第八章 冷蔵チェーンと氷の魔石
ガリア砦から戻った俺を、王宮では、また別の課題が待っていた。
冬が、近づいていた。
補給路が四本まで開通したことで、王都の食料供給は、たしかに二倍近くまで回復していた。
しかし、新たな問題が、浮上していた。
長距離輸送の、食料の腐敗だ。
西街道は、王都までの距離が四日。北の迂回路は、さらに長く、八日ほどかかる。生鮮食品は、半分以上が、王都に着いた時点で、腐敗していた。
「殿下。来年の夏までに、もう一つの仕組みを、作るべきです」
俺は、再び、王宮の会議室で、地図を広げていた。
今度の地図は、王都の市場に届くまでの、物流動線だった。
「冷蔵チェーン、というものを、提案します」
「冷蔵、チェーン」
文官の最年長、エルリク老が、俺の言葉を、慎重に繰り返した。
「氷の魔石、というのが、この国にはあるんですよね」
俺は、隣のティアナに尋ねた。
彼女は、頷いた。
「ええ。氷の魔石は、冬の山岳地帯で採取される、希少な魔法の鉱石です。一定の温度を、長時間、保ち続けます」
「使い道は」
「貴族の屋敷の、ワインの保管。あるいは、夏場の遺体の保存。それくらいです」
「もったいないですね」
俺は、ぼそりと言った。
部屋の空気が、ふっと止まった。
「もったいない、と」
「もったいない、です」
俺は、もう一度、はっきり、言った。
文官たちが、顔を見合わせる。エルリク老が、ペンを置いた。
「シンジョウ殿。続けたまえ」
俺は、地図に戻った。
「氷の魔石を、貴族の屋敷の、地下倉庫に置くのではなく、配送用のボックスの中に、組み込むんです」
俺は、机の上に、王宮で借りた羊皮紙を広げ、ペンで、簡単な箱の図を、描いた。
「箱の壁を、二重にして、その間に、断熱材を詰めます。麦の籾殻でも、羊毛でも、何でも構いません。空気の層を作るのが目的です」
「断熱材……」
「そして、内側の壁に、氷の魔石を、何個か、固定します。荷物を入れて、蓋を閉めれば、外気に関係なく、箱の中は、冷えたままです」
「何時間、保ちますか」
ティアナが、横から、聞いた。
「日本では、ドライアイスで、四十時間。氷の魔石なら、もっと長いはずです。たぶん、三日から、四日」
「三日……四日……」
「西街道なら、ぎりぎり、生鮮品を、腐らせずに、王都に届けられます」
部屋の中で、息を呑む音が、複数、重なった。
エルリク老が、ゆっくりと、立ち上がった。
「シンジョウ殿」
「はい」
「現在、王都の市場で、長距離輸送による、食料の損耗率は……三十パーセントだ」
「はい」
「冷蔵箱で、それを、何パーセントまで、下げられる」
俺は、頭の中で、計算した。
「日本のコンビニ配送で、温度管理された冷蔵チェーンの損耗率は、五パーセント以下です。最初は十パーセントくらいに見ておけば、安全です」
「十パーセント……」
老人は、口の中で、その数字を、何度か転がした。
そして、呟いた。
「ということは、損耗率が、二十パーセント、改善する」
「はい」
「それは……」
彼の手元のペンが、ふと、止まった。
彼は、顔を上げた。
「殿下。これは、国家の食料予算を、二割、削減できる話ですぞ」
その瞬間。
会議室の片隅で、立っていた財務官が、椅子を、ガタッ、と倒した。
「二割……!」
彼は、椅子を倒したまま、両手を机についた。
「我が国の、年間食糧予算の、二割……それは……それは、戦時の、軍備一年ぶんに相当します……!」
彼の声は、ほとんど、悲鳴に近かった。
俺は、内心、首を傾げた。
日本では、コンビニ配送業界の、ごく普通の温度管理の、教科書のいちばん最初に書いてあるレベルの話なのに。
なんで、こんなに、皆さん、興奮しているんだろう。
いや、それは、たぶん、ここがそういう国だから、なのだろう。
俺は、それ以上、考えるのをやめた。
その夜、俺は、王宮の南棟の自室で、点呼簿を開いた。
「○月○日。冷蔵チェーン、運用承認。氷の魔石、年間予算枠、千個まで。試作品、十日以内に三十台」
書きながら、ふと、隣の項目に、気づいた。
数日前、辺境砦から戻った日に、書きつけた、何気ないメモ。
「ガリア砦東方の、廃村ザール、過去三ヶ月で三度、魔物の襲撃あり。襲撃の前後に、不審な人馬の足跡」
俺は、その文字を、しばらく、見つめた。
なぜ、その日、それを書いたのか、自分でも、もう、覚えていなかった。
砦の兵士たちの噂話を、聞きとめて、書いたような気がする。
俺は、ペンを置いて、点呼簿を閉じた。
窓の外、王都の屋根の上に、月が、薄く、浮かんでいた。
翌日、王宮の謁見の間に、王の使者が、俺を呼びに来た。
謁見は、これまで、レオハルト第二王子としかしてこなかった。今回は、王国の現王と、第一王子と、宰相と、神殿の大司教が、同席した。
俺は、ティアナと一緒に、謁見の間に、入った。
大広間の中央、玉座の前に立たされた。
俺は、ぎこちなく、頭を下げた。
「面を上げよ、シンジョウ・ジュン」
王の声は、深く、低かった。
「お前の、補給路改革の貢献、聞き及んでおる」
「は……はい。ありがとうございます」
「我が国に、騎士爵を、授ける」
王の声に、よどみは、なかった。
俺は、頭の中が、真っ白になった。
「今日より、お前は、我が国の物流最高顧問として、王宮に席を持つ。称号は、シンジョウ・ジュン卿、と」
「いえ、あの、僕は、ただの……」
「それは、お前の謙遜だ」
王は、やや、笑った。
「謙遜は、美徳ぞ」
大広間の、左右の柱の影で、貴族たちが、ざわついた。
俺は、何も、言えなかった。
ただ、隣のティアナの瞳が、少し、潤んでいるのが、視界の端に、見えた。
その瞳を見て、俺は、ようやく、頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
謁見の後、王宮の大廊下に出たとき、第一王子が、ゆっくりと、こちらに歩み寄ってきた。
第二王子のレオハルトとは違う、白金色の髪の、若い男だった。瞳の色は、王と同じ深い緑。装いは、レオハルトの簡素さとは対照的に、銀糸の刺繍が施された豪奢な礼服だった。
「シンジョウ卿、だったか」
彼は、軽く、微笑んだ。
「弟が、面白いものを拾ってきた、と思っていたが」
「はあ」
「お前のような、低い身分の異邦人に、騎士爵を授けるとは、王も、お疲れだな」
彼の声は、笑っている表面の下で、別の温度を持っていた。
俺は、一瞬、息を呑んだ。
が、すぐに、表情を、戻した。
日本でも、こういう人と、よく話していた。栗山さんと同じ、種類の口調だ。
「ご気分を害したならば、お詫び申し上げます」
俺は、丁寧に、頭を下げた。
第一王子は、ふん、と鼻で笑って、
「謙虚で何より」
と言って、立ち去った。
その後ろ姿を、俺は、見送った。
大廊下を、ティアナと並んで、歩く。
彼女は、しばらく、何も言わなかった。
やがて、
「ジュン様」
「はい」
「あの方は、第一王子、アルカド殿下です」
「分かりました」
「お気をつけて」
「はい」
彼女は、俺の袖を、軽く、引いた。
「あの方の周りには、いつも、ご機嫌取りの方々が、たくさんいらっしゃいます。新しい『勇者』が、近々、着任すると、噂されています」
「勇者、ですか」
「神託で、選ばれたお方が、いらっしゃるのです」
ティアナの声は、わずかに、固かった。
「私は、その方に、まだ、お会いしたことがありません。でも……」
彼女の瞳が、伏せられた。
「ジュン様には、その方と、距離を、置いていただきたい」
俺は、頷いた。
頷きながら、ふと、思った。
日本でも、こういう女性が、もしいたなら、栗山さんに、五年も悩まされなかったかもしれない。
ティアナは、人を、よく、見る。
その夜、王宮の謁見の間で、新しい『勇者』が、王に拝謁する儀式が、行われた。
俺は、レオハルトに連れられて、貴族席の、いちばん端に、座っていた。
謁見の間は、煌々と、燭台で照らされていた。
白い大理石の床に、扉が、ゆっくりと、開く。
そこから、入ってきたのは、金髪の、若い男だった。
胸を張り、口の端を引き上げ、その顔を、見た瞬間。
俺の、鼓動が、止まった。
あの顔。
あの、目つき。
あの、上っ面の、愛想笑い。
間違いない。
日本の、栗山健太、そっくりの男が、玉座の前に、跪いていた。




