第1話 最初の兆し
第1話 最初の兆し
「何もかも一気に重なってる……これから、どうすればいいんだ?」
何年も孤児院で暮らしてきた僕にも、ようやくチャンスが巡ってきた。
ちゃんと自分の人生を生きられるかもしれない。もしかしたら、家族だって持てるかもしれない。
そんなチャンスが。
でも、いざあの人たちの家に着いたら、何て言えばいい?
「こんにちは。十四年前に孤児院へ置いていった息子です」
……とか?
もし、いらないと言われたら?
そもそも、ここにいるなら、どうして今まで一度も僕を探しに来なかったんだ?
「考えるのやめろ……きっと何か理由がある」
顔を上げ、バックミラー越しに運転手を見た。
「運転手さん、あとどれくらいで着きますか?」
「二つ先の通りだよ。もう着いたようなもんだ。料金は三十リラね」
お金を渡して車を降りる。
大きく息を吸った。
はぁ……。
よし。
息は臭くない。
髪も大丈夫。
服だって、まあ悪くない。
『母さん、父さん! 僕が二人の息子です! 一緒に暮らしましょう!』
……いやいや。
これはダメだ。
『こんにちは。街の中心にある孤児院から来ました。十四年前、僕をそこに置いていきましたよね。どうしてですか?』
うん。
こっちのほうがいい。
僕は知らなきゃいけなかった。
どうして僕を捨てたのか。
どうして一度も会いに来なかったのか。
どうして僕が、こんな目に遭わなきゃいけなかったのか。
家の前まで来ると、数秒間、扉を見つめたまま動けなかった。
やがて手を上げる。
コン、コン、コン。
心臓が胸から飛び出しそうだった。
扉が開く。
目の前には若い女性が立っていた。
思っていたより、ずっと若く見える。
「こんにちは。どうしたの? 誰かを訪ねてきたの?」
うわ……。
この人……。
僕の母親?
何て言えばいい?
さっきまで頭の中で用意していた言葉が、一瞬で全部吹き飛んだ。
口を開こうとした、そのとき。
家の奥から子供の声が聞こえた。
「ママー! 誰が来たの? 僕のおもちゃ届いたー?」
女性が家の中へ振り返る。
「違うわよ。大事な――」
「す、すみません! 家を間違えました!」
僕は背を向け、できる限り速くその場から離れた。
後ろから女性が何か言っていたけれど、振り返らなかった。
子供がいた。
あの人たちには、別の子供がいた。
でも……どうして?
あの子はいるのに。
どうして僕はいなかった?
子供が欲しくなかったわけじゃない。
問題だったのは――僕だったんだ。
足が少しずつ遅くなっていく。
目の奥が熱くなった。
でも、泣きたくなかった。
泣きながら孤児院へ戻る子供になんて、なりたくなかった。
僕だって母さんが欲しい。
父さんだって欲しい。
そんなに欲張ったのか?
いっそ……。
生まれてこなければよかった。
もう、あの孤児院には戻りたく――
「こら! 止まりなさい! 車が来てる!」
顔を上げた。
小さな女の子が道路へ向かって走っている。
「ママ、ちょうちょが――」
クラクション。
車。
速い。
女の子はすぐ近くにいる。
どうする?
ほんの一瞬、体が動かなかった。
放っておけばいい。
誰かがお前を助けてくれたことなんてあったか?
誰もお前なんて欲しがらなかった。
だったら、どうして僕が――
くそっ!
走った。
女の子のところまでたどり着くと、その体を力いっぱい道路の外へ押し出した。
ドンッ!
最後に覚えているのは、こちらへ迫ってくる車だった。
生きてるのか?
全部ぼやけてる……。
運が良かったらしい。
あの子は?
助けられたのかな。
僕の周りには何人か人がいた。
でも、誰も看護師や医者には見えない。
話そうとした。
声が出なかった。
起き上がることもできない。
体に何かあった?
いや……。
待て。
なんでこの人たち、こんなに大きいんだ?
手を持ち上げようとした。
視界に入ってきたのは、小さな小さな手だった。
冗談だろ。
どうやら死んではいないらしい。
少なくとも、僕の意識は。
違う体にいる。
赤ん坊の体に。
でも、どうして記憶までそのま――
痛っ――!
ここ、どこだ!?
突然、辺り一面が真っ暗になった。
何も見えない!
全身が焼けるみたいに痛い。
息……。
息ができない!
何かに喉を締めつけられてるみたいだ。
出ないと。
ここから出ないと!
息が――
「はっ……!」
突然、また光が見えた。
さっき僕を囲んでいた人たちが、またそこにいた。
息を切らしているような感覚があった。
でも、ちゃんと呼吸できる。
何だったんだ、今の?
僕はどこへ行ってた?
どこだったにせよ、二度と行きたくない。
「ほら、泣かなかったからって心配する必要なかったでしょう? ちゃんと泣いたじゃない。大丈夫よ。この子は元気」
……何を言ってる?
何一つ分からなかった。
知らない言葉を話している。
最高だ。
車に轢かれて、赤ん坊になって、そのうえ誰の言葉も分からない。
素晴らしいスタートだな。
最初のころは、ひたすら周りを観察して過ごした。
僕たちが暮らしているのは、小さな村か町みたいな場所だった。
ただ、僕が生きていた時代に、ここまで昔っぽい田舎がまだ残っていたとは思えない。
もしかして、過去に来た?
まあ、転生までしてるんだ。
今さらタイムスリップくらいで驚くのも変な話か。
今のところ確かなのは、ここが元いた世界ではないということだけだった。
みんな僕のことを、ルーカスとかルークと呼んでいた。
たぶん名前はルーカスで、ルークが愛称なんだろう。
父親と母親らしき二人の名前も、そのうち分かった。
ラルフとエリサ。
二人ともかなり若い。
前の人生の僕より、せいぜい五、六歳上くらいにしか見えなかった。
時間の感覚はかなりあいまいだった。
目を閉じて、次に開いたときには何時間も経っていることがある。
一日の半分以上を眠って過ごしていた。
赤ん坊って、本当に最悪だ。
一人で歩けない。
喋れない。
腹が減れば、誰かが食べさせてくれるのを待つしかない。
オムツにうんちまで漏らす……。
しかも最悪なのは、それを全部分かっていることだ。
生まれて数か月したころから、ミリアという使用人が家に来るようになった。
感じのいい人だった。
僕の世話をして、食事をさせて、オムツまで替えてくれる。
その時間だけは、できるだけ天井を見ることにしていた。
そもそも、うちに使用人なんて必要なのか疑問だった。
子供一人の世話をするだけだし、エリサも普段は家にいる。
でも、そのうち一つ気づいた。
エリサは家にいるとき、僕をミリアに預けたまま、どこかへ消えてしまうわけじゃなかった。
何もすることがないときでも、僕のそばに座っていることがあった。
一度、僕が病気になったことがある。
その夜はまともに眠れなかった。
目を覚ますたび、エリサがそばにいた。
額に濡れた布を置いてくれたり、まだ僕には分からない言葉で静かに何かを話しかけたりしていた。
明け方。
もう一度目を開けると、彼女は椅子に座ったまま眠っていた。
手を伸ばし、その指に触れてみる。
起きない。
変な感じだった。
前の人生で病気になったときも、孤児院の職員は面倒を見てくれた。
薬をくれた。
熱も測ってくれた。
でも、一晩中ベッドの横に座ってくれる人はいなかった。
母親って、こういうものなんだな。
たぶんあの瞬間、初めて僕は彼女を本当の意味で「母さん」だと思った。
ラルフはまた違った。
どれだけ疲れて帰ってきても、僕を高く持ち上げるのが好きだった。
肩に乗せて家の中を歩き回ったり、エリサに怒られるまで遊んでくれたりした。
まだ何を言っているのかは分からなかったけど、表情だけ見れば、どうせくだらないことばかり言っているのは分かった。
時々、考えてしまう。
前の人生でも、こんなものがあったなら。
僕は、どんな人間になっていたんだろう。
一歳になるころには、起きている時間も増えていた。
ハイハイも覚えると、あっという間に一階中を荒らし回った。
でも、そろそろここにも飽きてきた。
上へ運ばれるときに見える、まだ入ったことのない部屋がある。
あまり連れていってもらえない。
だから当然、余計に気になる。
そして今日の目標は高い。
二階まで一人で行く!
連れていってくれないなら、自分で行けばいい。
一段ずつ体を持ち上げていけば、なんとか登れるはずだ。
普段は階段へ向かうたび、母さんがすぐに抱き上げて戻してしまう。
何度かそれを繰り返した結果、僕はみんながいなくなる瞬間を待つようになった。
ミリアが僕に食事をさせたあと、食器を持って台所へ入っていく。
今だ!
すぐに階段へ向かった。
もちろん、赤ん坊基準での「すぐに」だけど。
予想以上に大変だったものの、なんとか六段まで登ることができた。
ただし、もう限界だった。
誰だよ、この階段作ったやつ。
一段が僕の身長の半分くらいあるぞ!
それでも、まだいける。
あと一段……。
その瞬間――
ドンッ!
手が滑った。
僕の階段登りは、始まったときと同じくらいあっさり終わった。
上まで行けなかったことなんて、今はどうでもいい。
とにかく、めちゃくちゃ痛い!
物音を聞いたミリアがすぐに駆けつけ、僕を抱き上げた。
そして、僕にはまだ分からない言葉で何かをつぶやく。
「善なる聖なる力よ、この痛みを癒やしたまえ……」
何言ってるんだ、この人。
そう思った、その瞬間。
ミリアの両手から淡い光が広がった。
そして――
痛みが消えた。
つい数秒前まであれほど痛かったのに、今は何も感じない。
待て。
今の光は何だ?
まさか……。
僕が転生したこの世界――
魔法があるのか!?
しかも、それを知るまで一年もかかった!?
母さん、父さん……。
どうして二人とも、家で一度も魔法を使わなかったんだよ!?
三歳になるころには、いろいろなことがかなり分かるようになっていた。
大人みたいに複雑な会話はまだできなかったけど、家族と話すには十分なくらい言葉を覚えていた。
前の世界のドイツ語の先生が見たら、泣くんじゃないだろうか。
何年かけても僕の頭に入らなかった外国語を、赤ん坊の状態で三年で覚えた。
まあ、ここでは他に選択肢がなかったんだけど。
僕が二階の小さな図書室へ何度も行きたがるせいか、母さんは自分が相手をできないとき、子供向けの絵本を渡してくれるようになった。
時には膝の上に乗せて、自分で読んでくれることもあった。
僕は絵を見るより、母さんが口にする言葉と、ページに書かれている文字を照らし合わせていた。
そうして少しずつ、文字と単語が読めるようになった。
今では簡単な本なら、一人でも読める。
普通なら、外国語をこんな短期間で覚えるなんて無理だったはずだ。
でも、毎日この言葉だけを聞いていたことと、今の体がまだ幼いことが助けになったんだろう。
歩くことも、もう問題ない。
階段は普通に歩くより少し難しいけど、少なくとも転ばずに登れる。
つまり――
ずっと待っていた作戦を決行できる。
図書室。
僕が何度も入り込もうとするせいで、母さんは扉に鍵をかけるようになっていた。
でも。
鍵を隠した場所を僕が見ていないと思っているなら、さすがに甘い。
ベッドの下。
母さん、本気か?
静かに部屋へ入り、鍵を取り出す。
「見つけたぞ、小さな鍵。ちょっとだけ付き合ってもらおうか」
階段を上り、扉の前まで来た。
ついに……。
目標地点。
鍵を回し、中へ滑り込む。
本の数はそれほど多くなかった。
それでも、しばらくは十分楽しめそうだ。
ただし、今日は歴史を勉強しに来たわけじゃない。
探しているものは一つだけ。
魔法。
すぐに棚を見て回る。
『政治史』
パス。
『剣術入門』
剣?
魔法がある世界で、誰が何時間も鉄の棒を振り回すんだ?
パス。
そして――
あった!
『魔法入門』
これだ!
本を取り出し、すぐにページをめくり始めた。
最初の章には、魔力と魔法の才能について書かれていた。
人が持てる魔力の量は、生まれつきの要素に大きく左右されるらしい。
血筋。
種族。
遺伝的な素質。
そういったものが重要になる。
鍛えることで魔力を伸ばすことはできる。
でも、全員が同じ場所からスタートするわけじゃない。
素晴らしい。
せっかく新しい世界に来たのに、ここでも人は平等に生まれないらしい。
本によれば、強い魔法の血筋を持つ家の多くは、長い年月の中で貴族社会に入っていったという。
そのうえ、魔法教育は安くない。
本は高い。
いい教師を見つけるのも難しい。
高度な魔法の知識は、どこでも手に入るわけじゃない。
だから、学院で学ぶ者の多くは貴族や裕福な家の子供たちらしい。
外から生徒を受け入れる制度もあるようだけど、あまり一般的ではない。
どうやら、この世界の教育制度もそれほど公平じゃないらしい。
まあ、前の世界だって大差はなかったけど。
お金があれば、よりいい教育。
いい家に生まれれば、より多くの機会。
世界が変わっても、変わらないものはあるらしい。
まあいい。
今の僕に政治のことを考えている暇はない。
魔法が知りたい。
本によると、魔法には火、水、風、土という四つの主要属性がある。
神聖魔法を除けば、多くの魔法はこの四属性をもとにしているらしい。
一方、神聖魔法の起源については、はっきり分かっていなかった。
かなり古い時代から残された文献を通して、代々伝えられてきたらしい。
普通の魔法は、決められた言葉を口にすることで発動できる。
《火球》
《土壁》
そんな感じだ。
そして、もっと気になるものもあった。
無詠唱魔法。
本には、たしかに可能だと書かれている。
ただ、それ以上のことはほとんど書かれていなかった。
かなり珍しく、どうやって身につけるのかも、よく分かっていない。
それだけ。
面白い。
でも、今の僕にはまだ早そうだ。
まずは普通の魔法を使えるようになってからだ。
無詠唱は、そのあとで考えよう。
初心者向けの魔法を順番に見ていく。
《火球》
却下。
家を燃やして、三歳で二度目の人生まで終わらせたくない。
《土壁》
周りがひどいことになりそうだ。
そのあと母さんに何て説明すればいい?
残るのは、水と風。
《水球》と《囁く風》が目に留まった。
《水球》は、圧縮した水の塊を作って前に飛ばす魔法らしい。
初級の威力では、当たってもせいぜい拳で殴られたくらい。
つまり……。
水風船を全力で投げても、そんなに変わらないんじゃないか?
一方、《囁く風》は小さな物を動かしたり、弱い炎を消したり、単純な攻撃の軌道を少しずらしたりできる。
こっちのほうがいい。
しかも、魔法の威力は術そのものだけで決まるわけじゃないらしい。
どれだけ魔力を込めるかも重要になる。
つまり、十分に強い人が使えば、こんな簡単な魔法でも危険なものになり得る。
決めた。
本を元の場所へ戻し、自分の部屋へ向かう。
訓練開始だ!
机の上にあったコップを取り、床に置く。
その正面に立った。
手を伸ばす。
よし。
初めての魔法だ。
「《囁く風》!」
……。
コップは動かない。
一ミリも。
冗談だろ?
たしかに三歳だけど、いくらなんでもこれはない。
もう一度、手を伸ばす。
「《囁く風》!」
今度は、かすかな風の音が聞こえた。
コップの横にあった小さな紙切れが、ほんの少し震える。
うわ。
できた!
ほんの少しだけど。
間違いなく動いた!
もう一度試す。
魔法を使っている間、体の中に変な感覚があった。
どう説明すればいいのか分からない。
長いこと我慢していたトイレに、ようやく行けたときみたいな変な解放感がある。
なのに同時に、全身の筋肉が少しだけ緊張していた。
これが魔力?
その感覚を確かめながら、もう一度手を上げた。
そのとき。
急に、とてつもない重さが全身にのしかかってきた。
眠い。
ものすごく眠い。
やっぱり、この小さな体のせいか?
まあいい。
あと一回だけ。
コップを動かすまでは終われない。
もう一度、手を伸ばす。
「《囁く――」
あれ?
まぶたが……。
何だこれ。
開けていられない。
閉じて……いく……。




