第五章 雨宿りの口づけ 3
瑳希に口づけされたことを思い出しては、一人、布団の中でジタバタして、私は結局ほとんど眠ることができずに朝を迎えた。
宿屋の窓を開けるとまだ太陽は昇りかけで、夜の名残の薄紫色の空の奥で白い光が頭を出すのを待っているところだった。空気は少しだけ冷たくて、それは火照った体に心地が良いから、私は窓辺に頬杖をついたままで朝の鳥たちの囀りに耳を傾けていた。
その時だった。
「我が君! お戯れを!」と、しんと静まり返っていた街の中に、どこかで聞き覚えのある声が割り込んできた。
「あの声は、確か……瑳希と納屋に隠れていた時に前を通り過ぎていった従者の声かしら……?」
瑳希は『追われている』なんて言っていたけれど、『我が君』なんて呼ばれているくらいなのだから、従者のようなものが瑳希を探していたのだろう。その従者の声が通りのどこかで上がっているのだ。
私は、バレないように宿屋の窓を少しだけ開けたままにして、片目だけで通りを見下ろした。二階に位置する私の部屋からは、通りの景色が一望できた。
白い靄の中、声の出処を見つける。
そこには、やはり一人の従者と思しき人物と、その隣には瑳希の姿があった。
瑳希は、いつものような軽装着ではなくて、立派な羽織を纏っている。
「我が君! いい加減にお戯れはおよしくださいませ。このような街に立ち寄るなど、あなたさまの品格を損ないます!」
「それがどうした。我が良いと言ったのだ。それ以上は里の民へと無礼になる。そのような戯言を聞かれせては、我への評にも繋がるであろう。口を慎め」
その声と瞳の色は瑳希のもので間違いがないのに……。その口調と冷徹な表情は、私の知らない彼の姿だった。
「それに! そろそろ七姫の姫より──」
従者の言葉を遮るように、威圧的な瑳希の声が上がった。
「黙れ──! その話、城の外では法度と何度言えば、わかるのだ。首でも切らねば、学ばぬか!?」
瑳希の瞳は嫌悪に満ちており、空気を震えさせるほどの低い怒りの声は、私の心臓とも止まらせる気迫だ。
それに、今の従者の言葉は……どういうこと……?
七姫って、確かに言ったよね……?
瑳希は苛立ちを隠しもせずに、踵を返して馬に乗る。
「我は先に城に帰る」
「わ──我が君! 瑳和希様!!!!」
従者の言葉を残して、たてがみの立派な白馬が駆けて行った。
平民では到底所有することのできない白馬は、この国の長の証。
そして、従者が叫んだその名前。この国で、その名前を知らぬ者はいない……。
それに、私は見てしまった……。瑳希が羽織っていた仕立ての良い羽織の紐止めに、徳川家の紋章が彫られていたことに。
「瑳希は……瑳希が……、将軍様だったの……!?」
私はその場で崩れ落ちた。
そして、気がついてしまった。
瑳希は私のことなんか……好きじゃないって。
「そ……っか。そう……だよね……」
だって、私は大奥の七姫、皇凛だ。慧花の姫なんて呼ばれて、大奥の中で一番の将軍の嫁候補と謳われていたのだ。
そんな私は、家出姫。
「そっか……。瑳希は、私を探しにきただけだったんだ……。私を大奥に連れ戻すため……ううん、もしかしたら、私の処遇を決めるために」
彼は、そんな私を見つけ出すために。
逃げ出さないように気があるふりをして、私を泳がせていたのかしら。
「瑳希の……バカ。キス初めてだった……のに……」
涙が溢れた。一度込み上げては止まらなかった。
「好きって言ってくれたの……嬉しかったのに──!」
涙の次に、泣き声が上がった。みっともなくて、だらしのない、姫らしくない泣き声だ。悔しくなって、瑳希からもらった簪を髪から外すと、はらりと髪結いが解けていく。
簪を投げつけようとして、振りかぶる。
「私、本当に──!」
だけど、振り上げた手は、力なく落ちていった。
「本当に……好きになっちゃったのに……」
もしも、彼が本当に私を想ってくれていたというならば、きっと七姫としての私を城へ召し上げればいいだけの話。
つまり……。この簪も、キスも、好きの言葉も、私を泳がせるための演技だったということだ。
騙していたの?
楽しかった? 単純な私を揶揄うのは?
何も知らないで口づけを受け入れた私を、笑っていたの?
なんで、将軍なの? 瑳希がただの瑳希だったらよかったのに……。
だけど、騙していたのは私も同じだ。だって、私は七姫だから。
「う……うわぁ……瑳希、なんで……! 好きって言ってくれた……のに……! バカバカ! うわぁぁぁぁぁぁぁん!」
そして、私は膝から丸まるように、涙を着物に押し付けた。
甘かった気持ちが、いきなり苦くなる。
張り裂けそうな胸の痛みで、このまま死んでしまえたらいいのに。
***
「くそ──!」
将軍としての口調みも威厳も品格も全部糞食らえだと、最悪の知らせが現実になる前に──オレは早馬を走らせた。街の中心には、その存在感を知らしめるようにネオ大江戸城が聳えている。民はそれを『城』と呼び讃え、オレはそれを『牢獄』と呼び嫌悪する。
それがオレの実家だ。
「おい──! クソ親父!」
ズバンと金色の襖を開くと、そこには何人もの女を侍らせた中年の男が座っていた。五十八になるとは思えない若々しい容姿と肉体。慈愛も敬意も品位もありはしない。冷酷無慈悲の暴君、先代将軍の徳川煉弥。
オレの父親だ。
ネオ大江戸城の真隣に造られた、親父専用の寝殿は奴の隠居を祝して建てられた。というのは建前で、この寝殿は隠居したという事実を芳しく思っていない親父がオレを監視し、制御し、支配するために造らせた場所であって、オレの足枷でもある。
あまりの暴君ぶりに、親父はオレの祖父さんつまり、先先代将軍によって強制的に隠居させられた。そして、当時まだ十歳だったオレに将軍の座を無理やり継がせた。しかし、祖父さんが崩御した瞬間、暴君は再び俺に向けて猛威を奮った。
襖を開けると、強烈に甘ったるい香が鼻についた。雲を作るほどに焚かれた香には、かなりの混ぜ物が入っているようだ。オレが叫びながら押し入ってきたというのに、女の喘ぎ声は止まることがない。それも、一人や二人の声じゃない。
けれど、ここでは日常だ。
見飽きた光景に今更嫌悪を抱くことはなく、オレは早々に話題を切り出した。
「親父! なんだ、あの知らせは──! オレは、七姫は自分で決めると──!」
すると、親父が女の一人に声をかけた。「あとでまた可愛がってやるから、濡らしたままにしておけよ」と、下品極まりない言葉を吐きながら、親父は羽織を肩にかけて寝台から降りてきた。
ジジイのくせして、腹筋がバッキバキに割れているのが、また腹が立つ。
「おい、瑳和希。『オレ』って言うのはやめろと言っただろ。品がない」
「親父みたいに女を侍らせるよりはマシだ!」
「お前は馬鹿だ、阿呆だ、子供だ、幼稚だ。我らは将軍家、徳川の者。その子孫を残すやもしれん女はいくらあってもいい。我の種を注がれるのだ、ありがたく、女は股を開くさ。こんなふうにな──」
そう言って、親父は近くにいた半裸の女を引き寄せると、女の体を弄ぶ。されるがままに女はあられもない声を垂れ流しており、瞳の焦点はもうあっていないようだ。一体どれだけの香を嗅いだのか。
しかし、ここでオレが呆れて物を言っては、この男はオレの話に耳を傾けることはないだろう。
「先代、我の嫁候補は我が示すと──お話差し上げたはずですが……。どういうことでしょう。七姫の中から二人の姫を召し上げる予定だというのは、本当ですか?」
敬意を示すために膝を折る。本来ながら、現将軍はオレであるから、そのように首を垂れるのは親父の方だ。けれど、この男の前で礼法など通じるわけがない。
徳川煉弥とはそういう男だ。
「二人は不満か。なんなら七人すべてを侍ればいい」
「それでは爺さんの──! 先先代の意思を継げるとは思えませぬ。先先代は、あくまでも国の母になるに値する女性を七姫の中から選ぶようにと、この制度を──」
「ぬるい! ぬるいぞ、瑳和希! 徳川の血が続けば良い! それに必要なのは、我らの種! 女はそれを産めば良い!」
怒りをぶつけてしまいそうになるから、オレはひたすらに拳を握り詰め続ける。ギリギリと爪が手のひらの食い込んだせいで、血が滲んでいるのだろうか、ぬるりと液体が手の中で蠢いている。
人間としてクソ野郎のこの男のせいで、オレの母上は死んだのだ。馬鹿真面目に親父を思いながら、見舞いにも来ない男のことを思いながら、母上は惨めに死んでいった。
こんな男に、オレは絶対になりたくない──。
「失礼を承知で、父上。七姫の中から誰を選ぶかは、我が決めます。我は、それだけを言いにここへ参りましたので──これにて失礼致します」
「待て──。もうお前の祝言の日取りは決めた。西の姫、駿河桜子をまずは娶ること。ついで、翌月、南の姫、坂本瑠璃を。これは決定事項だ」
「ま! 待ってください、父上! 我は──」
「他にも欲しけりゃ、勝手に迎えれば良い。が、祝言の夜には子を成すために床をすること。決まったことだ。みよ──この女どもを。娘を差し出すために、やってきた、したたかで愛い女どもだよ」
なるほど……そういうことか。オレは心底の嫌悪を親父に向ける。
悪いが、それだけは阻止させてもらう──と、オレは膝をついていた足を持ち上げる。オレは、自分の人生は自分で決めるんだ。
あいつ……みたいに!
「父上! あなたがどれだけ女遊びをしようと、我は言葉を挟む気はありません。金銭が必要なら我が整えましょう! しかし、我は、我の力だけで嫁を迎えます! そのための心積もりも、七姫への書状も、今、準備しておりますから──」
「うるさい。お前はそう言うという思っていたわ。……やれ」
突如、オレは背後から羽交い締めにされる。口元に布切れを押さえつけられると、いきなり視界が霞み始めた。
……くそ、毒でも盛られたか……。
「お前は寝てればいいのだよ。祝言も、初夜も、こちらで進めさせてもらう。案ずるな、お前が快楽に溺れているうちに、子種は無事に注がれるだろう……」
そういう親父の瞳はにんまりと細められていて、普段笑顔なんて浮かべないくせに、その時は心底楽しそうな顔をしてやがった。
……凛、オレは、本当にお前のことだけを……。
そうしてオレの意識は途絶え。
その後オレは、ネオ大江戸の最上階に幽閉されることになった。




