第四章 飢える王国
馬車に揺られて半日。
石畳の街道がやがて舗装された大通りに変わり、両脇に高い城壁がそびえ立つ。馬の蹄の音が、急に大きく反響した。
王都ヴェルダン。
ティアナがそう教えてくれた。アイラスティア王国の中央に位置する、人口二十万を抱える城塞都市。
俺は窓から身を乗り出して、外を見た。
最初に目に入ったのは、市場通りだった。日本の商店街の三倍ほどの幅がある、広い石畳の道。両脇には木と石でできた屋台がずらりと並んでいる。
ただ、屋台の上に、ほとんど物がない。
果物屋らしき台の上には、しなびた林檎が三つ。
肉屋には、鴉一羽分の干し肉が、くたびれた紐で吊るされている。
パン屋には、こぶし大の黒パンが、ぽつん、ぽつんと、五、六個。
そして、それらの屋台の前には、目を引くほど痩せた人々が、長い列を作っていた。
大人の腕の太さが、俺の手首ほどしかない。子供の頬は、頭蓋骨の輪郭がそのまま透けて見えるほど痩けている。
「これが……今の、王都です」
ティアナの声が、隣で小さく落ちた。
俺は窓の縁を握り直した。掌に汗が滲んでいた。
日本でなら、そう、災害の被災地でしか見ない光景だった。それが、王の住む都の中心通りで、堂々と並んでいる。
馬車は、王城の入口で止まった。
跳ね橋を渡り、巨大な城門をくぐる。中庭の石畳を踏みしめて歩くと、城内は外より少し涼しかった。靴底に、ひんやりとした石の温度が伝わる。
「シンジョウ殿。こちらでお待ちを」
案内された一室は、応接間のようだった。古びた絨毯。壁の燭台。窓の外に、黒い枝の太い樹。
ほどなく、扉が開いた。
入ってきたのは、二十代後半くらいの男だった。
濃い茶色の髪を後ろで一つに束ねている。装いは華美ではない。深い緑のチュニックに、簡素な革帯。だが、立ち姿に、姿勢の良さがあった。
「貴公が、聖女が連れてきたという異邦人か」
「あ、はい。新庄淳と、申します」
男は俺の前まで歩いてきて、腰を屈めるようにして椅子に座った。
「私はレオハルト・アイラスティア。この国の第二王子だ」
第二王子、という言葉に、俺は反射的に立ち上がりかけた。
彼は手で制した。
「畏まらなくていい。私は王宮の上澄みを長く離れている。貴公はあくまで、聖女が信用すると言った客人だ。そのつもりで話したい」
彼の瞳は、ティアナと違う色をしていた。淡い銅色。だが、人を見る目つきの落ち着き方は、よく似ていた。
俺は黙って、座り直した。
レオハルトは、テーブルの上にゆっくりと、一枚の地図を広げた。
羊皮紙でできた、古い、けれど丁寧に手入れされた地図だった。中央に王都ヴェルダン。周囲に放射状に伸びる街道。点在する町と村。
彼は地図の北東を指さした。
「三年前。北の魔の山脈から、魔物の群れが下りてきた」
彼の指は、街道を一つずつ辿っていく。
「最初に断たれたのは、東街道。次に、北街道。半年前には、南西の山岳街道も。今は、王都へ届く補給路は、たった一本」
指が、ぴたりと止まる。
地図上、唯一、太い線で残っている街道。
「西街道。ここだけが、辛うじて生きている」
俺は、地図を覗き込んだ。
血管が、ほとんど枯れた身体の図、のように見えた。動脈が一本だけ。それが詰まれば、全身に栄養が行かない。
「それで、市場が」
「そうだ」
レオハルトは、地図を見ながら、息を吐いた。
「西街道だけでは、王都の食料の三分の一しか賄えない。冬を越せるかどうかが、毎年、賭けになっている」
「迂回路は……作らないんですか」
俺は、思わず聞いた。
レオハルトは、ふっと顔を上げた。
「迂回?」
「街道が断たれたら、別の道を通るのが、普通……ですよね」
「我が国の地形は、複雑だ。北は山脈、南は峡谷、東は霧の沼地。安全で、馬車が通れる平坦な道は、限られている」
「いえ、馬車が通れなくてもいいんです」
俺は、なぜか前のめりになっていた。
「重い積荷を、一台の大馬車で運ぼうとするから、平坦な道が必要になるんです。荷を分けて、小さな車両で、複数のルートに分散すれば、川沿いの細い道とか、廃れた巡礼路とか、使える道がいくつもあるはずです」
「分散、輸送……」
レオハルトの眉が、わずかに上がった。
「川は氾濫する季節がある。その時期には使えん」
「氾濫する月だけ、運ぶ品目を変えればいいんです」
「品目を、変える?」
「乾物と、生鮮を、季節で入れ替えるんです。氾濫期は、米とか豆とか、水濡れに強いものだけを川沿いで運ぶ。乾期は、生鮮を運ぶ。この国では、何月が氾濫期ですか」
「……六月から八月だが」
「じゃあ、その三ヶ月だけ、生鮮はもう一本のルートに。乾物が、その間、川沿いを運ばれる。一本の街道に集中させるから、断たれたときに全部止まるんです。三本の街道で、三つの品目を回す。一本失っても、二本残る」
俺は、自分が早口になっていることに気づいて、口を閉じた。
配送先のシフト変更を頭の中で計算するときの、いつもの口調になっていた。
でも、レオハルトは、止めなかった。
彼の目は、地図の上を、忙しなく走っていた。指の動きは、まるで俺の言葉を頭の中で図にしているようだった。
「貴公、本職は」
「コンビニのルート配送、です」
「コンビニ……」
彼はその単語の意味を、たぶん、半分も分かっていなかった。けれど、続けた。
「貴公の話は、私たちが今まで、なぜか、誰も口にしなかった選択肢だ」
扉の脇で、ティアナが、両手を胸の前で握りしめていた。
俺がふと顔を向けると、彼女は微かに微笑んで、目を伏せた。
頬に、うっすらと血色が戻っていた。出会ったときの、痩せた青みがかった肌色から、ほんの少しだけ、人間らしい温かみへ。
レオハルトは、地図を畳みながら、言った。
「シンジョウ殿。一つ、頼みがある」
「はい」
「あと半月、王宮に滞在してもらえないか。貴公の話、もっと詳しく聞きたい。王に通すかどうかも、私が決める」
俺は、少し考えた。
考えるまでもなかった。
元の世界に戻る方法は、まだ何も分からない。手がかりもない。とりあえず、生きるためには、ここで居場所を作るしかない。
「分かりました」
俺は頷いた。
レオハルトの口元が、ようやく、わずかに緩んだ。
その夜。
城の南棟に与えられた小部屋で、俺はベッドの縁に座っていた。
部屋には、木の机と、小さな水差しと、燭台。それだけ。
窓の外は、月のない夜だった。どこかから、誰かの咳の音が、何度も聞こえてくる。痩せた誰かが、夜風の中で、震えている音。
俺は点呼簿を膝に置き、ペンを取った。
羊皮紙ではない、安いコピー用紙の端に、
「○月○日。場所、王都ヴェルダン。状況、飢餓進行中」
と書いた。
そして、その下に、ぽつ、ぽつ、と。
市場の屋台の状況。痩せた子供の人数。第二王子レオハルト殿下の表情。聖女ティアナ様の頬の色。地図上の街道。氾濫期の月。
頭に入った情報を、ひとつ残らず、書き出していった。
誰かに見せるためではない。
書かないと忘れる。忘れたら、たぶん、誰かが困る。
たぶん、明日からの俺が。
ペンを置いたとき、窓の外が、かすかに明るくなり始めていた。
夜明けが近かった。
俺は燭台の小さな炎を吹き消し、ベッドに横になった。
目を閉じる前、頭の中に、レオハルトの最後の言葉が残った。
「貴公、本職は」
ああ、そうか、と俺は思った。
俺は、ただの配送ドライバーだ。
ただの、ルート配送員。
でも、ここでは、それが、もしかしたら、何かの意味を持つかもしれない。




