼みにくかったのでしょう」
洋介をかばうように、庄野弁護士が言い添えた。
「庄野先生はご存じだったんですか?」
私が尋ねると、彼は頷いた。
「相談を受けていましたのでね」
真由美は、込み上げる涙を必死でこらえているようだった。
「別に、親父が俺に頼まなかったことは、どうでもいいんです。ただ、親父が探偵を雇っていたということ自体が、信じられないんです」
洋介が続ける。
「前に、親父と一緒に、探偵社を取材しているテレビを見ていたんですよ。そこで、ダンナが妻の素行調査を行うっていう場面がありましてね。『こんなやり方は卑怯だ』って、親父、相当怒っていたんです」
「そういえば、そうだったわね」
私は口を開いた。それは、まだ私が、相田家に居候していた頃のことだった。洋介は、私の方を見て頷いた。
「その親父が、同じことをするとは思えない」
「真由美さんと再婚される前ですか、後ですか?」
郷田刑事に尋ねられ、私達は顔を見合わせた。
「前でした。伯母も一緒に見ていたと思いましたから」
私が答えると、郷田刑事は鼻で笑いながら言った。
「若い女性と再婚されて、考え方が変わられたんじゃないですか」
洋介は、むっとして黙り込んだ。
「我々は、その探偵社に出向いて、調査依頼書を見させてもらいました。そこには確かに、相田幸三というお名前やここの住所が書かれていましたよ。調査報告書は、こちらに郵送で送られていたようですから、幸三さんが直接依頼されたことは、間違いないでしょう」
「孝子さん、郵便物は、孝子さんが受け取っているのよね」
私が確認すると、彼女は頷いた。
「そういった類の郵便物を、受け取った覚えはあるかしら?」
私の質問に、孝子は思い出すように答えた。
「差出人の書いていない、大きめの茶封筒なら2、3回ございました。普通は、大学名や会社名が印刷されている封筒が多いですから、印象に残っています」
「親父に直接渡したの?」
たまらず、洋介が口をはさむ。孝子はとまどいながら言った。
「ええ。たしか『親展』となっておりましたので」
私と洋介は顔を見合わせた。こうなると、私達は先ほどの説を取り下げるしかない。
「いずれにしても、幸三さんが真由美さんに対して、何らかの疑いを持っていたことは、間違いありません」
高梨刑事が、真由美の方を見た。
「真由美さん、後ほど、警察までお越しいただけますか。詳しいお話をお聞きしたいので。友川助教授も、お願いします」
郷田刑事が立ち上がりながら、真由美が握りしめている離婚届を返すよう、手を差し出した。真由美は、ぼうっとしたまま、それを手渡す。
「私もご一緒しましょう。心配だ」
庄野弁護士が立ち上がる。
真由美は、何が何だかわからないといった様子で目を閉じていたが、刑事達に促されて目を開けた。
「本当に、私は何も知りません。知らないんです」
真由美は目に涙を浮かべて、私の方を見た。
「お願い、信じて。お願い」
すがるような彼女の様子に、私は思わず頷いた。真由美も頷き返す。
「さあ、行きましょう」
庄野弁護士の声に、真由美がゆっくり立ち上がる。
居間を出ていく一団を見ながら、私達は言葉もなくいつまでもそこに座っていた。
(3)
「真由美さん、昨日の内には帰って来られなかったみたいね」
右隣を歩く洋介に、私は話し掛けた。
「ああ。警察も、ついに本ボシを見つけたって、勢いこんでいるんだろ」
洋介が、吐き捨てるように言った。
「庄野先生がついて下さってるから、大丈夫だとは思うけど」
私が言うと、洋介が頷く。
「庄野先生には、午後から話を聞かせてもらう約束になってる。親父の遺言状にあった『児童福祉団体』っていうのも、気になってるし。お前も一緒に行くか?」
「そうね。日向医院でお話を聞いてみて考えるわ」
私は腕時計を見た。今は午前10時少し前。伯父が生前かかっていた日向医院には、午前10時に訪問する約束になっていた。
「原稿の締め切り、近いのか?」
私の様子を見て、洋介が尋ねる。
「ううん、そういうわけじゃないのよ。ただ、相田家への滞在が長引きそうだから、一度アパートに戻って、辞書やなんかを持って来ようと思って」
「後でアパートまで送ってやるからさ、庄野先生のところも付き合ってくれよ」
歩きながら、洋介が甘えた声を出す。いつも、人を頼るんだから。
少し前を行く従兄の背中を見つめていると、それでも嫌ではない自分に、気付いたりもする。
「昔は結構遠いかと思っていたけど、実際には15分くらいなもんなんだな」
後について角を曲がると、日向医院の看板が目に入った。
「そうね。洋ちゃん、医者嫌いだったから、余計に遠く感じられたんじゃないの?」
私がからかうと、洋介は口をへの字に曲げてみせた。その横顔を見ていたら、洋介を医者に連れていくのは大変だと愚痴っていた伯母の顔を、ふと思い出した。あの頃は、私の両親もまだ健在だった。
「入るぞ」
洋介がガラスのドアに手をかける。
「うん」
現実に引き戻され、私は頷いた。
(4)
「やあ、洋介君。久しぶりだねえ」
診察室に入ると、丸っこい眼鏡を鼻の上に乗せた、人の好さそうな老人が微笑んだ。
「おやおや、真生ちゃんも一緒なのかい? すっかり、お嬢さんになったねえ」
「日向先生、何がお嬢さんですか。こいつ、もう30ですよ」
私は微笑みながら、洋介の横腹に肘鉄を食らわせた。
「いってえ。ね、先生、全然お嬢さんじゃないでしょう」
洋介が大袈裟に痛がってみせる。日向医師だけでなく、彼の後ろに立っていた看護婦も、声をあげて笑った。
「ところで、今日は何のお話かな?」
日向医師に尋ねられ、私達は並んで診察用の台の上に腰を下ろした。
「親父の胃ガンのことを、詳しくお聞きしたいと思って」
洋介が、改まって言った。
「そのことなら、先日刑事さんにお話したんだけどねえ」
日向医師が、こちらを向いて言う。
「入院して治療してくれと言っても、教授は言うことを聞いてくれなかった」
私達は黙って頷いた。
「じゃあ、親父は知っていたんですね」
洋介の言葉に、日向医師は困ったような表情を浮かべた。
「なまじ、知識がおありなんでねえ。最初に診察を受けられた段階で、胃ガンじゃないかと迫られた。隠し通すことは無理だと考えて、きちんとお話したんだよ」
「そうですか。それは、いつ頃のことですか?」
日向医師は、カルテを見返した。
「去年の3月だねえ。確かその時、このままではもって1年半くらいだと、お伝えした覚えがあるが」
洋介は頷いた。
「他に誰か、伯父の病状を知っていた人はいませんでしたか?」
私は尋ねた。
「誰にも言わないでくれと、教授からも強く頼まれていたから、私は誰にも伝えていないがねえ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「薬って、カプセルに入った形態のものでしたよねえ」
少しして洋介が話し出すと、日向医師は、いいや、と言って首を横に振った。
「睡眠薬と血圧の薬は錠剤。胃腸の薬は、こちらで処方して、薬包紙に包んで渡していたよ。1日2回飲んでもらっていた」
私達は、思わず顔を見合わせた。
「でも、親父はカプセルを飲んでましたよ」
洋介の言葉に、日向医師は微笑んだ。
「教授は、粉薬が苦手だとおっしゃっていたからねえ。オブラートにいちいち包むのも面倒臭いし、カプセルを利用されていたんじゃないのかなあ。薬学部の教授なんだから、カプセルくらい、いくらでも手に入っただろうしね」
私達は頷いた。
「それで、お薬はいつも、真由美さんが取りに来ていたんですか?」
私が尋ねると、日向医師は頭を掻いた。
「大抵はそうだったねえ。でも、この間は、確かお手伝いの吉田さんが……」
日向医師が、看護婦に確認をとる。
「ええ。年配のお手伝いさんが取りにいらっしゃいましたよ。なんでも、奥様が用事があって来られないとかで」
「そうですか。それ、いつのことですか?」
洋介の質問に、日向医師が処方せんの控えをめくった。
「ええと、相田教授の亡くなられた当日の朝だねえ」
「当日の朝?」
「ああ。ちょうど、その朝の分で、薬が切れる予定だったからね。一週間分、持って帰っているよ」
日向医師は、眼鏡を外しながらこちらを見た。
「それが何か、今回の事件と関係あるのかい?」
「いえ、念のためです。親父の死の真相を、どうしても知りたくて……。どうもありがとうございました」
洋介が立ち上がる。私もお礼を言い、立ち上がった。
(5)
「なあ、日向先生の話、どう思った?」
「どうって?」
私は、横を歩く洋介に聞き返した。
「つまり、孝子さんも、親父の薬を手にする機会があったってことについてさ」
「確かに、薬包紙だったら、誰でも中身を摺り替えることはできるわね」
私は頷いた。
「孝子さんがそんなことをしたなんて、考えたくはないけど……。万が一、そうだったとして、どうやって、当日の夜にそれを飲ませたかってことが問題になるよな。カプセルに入れ替えるのは、真由美さんだったようだし」
「そうね」
私は洋介の横顔を見る。
「朝で薬が切れるってことは、もらって帰ったのは、あの日の夜の分からだったってことよね」
「そうか。だったら、一番上に睡眠薬と摺り替えた薬包紙を入れておけばいいんだ」
洋介が、どうだという風に、私の方を見た。
「でも、それって不確か過ぎない? 何のきっかけで、順番が入れ替わっちゃうかわからないのよ」
「あ、そうか」
洋介が、腕を組んで立ち止まる。私も一緒に立ち止まった。
「犯人は、その日のうちに、伯父さんを殺すつもりだったのよ」
洋介が頷く。
「伯父さんが飲むのは、ひとつだけ。あとは必要無かったってことでしょ? 残ったって、伯父さんの病状に合わせて処方された薬なんだから、誰も飲むようなことはない」
「ああ。その通りだ」
「つまり、全部を睡眠薬に摺り替えておいても、何ら支障はなかったってことじゃない?」
洋介は、はあっと息を吐いた。
「そういうことだな。そうすれば、真由美さんがどの薬包紙を選んだとしても、睡眠薬の入ったカプセルを作ることになる」
私達は無言のまま、歩き出した。
「でも、そうなると孝子さんが事件に関わっていた、ってことになるわよね」
しばらくして私が口を開くと、洋介は、眉間に皺を寄せながら言った。
「まず、動機がないよな」
「動機ねえ」
また、しばしの沈黙。
「孝子さんの過去も、探ってみなくちゃいけないのかなあ」
洋介が、困ったようにつぶやく。
15年も前から、ずっと一緒に暮らして来たのだ。気が重いのは、私も同じだった。
「だめね。誰でも彼でも犯人に見えちゃう」
「とにかく、庄野先生に話を聞いてから、落ち着いて考えてみよう」
洋介の言葉に、私は力なく微笑んだ。




