第1章
(1)
「親父、長い間、お疲れさまでした。かんぱーい!」
私の従兄、相田洋介の音頭に合わせて、みんな一斉にグラスを上げた。2月も半ばに差し掛かり、伯父が退職する日も近づいてきている。
「乾杯」
ビールを一口飲んだところで、今日の食事会の主役、相田幸三が立ち上がった。
「今日は、寒い中、集まってくれてどうもありがとう。無事に定年を迎えられたのも、君達のお陰だよ。素晴らしい後継者も見つかったし、最高の人生だった」
「伯父さん、『だった』なんて過去形はだめ。人生、これからよ」
私、山川真生は、丸テーブルをはさんで向かい側に座る伯父の顔を見ながら、微笑んだ。
「そうですよ。製剤学の権威、相田教授が、何をおっしゃっているんですか。これからも引き続きご指導頂かないと、私1人ではどうしようもありませんからね」
私の左隣にいた友川助教授が、困ったような顔で言う。彼は、伯父の言うところの「後継者」にあたる人物だ。
「いやいや、君がいてくれれば大丈夫だ。私も安心して隠居できると、喜んでいるんだ。ようやくゆっくりと、こいつと2人で楽しい老後を送れるのだからね」
伯父が、彼の右隣で微笑んでいる伯母、相田真由美――といっても、私と3つしか違わない――の肩を叩きながら笑った。
「本当に。あなた、今まで忙しすぎたのよ」
若すぎる伯母が、甘えた調子で答える。
「はいはい、ごちそうさまです」
私の右隣に座る洋介が、2人の様子をちらっと見ると、呆れたように言った。
「なあに、洋ちゃん、実は焼き餅焼いてるんでしょ。洋ちゃんは、いまだに結婚できないっていうのに、伯父さんが、洋ちゃんと同い年の若いお嫁さんをもらったもんだから」
「馬鹿か、お前。俺はなあ、結婚できないんじゃないの、結婚しないの。もて過ぎて1人に絞れないうちに、33になっちゃったんだよ。そう言うお前こそ、何やってんだよ。もう30だろ。大丈夫なのか?」
洋介が反撃に出る。私はあかんべえをすると、小魚のマリネに手を伸ばした。
「美味しいわ、これ。孝子さんが作ったの?」
新しいお料理を持ってきたお手伝いの吉田孝子に向かい、私は声をかけた。
「いいえ、奥様が作られたんですよ。私は、お皿に盛りつけただけです」
「へえ、真由美さん、後で作り方教えて」
私が真由美に微笑みかけると、彼女は嬉しそうに頷いた。
女の私が見ても、惚れ惚れするほどのいい女だ。この人を「伯母さん」とはどうしても呼べす、彼女が嫁いできた3年前からずっと、名前で呼ばせてもらっている。
「そういえばお前、ルポライターとかいう仕事、上手くいってんのか?」
しばらくすると、洋介が焼きたてのチキンステーキを頬張りながら、私の方を見た。
「うん。旅行雑誌の編集社に、学生時代の友人がいてね。彼女の口利きで、色々と仕事をもらってるのよ。最近は少しずつコネも広がりつつあるし、割と忙しくしてるんだから」
「本当かよ? いいよなあ、旅行して旨いもん食って、金もらえるんだからな」
洋介がからかう。
「お陰様で。いい思いさせて頂いてます」
私が大袈裟に頭を下げて見せると、洋介は楽しそうに笑った。
「洋介、お前、真生ちゃんのことばかり言ってるけど、自分はどうなんだ。いつまでもぶらぶらしてちゃ駄目なんだぞ」
その様子を見ていた伯父が、諭すように言う。
「私立探偵って肩書きはあるんですけどね」
洋介は軽く肩をそびやかし、ビールグラスを手に取った。
「洋介君、とんだやぶ蛇だったね」
友川助教授が楽しそうに笑うと、洋介以外の3人もつられて笑った。
「ははは、探偵なら探偵で、日本のホームズって呼ばれるくらいの名探偵になれよ。期待してるぞ」
伯父が、ナプキンで口を拭きながら、洋介に話しかけた。
「ホームズって言われてもねえ。実際には、浮気調査とか、ペット探しとか、そんなものばっかりですよ。探偵が華々しく活躍できるなんて、物語の中だけ。それが現実です」
洋介が、苦笑いして答える。
「そう言えば一昨日、ビーフジャーキー片手に、生け垣をかき分けてる洋ちゃん、見たわよ。この寒い中、何やってるんだろうって思ってたけど、あれはペットを捜していたのね」
「当たり前だろ? 何の目的もなくそんなことしてたら、ただのやばい兄ちゃんじゃないか」
洋介が鼻を膨らます。その様子がおかしくて、私達はまた大笑いした。
「そうか、そうか。お前もそれなりに、苦労しているんだな。まあ、謎解きができそうな事件が起こらないっていうのは、それだけ世の中が平和だってことさ。結構なことじゃないか」
伯父が微笑む。
「たしかにそうですね。洋介君は、面白くないかもしれないけど」
友川助教授が笑った。
「あなた、8時半よ。そろそろお薬を飲まないと。私、お水をもらってくるわ」
真由美が、時計を見ながら立ち上がった。
「いや、孝子さんに持ってきてもらおう。お前はどうも、自分で動き過ぎるきらいがあるね」
「お手伝いさんがいる生活なんて初めてだから、何だか悪いような気がしちゃって」
真由美が、困ったような顔でうつむく。
「私が呼ぼう。おい、孝子さん」
伯父の声に、孝子が大急ぎで居間へと入ってきた。
「すまないが、お水を持ってきてくれないか。薬を飲みたいんでね」
「かしこまりました」
孝子は一旦、キッチンへ戻ると、お盆にグラスを載せて現れた。
「ありがとう」
伯父がグラスを受け取り、テーブルに置く。孝子は軽く会釈をして、戻っていった。
「伯父さん、何のお薬なの?」
ピルケースからカプセルを取り出した伯父に、私は尋ねた。
「ただの胃薬だよ。このところ、少し調子が悪くてね。本当はビールなんて飲んじゃいけないんだけど、今日は特別だ」
伯父はそう言って、カプセルを流し込んだ。
(2)
「おや、もう9時半を過ぎてるんだな。少し飲み過ぎたみたいで、眠くなったよ。寝室に入って横になる。そうそう、君達に話しておきたいことがあるから、眠気が冷めたらまた降りてくるよ」
「伯父さん、大丈夫?」
私の言葉に、彼は私の目をじっと見た。
「ああ。真生ちゃんにはいつも心配かけちゃって、申し訳ないね。面倒見るなんて偉そうなことを言っておきながら、ろくに世話もできなかった。これじゃあ、智子達に会わせる顔がないよ」
「伯父さん、何、水臭いこと言っているの? お父さんとお母さんが亡くなってから、伯父さんに育ててもらったのよ。本当に感謝してます。2人もきっと喜んでるわ」
中2の時に事故死した両親のことを思い出し、思わず胸が熱くなった。孤児になって困っていた私を、母、智子の兄である伯父が引き取ってくれたのだ。5年前に病気で亡くなった伯母、相田園子も、まるで実の娘であるかのように可愛がってくれた。
「じゃあ、また後で。そのまま寝てしまうかもしれないから、11時半を過ぎても降りてこないようなら、起こしに来てくれないかな。今日は雪になりそうだ。このところ暖冬続きだったから、正常だと言えば正常なんだろうがね。友川君も真生ちゃんも泊まっていきなさい。――孝子さん、ちょっと」
伯父が再び、キッチンに向かって声をかけた。
「はい」
入口から、孝子が顔を出す。
「後で2人分、部屋を用意してやってくれないか」
「ええ、もう用意してあります」
「そうか。孝子さんには、本当によくやってもらって助かるよ」
伯父の言葉に、孝子は照れくさそうに手を振った。
「嫌ですわ、旦那様。私は、お仕事でさせていただいているんですから……。そんなことを言われると、恥ずかしくなります」
彼女は嬉しそうに、キッチンへと戻っていく。その様子を見届けた後、伯父は優しく微笑むと、洋介の肩にそっと手をかけ、居間を出ていった。
残された4人はしばらく黙っていたが、またそれぞれに料理を食べ始めた。
「大勢で食べると、ついつい食べ過ぎちゃうよな。もう俺、腹一杯だよ」
「あんまり食べ過ぎると太るわよ。ただでさえ大きいお腹してるんだから」
私の言葉に、洋介はそっと自分のお腹をなでる。
「最近、出てきたよなあ。ジョギングでもしてダイエットするかな」
洋介の真面目な顔に、私は思わず吹き出した。
「私も一緒に走ろうかしら」
真由美が笑いながら言う。
「いいねえ。じゃあ、明日からってことで、今日は思い残すことがないようにたくさん食べておこう」
「そうそう。そうやって、明日から明日からって言ながら、どんどん太っていくのよね」
私が言うと、洋介は右手で私を叩くふりをした。
(3)
「私は、ちょっと煙草を吸って来ます。後で教授が戻られた時に、臭いが残っているといけないんで、外に出ますね」
食事を終えると、友川助教授が立ち上がった。
伯父は大の嫌煙家だ。煙草の臭いには、驚くほどよく気が付く。
「上着を着て行かれた方が……。本当に寒そうですよ」
真由美が優しく声をかける。こういう気配りが、同じ女である私には足りないのだろう。
「いえ、すぐに戻りますから大丈夫です。ありがとう」
友川助教授は軽く微笑むと、居間を出ていった。すると、彼と入れ替わりに、孝子がワゴンにコーヒーを載せて現れた。彼女はコーヒーを手際よくカップに注ぎながら、私達に配って回る。
「旦那様はどうしましょう」
孝子に尋ねられ、真由美は思案顔で洋介を見た。
「後で降りてくるって言ってたからねえ。その時でいいんじゃないかな」
「はい、じゃあ、そうさせて頂きます」
洋介の言葉を受け、孝子がワゴンを台所へと持っていく。
彼女は、私が引き取られた頃から、ずっとこの家に住み込みで働いてくれていた。ご主人に先立たれ子供もいないということで、洋介も私も、彼女には随分とお世話になっている。
「私、ちょっとお手洗いに」
少しして、真由美が立ち上がった。
「ええ、ごゆっくり」
洋介が言うと、彼女は恥ずかしそうに微笑み、部屋を出ていった。
「『ごゆっくり』はないでしょう?」
私は、洋介の脇腹を突いた。
「何て言っていいか、わかんないんだもん」
私は呆れ顔で、口をとがらす洋介の方を見た。
「やっぱり当分、結婚は無理ね」
「お前に言われたくないよ」
洋介が楽しそうに言う。
「お、いけねえ。今日は金曜日だったよな。見たいテレビ、録画予約するの忘れてた。セットしたらすぐ戻るから」
洋介の言葉に、私は頷いた。
時計を見ると、針は10時50分を指していた。洋介は、自分の部屋へと向かう。と、入れ替わりに真由美が戻ってきた。
「あら、洋介さんはどちらへ?」
真由美が尋ねる。
「なんか、ビデオの録画予約をセットしてくるそうよ。すぐ戻ると思うけど」
私は答えた。
「そうなの」
彼女はそう言って、自分の席につく。少し遅れて、友川助教授も戻ってきた。
「教授はまだ、寝室ですか?」
彼は尋ねた。
「ええ。もしかしたら、眠り込んでいるのかもしれませんね」
私が答えたところで居間のドアが開き、孝子がお盆を持って入ってきた。
「友川先生、コーヒーです。どうぞ」
カップを友川助教授の前に置く。
「どうもありがとう。体が冷えてしまったから、嬉しいですよ」
彼は早速、カップを手にした。
「だから、上着をって申し上げましたのに」
真由美が微笑みながら言う。
「その通りでした」
友川助教授が頭を下げる。私と真由美は、顔を見合わせて微笑んだ。
(4)
「そろそろ、11時半になりますね」
友川助教授が時計を見ながら言った。
「本当だ。さっき2階から降りてくるときに、親父の部屋をちょっと覗いてみればよかったよ」
洋介が頭を掻く。
「それにしても、録画予約をセットするだけで、えらく時間がかかったわね」
洋介が居間に戻ったのは、11時を5分ほど過ぎた時だった。
「仕方ないだろ。新しいテープが見つからなかったんだから」
「実は機械オンチなんでしょ」
「馬鹿か、お前。俺はなあ、依頼人に頼まれれば、電化製品の修理までするんだぞ」
私がからかうと、洋介はムキになって言い返してきた。
「探偵っていうのも、大変なのね」
真由美に気の毒そうに言われ、洋介は溜息をつく。
「そう同情されると、さみしい気持ちになっちゃうな」
真由美は小さな声で、ごめんなさいと言った。
「ところで、教授を起こしに行かなくて大丈夫ですか?」
友川助教授に促され、洋介は頷いた。
「そうですね。孝子さんに起こしに行ってもらいましょうか。ねえ、孝子さーん」
洗い物でもしていたのだろうか、タオルで手を拭きながら孝子が現れた。
「忙しいところ申し訳ないんだけど、そろそろ親父を起こしてきてくれないかな」
「わかりました」
孝子が台所に戻る。少しして、階段を上がって行く彼女の足音が聞こえた。
「親父、よっぽど眠たかったんだろうなあ。自分のために集まってくれた人達を放っておくなんてこと、普段は絶対しないから」
みんな頷く。
「大変です! 大変です!」
その時、孝子が、すごい剣幕で居間に飛び込んできた。
「どうしたの?」
私達は全員、立ち上がった。
「旦那様の寝室から、煙が……」
「何ですって?」
友川助教授が聞き返す。
「ドアを叩いてみたんですが、応答がなくて。鍵もかかっているんです。中から、何かが燃える音がして……」
「とにかく、様子を見に行こう」
洋介はそう言うと、伯父の寝室へ向かった。私達も後に続く。
寝室の前まで行くと、ドアの隙間から、白い煙がもれてきていた。
「スペアキーはなかったよねえ」
額に汗を浮かべながら、洋介が尋ねる。ドアのノブをがちゃがちゃと回しているが、やはり鍵がかかっているらしい。
「ええ、鍵はあの人しかもっていないわ」
真由美が青い顔をして答えた。
「とにかく、ドアを破らないと」
男性2人が、上着を脱いで体当たりを始める。
私は廊下の隅に置いてある消化器を手に取り、いつでも使える状態にしてドアが開くのを待った。
「開いたぞ!」
開け放たれたドアの向こうでは、赤い火が踊っていた。その奥に、伯父のベッドが見える。
「親父!」
脱いだ上着で火を払いながら、洋介が伯父の元へ駆け寄る。
出窓では、伯父が大切にしているつがいのグレージャンガリアンが、かごの中を慌ただしく走り回っていた。
「孝子さん、消防車を呼んで!」
私は、火元と見られる部分に向かって消化器のホースを伸ばしながら、叫んだ。
「わかりました」
孝子が、ばたばたと寝室を出ていく。
消化器のハンドルを握ると、勢いよく白い粉が吹き出した。倒れそうになる私を、友川助教授が後ろから支えてくれている。
「誰か、エアコンを止めてくれ!」
友川助教授が、むせながらどなる。エアコンから生暖かい風が吹き出る度、煙が顔にかかるのだ。私もさっきから、相当、息苦しく感じていた。
「リモコンは?」
真由美が心細げに尋ねてきた。
「ドアの横の所に取り付けてあるでしょう!」
思わず声が大きくなる。
「ごめんなさい」
真由美が、よろけながらリモコンのスイッチを押すのが見えた。かなり動転しているのだろう。大声を出してしまい悪い気がしたが、今は謝っている余裕などなかった。
「消防車を呼びました。間もなく来ると思います」
孝子が、ぜいぜいと息を切らしながら、寝室に駈け込んできた。
「坊ちゃん、旦那様のご様子は?」
「だめだ。もう脈がない」
見ると、真由美がドアのそばで、がっくりと膝を落としている。
少しして、けたたましい消防車のサイレンが家の前で止まり、バラバラと人が走り出す足音がした。玄関のベルが何度も鳴らされる。
「はーい、ただいま」
孝子が涙を拭きながら、大急ぎで寝室を出る。
火は、既にくすぶっているだけの状態になっていた。




