第七章 点呼の儀
補給路の改革が一段落すると、レオハルトは、俺を辺境砦に連れて行った。
王都ヴェルダンから西へ三日。アイラスティア王国の最前線、ガリア辺境砦。魔の山脈に最も近い、最も多くの被害を受けてきた、最も疲弊した砦。
俺は、レオハルトの随行という名目で、馬に乗り、四十人ほどの護衛と一緒に、その砦を訪ねた。
「ジュン殿、馬は乗れるのか」
「はい、なんとか。日本でも、観光地で、引き馬くらいは」
「それで二日連続十時間、乗れるのか」
「……正直、二日目で内股がやばいです」
レオハルトが、声を出して笑った。彼の笑い声を、俺はこの時、初めて聞いた。
ガリア砦は、灰色の石を積み上げた、不格好な要塞だった。
到着したとき、俺がまず気づいたのは、匂いだった。
汗。獣脂。古い酒。それから、洗濯されていない衣服の、饐えた匂い。
兵士たちは、あちこちに、寝そべっていた。ある者は壁に寄りかかって、ある者は石段に座って、ある者は中庭の隅で、円を作って、酒瓶を回し合っていた。
馬に乗ったレオハルトを見て、彼らは、ようやく、のたのたと立ち上がった。鎧をきちんと身に着けている者は、半分もいなかった。
砦長の中年男が、頬を引きつらせて、レオハルトに敬礼をした。
「殿下、お見苦しいところを。長らく、補給が途絶えており、皆、士気が」
「分かっている」
レオハルトは、低く、けれど、責める色のない声で、応じた。
「君らに、今日は新しい補給品と、新しい客人を連れてきた」
彼は、俺を、振り返った。
俺は、慌てて、馬から降りた。馬から降りるのに、五秒くらいかかった。内股が痛かった。
砦長は、俺を見た。
「……これは」
「我が国の、新しい補給管理者だ」
レオハルトは、簡潔に、それだけ言った。
砦長の目が、俺の作業着に止まった。彼の眉が、わずかに、訝しげに歪んだ。
俺は、礼をした。
「お世話になります。新庄淳と申します」
砦長は、戸惑いの色を、隠さなかった。
その日の夜。
俺は、砦の中庭の片隅に立って、月の光の下で、点呼簿を開いた。
砦の中の動きを、片端から、書き出していった。
歩哨の人数、そのうち酒を飲んでいる者の人数、見張りの交代時間、装備の状態、食事の配給量、医務室の様子。
書きながら、俺は、奇妙な感覚に陥っていた。
ここは、戦場の最前線、なのだ。
なのに、誰も、点呼をしていない。
誰も、誰がどこで何をしているかを、把握していない。
日本のコンビニ配送の現場の方が、よほど、規律正しい。
それは、俺が日本を懐かしんでいるわけではなくて、本当に、ただの事実だった。
翌朝、俺は砦長と、レオハルトの前で、一冊のノートを差し出した。
「これは……?」
砦長が、訝しげに、ノートを開いた。
「乗務前点呼簿、と書いてあるが、これは、何だ」
「日本での、配送ドライバーの、毎朝の儀式です」
俺は、淡々と説明した。
「乗務前に、必ず、決まった項目を、決まった順番で、確認します。アルコール、健康、装備、業務予定。それを記録して、署名する。これだけです」
「これだけ……?」
砦長は、ぱらぱらとページを捲った。
「この、何度も繰り返される、同じ表は」
「毎日、書き直すからです。前の日のものは、参考にできるけど、今日のものとは別です」
「……なぜ」
「人は、毎日、状態が違うからです」
砦長は、ノートを閉じた。
彼の唇が、ほんの少し、引き結ばれた。
「シンジョウ殿。これを、我が砦で、運用しろと」
「はい」
「軍では、点呼は、戦闘前にしか行わない。日常では、行わない」
「だから、戦闘前に、突然、誰がどこにいるか、分からなくなるんじゃないですか」
俺の声は、思ったよりはっきりと、出た。
砦長は、目を見開いて、俺を見た。
レオハルトは、中庭の隅で、腕を組み、黙って、こちらを見ていた。
俺は、続けた。
「戦闘前にだけ点呼をしても、その人が、前日の夜に酒を飲み過ぎていたかどうか、分かりません。怪我で動けないかも、分からない。装備が壊れているかも、分からない。戦闘が始まってから、その兵士が動けないと気づいても、もう、遅いんです」
「……」
「点呼は、戦闘の防波堤です」
俺は、自分でも、驚くくらい、はっきりと、それを言った。
日本で、五年間、誰にも言ったことのない言葉だった。
でも、ここでは、それを、言わなければ、誰かが、たぶん、明日、死ぬ。
砦長は、しばらく、俺の顔を見ていた。
やがて、長い、長い、息を吐いた。
「シンジョウ殿。やってみる」
「ありがとうございます」
「だが、私には、この『健康状態の確認』というやり方が、分からない」
「俺がやります」
俺は、即答した。
「最初の三日は、俺が、毎朝、全員の点呼をやります。そのうち、見て覚えていただきます」
その日から、俺は、毎朝、ガリア砦の中庭に立った。
午前五時、ラッパの音と共に、兵士たちを整列させる。
最初は、半分くらいの兵士しか、出てこなかった。あとの半分は、宿舎で寝ていた。
俺は、一人ずつ、宿舎を訪ねて、起こしに行った。
兵士の中には、舌打ちをして、起きなかった者もいた。
「貴族でもない、外国人風情が、何様だ」
そう、唾を飛ばす男もいた。
俺は、その男の前に、ノートと、ペンを置いた。
「すみません、起きてください。点呼は、毎朝、決まった時間にやります。あなたが寝ていた、ということは、署名してもらうと、後で、楽です」
「楽?」
「あなたが、もし、戦闘で何かあったときに、前日の夜に何時間寝ていたか、ちゃんと記録があると、家族の方への補償が、早く出ます」
「……は?」
「日本では、それで、何度か、若い人の家族が、救われました」
その兵士は、しばらく、俺の顔を見ていた。
それから、ゆっくり、起き上がった。
三日が、過ぎた。
砦の朝の中庭には、ラッパの音と共に、ほぼ全員の兵士が、整列していた。
二週間が、過ぎた。
歩哨の交代時に、酒の匂いをさせる兵士が、ゼロになった。
一ヶ月が、過ぎた。
夜間の見張り中の、ささいな失敗が、消えた。
二ヶ月が過ぎたある朝。
砦長が、俺のところにやってきた。
彼の頬は、こけていた以前の表情から、少し、肉の戻った顔になっていた。
「シンジョウ殿」
「はい」
「お前さんに、聞きたいことがある」
「なんでしょう」
砦長は、俺の手元の点呼簿を、じっと、見つめた。
そして、言った。
「なぜ、たったこれだけのことを、我々は、何百年もの間、やってこなかったのか」
俺は、ペンを止めた。
顔を上げて、砦長を見た。
彼の目には、悔しさと、恥ずかしさと、それから、ほんの少しの、希望が、混ざっていた。
「俺も、わかりません」
俺は、正直に、答えた。
「日本でも、最初は、誰もやっていなかったそうです。事故が、たくさん起きてから、法律で、やるように決まりました」
「そうか」
砦長は、頷いた。
「では、これは、我が国の、最初の、自主的な、点呼の儀だ」
彼は、自分の懐から、ペンを取り出した。
そのペンを、俺の点呼簿の、空欄の署名欄に、
「ガリア砦長、ヴァロル・ハーズ」
と、丁寧に、書き込んだ。
その文字は、五十手前の男の手にしては、震えていた。




