第2話 耳鳴り
初めて魔法を試した日から、もうすぐ一年になる。
あの日、何度か試しただけで床に寝落ちしていた僕も、今では《囁く風》でコップを楽に浮かせられるようになった。
つまり、成長している。
しかも、かなり。
《水球》も悪くない。
最初は数メートル飛んだところで崩れていた水の塊も、今では庭の真ん中あたりまで飛ばせる。
もちろん、まだ誰かに大けがをさせるほどの威力はない。
でも少なくとも、今の僕は水風船より少しだけ危険だ。
たぶん。
この一年で、家の中で一番長く過ごす場所も図書室になった。
『魔法入門』はとっくに読み終えている。
そもそも小さくて薄い本だったし。
それでも、なぜかここが家の中で一番落ち着く。
静かだ。
いきなり誰かが来て、僕を抱き上げたりもしない。
特に母さん。
僕のことを愛してくれているのは分かった。
ただ、たまに少し愛しすぎている気がする。
父さんは逆に、一日の大半を家の外で過ごしている。
何をしているのかは、まだよく分からない。
でも何度か、帰ってきた父さんの剣に血がついているのを見た。
しかも、そういう日は決まって肉や食べ物を持ち帰ってくる。
たぶん狩りだろう。
もっと変なのは、父さんがほとんど剣を手放さないことだった。
家の中でも、だいたい腰に下げている。
庭で時間があるときも、ひたすら訓練している。
同じ動きを何度も何度も。
何十回も。
時には何百回も。
魔法がある世界で、どうして人生を剣を振ることに使うのか、いまだに理解できない。
でも、父さんが剣に本気なのだけは間違いなかった。
母さんは正反対だ。
僕が本を好きだと分かると、父さんに頼んで、よく新しい絵本を買ってきてもらっていた。
そのたびに父さんはお金を払うとき少し嫌そうな顔をする。
でも結局、ちゃんと買ってくる。
この家で最後に決めるのが誰なのかは、だいたい分かった。
まあ、僕も父さんとそこまで違わない。
毎日、同じ魔法を何度も何度も練習している。
特に《囁く風》を。
ただ、ここ数か月。
変なことが起こるようになった。
最初のころ、魔法を使うときに感じるのは、体の中にあるあの妙な解放感だけだった。
でも今は、別のものまで感じる。
どう説明すればいいのか分からない。
誰かが後ろから歩いてくると、足音を聞く前に、その人が来ていると分かることがある。
テーブルから何かが落ちるときも、目で見るほんの少し前に「あ、落ちる」と感じることがある。
まるで、僕の視界が目だけじゃないみたいだった。
周りで起きていることの一部が、一瞬だけ直接頭の中に流れ込んでくる。
問題は――
まったく気持ちよくないことだ。
そうなるたびに、耳の奥で細い音が鳴り始める。
数秒で消えることもあれば、もっと長く続くこともある。
最初は怖かった。
でも、そのうち魔力と何か関係があるんじゃないかと思うようになった。
毎日魔法を使っているから、少しずつ魔力そのものを感じ取れるようになってきたとか?
本で似たような話を読んだ覚えはない。
でも、それ以外に何がある?
今日も部屋で《囁く風》を練習していると、また同じ感覚がやってきた。
コップを少しだけ宙に浮かせていた。
もう少し高く持ち上げようとした、そのとき。
耳の奥で、あの細い音が鳴り始める。
キィィン……。
ああ。
まただ。
でも今回は、少し違った。
後ろに何かいる。
いや。
誰かだ。
僕はゆっくりコップを床に下ろし、後ろを振り返った。
母さんが扉の前に立っていた。
手には一冊の本を持っている。
いつからそこにいた?
母さんの視線が、僕から床のコップへ。
そして開いたままの魔法の本へと移った。
表情が読めない。
驚いてる?
いや……。
一瞬だけ、別の何かが見えた気がした。
恐怖?
心臓が速くなる。
どうして怖がった?
魔法を使っちゃいけなかったのか?
それとも、この年齢で使うのがおかしい?
僕を……。
変な子だと思った?
「ルーカス……その本に書いてあること、読んでるの?」
声は普通だった。
なのに、なぜか喉が詰まった。
「うん」
少し迷ってから、僕はうつむいた。
「……ごめんなさい」
母さんが眉を寄せた。
「いつからやってるの?」
「ずっと前から……」
「どうして私たちに言わなかったの?」
答えようと口を開いた。
でも、何も出てこなかった。
本当に、どうして言わなかったんだろう?
勝手に本を持ち出したから怒られると思ったのかもしれない。
三歳で魔法を使っているところを見たら、変な子だと思われる気がしたのかもしれない。
それとも……。
分からない。
一度隠し始めたことって、途中から話すのが変に難しくなる。
「僕……分からない」
母さんは数秒、僕の顔を見ていた。
来る。
今度こそ怒られる。
父さんにも言われる。
図書室に入るのを完全に禁止されるかもしれない。
もしかしたら――
突然、母さんが近づいてきて、僕を抱き上げた。
え?
「もう……このお馬鹿さん」
腕に少し力が入る。
「こんなことで、どうして怒ると思ったの?」
僕は何も言えなかった。
ただ、そのまま抱かれていた。
「一人で字を覚えて、今度は魔法まで覚えたのね。すごいわ。母さん、あなたのこと誇りに思う」
母さんの声が少しだけやわらかくなる。
「でも、もうこういうことを私たちに隠さないで。いい?」
僕は小さくうなずいた。
母さんが僕を下ろしたときには、もういつもの笑顔に戻っていた。
さっき見えたあの表情も消えている。
見間違いだったのかな。
「夜になったら、父さんを驚かせてあげましょう」
母さんは本を持って部屋を出ていった。
僕はその場で数秒動けなかった。
怒られなかった。
それどころか……。
喜んでた。
変なの。
この人たち、本当に僕のことが好きなんだな。
その日の夜。
父さんが家に帰ってくると、母さんはほとんど待たなかった。
父さんが着替える前に、全部話してしまった。
父さんはまず母さんを見た。
次に僕。
それから、また母さん。
「魔法?」
「ええ」
「うちのルークが?」
母さんが眉を上げた。
「ラルフ。この家に他のルークがいるの?」
父さんは僕の前にしゃがみ込んだ。
「見せてみろ」
それだけ?
驚きもしない。
怒りもしない。
まあいい。
僕はテーブルの上にあった空のコップへ手を伸ばした。
「《囁く風》」
小さな風の音とともに、コップがテーブルから浮き上がった。
父さんの目が見開かれる。
数秒そのまま浮かせたあと、ゆっくりテーブルへ戻した。
短い沈黙。
次の瞬間。
父さんは大声で笑いながら、僕を持ち上げた。
「さすが俺の息子だ!」
そのまま高く持ち上げられ、慌てて父さんの肩につかまる。
「ラルフ! 落とすわよ!」
「大丈夫だって!」
「前もそう言ったでしょう!」
前?
何があったんだ、前。
父さんはようやく僕を下ろした。
でも、まだ満面の笑みだった。
「こんなに早く始めるとは思わなかったな。やっぱり俺の血だ」
……は?
待て。
ここまで何か月も練習したのは誰だ?
「僕が練習したんだけど!」
「分かってる、分かってる。でも土台がしっかりしてれば――」
「ラルフ」
母さんの声が割って入った。
ほんの一瞬だった。
でも、父さんは黙った。
二人が一瞬だけ目を合わせる。
……何?
父さんはすぐ僕に向き直った。
「まあいい! 明日から訓練開始だ」
「訓練?」
「尻を蹴られる覚悟をしとけ」
母さんの視線が父さんへ向いた。
父さんが咳払いする。
「……言葉のあやだ」
「そうだといいけど」
父さんはすぐ話題を変えた。
「魔法だけじゃなく、剣も覚えてもらう」
「剣はいらない」
「何?」
「魔法がいい」
本当に分からない。
四歳の息子が魔法を使えるのに、どうして剣を振らせようとするんだ。
魔法がある世界で、好き好んで剣なんて使う人いるのか?
父さんの笑顔が少しだけ薄れた。
「ルーク。魔法が使えるからって、剣が必要ないわけじゃない」
「でも、離れたところから魔法を使えるよ」
「使えるな」
「じゃあ剣はいらないでしょ?」
父さんは数秒、僕を見た。
それから、また笑った。
ただ。
今度の笑顔は、なぜかあまり好きじゃなかった。
「明日になれば分かる」
翌日。
父さんは僕を庭へ連れ出した。
いつもの本物の剣ではなく、手には木剣を持っている。
僕の手は空っぽ。
それでいい。
僕は魔法使いなんだから。
少なくとも、将来はそうなる予定だ。
「まず、何ができる?」
「《囁く風》と《水球》」
「他には?」
「いくつか試したけど、この二つが一番得意」
父さんがうなずいた。
「風で何ができる?」
僕は地面に落ちている小石を指さした。
手を伸ばし、風で数メートルほど動かす。
「それだけか?」
腹の立つ笑い方だ。
「違う」
足元に風を集める。
そして――
体が少しだけ浮いた。
大した高さじゃない。
指何本分かくらい。
でも、足は確かに地面から離れていた。
父さんの笑みが消えた。
「もう一回やってみろ」
もう一度やる。
今度は少し長く浮かせた。
父さんはしばらく黙って見ていた。
「誰に教わった?」
「誰にも」
「本に書いてあったのか?」
「ううん。小さい物を持ち上げられるなら、自分も持ち上げられるかなって思った」
父さんは数秒、何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「エリサの言った通りだな」
「何が?」
「何でもない。続けろ」
怪しい。
まあいい。
父さんが数メートル離れたところまで歩いていく。
「今度は俺を攻撃してみろ」
「本当に?」
「本当に」
木剣を肩に乗せる。
「好きな魔法を使え。俺はこれしか使わない。お前の目的は、一回でも俺に触れることだ」
これ……。
簡単すぎない?
「本当にいいの、父さん?」
「口がよく動くな」
それ、父さんが言う?
まあいい。
そこまで言うなら……。
すぐに頭の中で作戦を組み立てた。
《囁く風》を背中側に使って、一気に加速する。
父さんに近づいたら跳ぶ。
今度は風を下へ。
空中に上がったところで、上から《水球》。
単純だ。
剣で上を防がれたら、途中で方向を変えればいい。
「準備はいいか?」
膝を少し曲げる。
「うん」
父さんが木剣を構えた。
「始めろ」
「《囁く風》!」
背後で風が弾けた。
体が前へ飛び出す。
父さんの顔に、一瞬だけ驚きが浮かんだ。
効いた!
距離が一気に縮まる。
今だ!
地面を蹴って跳ぶ。
風を下へ――
父さんが消えた。
え?
さっきまで目の前にいたのに。
キィィン!
突然、耳の奥の音が今までにないほど強く響いた。
全身が固くなる。
右。
何か来る。
考えている時間はなかった。
風!
その瞬間。
右側から強い風が弾けた。
体が横へ吹き飛ぶ。
同時に、父さんの足が、ほんの一瞬前まで僕がいた場所を通り抜けた。
地面を転がる。
な……。
何が起きた?
父さんも動きを止めていた。
僕を見ている。
初めて見るほど、本気で驚いた顔をしていた。
「ルーク」
立ち上がろうとする。
「何?」
父さんは数秒、答えなかった。
まだ僕を見つめたままだ。
「今、何をした?」
「風を使った」
「それは見れば分かる」
木剣を下ろした。
「何て言った?」
何て言った?
《囁く風》って言ったはず――
いや。
待て。
言ってない。
父さんが迫ってきたとき、僕はただ……。
風。
そう思っただけだ。
声には出していない。
本で読んだ部分が頭に浮かぶ。
無詠唱魔法。
どうやって使うのか、ほとんど分かっていない。
かなり珍しい魔法の使い方。
自分の手を見る。
「僕……」
どうやった?
父さんが近づき、僕の前にしゃがみ込んだ。
今度は、顔に少しも笑みがない。
「もう一回やってみろ」
手を上げる。
さっきの感覚を探す。
風。
何も起きない。
もう一度。
風。
やっぱり何もない。
「できない」
父さんはしばらく黙っていた。
それから立ち上がる。
「分かった」
「分かった?」
「今日はここまでだ」
え?
「でも、まだ始めたばっかり――」
「ルーク」
声が真剣だった。
「今日はここまでだ」
父さんが僕にこんな話し方をするのは初めてだった。
木剣を腰に差し、家へ向かって歩き始める。
僕はまだ地面に座ったままだった。
確かにできたはずのことが、もう一度やろうとしてもできない。
でも。
それ以上に変だったのは、父さんのほうだ。
さっきまでの楽しそうな雰囲気が、一瞬で全部消えていた。
僕は立ち上がった。
「父さん!」
父さんが止まる。
「無詠唱魔法、知ってるの?」
数秒、振り返らなかった。
やがて、少しだけ顔をこちらへ向ける。
「知ってる」
「やり方も知ってる?」
今度は、答えるまでにもっと時間がかかった。
「いや」
父さんはまた歩き始めた。
「でも、使った人間を前に見たことがある」
僕はその場で固まった。
……何?
父さんは扉の前まで行くと、最後に一度だけ僕を見た。
「それと、ルーク」
「何?」
「今は母さん以外の前では、それを試すな」
扉を開け、家の中へ入っていった。
僕は一人、庭に残された。
なるほど。
どうやら剣の訓練は、思っていたよりずっと変な始まり方をしたらしい。




