第三章 聖女の見抜く瞳
槍の穂先が、俺の喉から、指三本ぶんの距離で止まった。
馬から降りた騎士たちが、足音を揃えて俺を取り囲んだ。鎧の擦れる金属音が、低く重なる。
「動くな」
先頭の男が、低い声で言った。
俺は両手を上げたまま、できる限り穏やかな顔を作った。喉が乾いていて、唾を呑み込むのも一苦労だった。
「動きません。動きません」
言葉は通じている、らしい。
日本語ではないはずだ。でも、頭の中で意味が、するっと入ってくる。たぶん、これも転生の補正というやつなんだろう、と頭の片隅で他人事のように考える。
「身分を名乗れ。所属する家、あるいは雇い主」
「あー、ええと」
俺は視線を泳がせた。
「新庄淳と、申します。配送業者です。トラックドライバー、です」
騎士たちが顔を見合わせる。
「ハイソウ……」
「トラック……?」
誰も、その単語を知らないらしい。それはそうだろう、と俺はかすかに諦めた。
先頭の騎士が、槍をこちらに向けたまま、一歩近づいた。
「お前の身につけている衣服、見たことがない。所持しているその箱も、その書も、未知のものだ。魔物の使いの可能性がある。同行を願う」
「いや、あの、ちょっと、その。槍、下げてもらえますか。怖いので」
「動けば刺す」
「動きません。動きませんから」
話が進まない。俺は内心、配送員特有の癖で、時計に目をやろうとして、自分が腕時計をしていないことに気づいた。スマホもない。どこに置いてきたのか、思い出せない。
その時。
騎馬の後ろから、白い影が、ふわりと前に出た。
「お待ちください」
澄んだ声だった。
声の主は、背の高い騎士たちの隙間から、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
白い、上等そうなドレスを着た少女だった。十代後半、だろうか。背丈は俺の肩あたり。淡い金色の髪を、頭の左側だけで小さくまとめている。瞳の色は、夏の朝の空に似た、薄い青。
彼女は俺の前に立つと、まっすぐに俺を見た。
見上げた、というより、覗き込んだ、という感覚だった。
俺の顔ではなく、もっと奥のほうを。
彼女の唇が、微かに動いた。
「この方は、嘘をつけない方です」
その声には、確信があった。
「ティアナ様、お下がりください」と先頭の騎士が低く言った。「正体不明の者です」
「いいえ。お下がりにはなりません」
少女は、俺の指先に視線を移した。
俺の指は、いつのまにか震えていた。寒さではなく、緊張で。
彼女は、その震えを、見ていた。
「あなた、お名前は」
「新庄淳、です」
「シンジョウ・ジュン……」
彼女は俺の名を、丁寧に、舌の上で転がすように繰り返した。
「お持ちのその箱と、書を、見せていただいても」
俺は素直に、保冷ボックスと点呼簿を、彼女の前に差し出した。
彼女がボックスの蓋に手をかける。鈍い銀色のロックを、彼女は珍しそうに眺めた。手伝うべきだろうか、と思っていると、彼女のほうから、
「開け方を、教えてくださいませんか」
と聞いてきた。
俺はその場に膝をついて、ボックスのロックを外した。
「気をつけてください。中、結構冷えます」
「冷えて……?」
蓋を開けた瞬間、彼女の瞳が、まん丸に開いた。
夏の盛りの正午、にしては明らかに冷たい空気が、白い湯気のような形でボックスからこぼれた。
中に並んでいるのは、業務用のチルド食品の箱と、保冷剤。冷凍の唐揚げ、解凍待ちのうどん、要冷蔵の乳製品。
そのすべてが、しっかり、凍っている。
外気は、さっきから感じている通り、初夏の昼間に近い。
なのに、ボックスの中だけが、明らかに別の季節だった。
「これは……魔石を、使っていらっしゃるのですか」
ティアナの声が、ほんの少し、震えていた。
「いえ。これは、ドライアイス、というやつで」
「ドライ、アイス……」
「二酸化炭素を凍らせたものです。普通の氷より、冷やす力が強い。あと、溶けたら水じゃなくて、気体になるので、荷物が濡れないんです」
俺は、いつもの納品先の店長相手に説明するようなトーンで、淡々と説明した。
言いながら、自分の声を、馬鹿みたいだ、と思った。
日本のコンビニ配送の常識を、剣を持った騎士相手に話している。
なのに、彼女は、息を呑んでいた。
「この国では、夏の冷蔵は、貴族でも難儀しております」
ティアナは、ボックスの中の凍った唐揚げを、遠慮がちに指で触った。
「これだけの量を、こんなに冷やせるなら……飢えで倒れる村が、ずいぶん減ります」
その言葉が、彼女の口から、ほとんど祈るように零れた。
俺は、何も言えなかった。
国の事情を、まだ何も知らない。なのに、彼女の言葉の重さだけは、はっきりと胸に刺さった。
彼女は立ち上がり、騎士たちのほうを振り返った。
「この方を、王都まで丁重にお連れください」
「しかし、聖女様。所属不明の」
「私が責任を持ちます」
ティアナは、ふっと微笑んだ。
「この方の瞳は、嘘をつけません。私の目を、信じてくださいまし」
騎士たちは、しばらく顔を見合わせた。
やがて、先頭の男が、ゆっくりと、槍を下ろした。
「……承知しました。ティアナ様の仰せのままに」
馬車に乗せられた俺は、向かいの席に座った彼女を、こっそり盗み見た。
彼女は、俺の点呼簿を、両手で抱えるように、膝に置いていた。
表紙の摩耗した角を、慈しむような指先で、撫でていた。
「これも、神器なのですか」
彼女が、不意に聞いた。
「いえ、ただの、業務日誌です」
「神器でなくとも、大事なものに見えます」
「……はい。たぶん、俺にとっては」
窓の外を、見たことのない景色が流れていく。
石畳の街道。低い屋根の集落。畑。羊の群れ。風車。城壁。
俺は窓に額をつけて、それらを見ていた。
額の、ガラスは、ぬるく、硬かった。日本の、トラックの、フロントガラスより、ずっと、厚かった。馬車の、揺れに、合わせて、額が、軽く、ガラスを、叩く。こん、こん、と、小さな音が、自分の、頭蓋骨の、内側で、響いた。
羊の、群れが、目の前を、ゆっくり、横切った。羊飼いらしき、老人が、長い杖で、最後の一頭を、軽く、撫でた。羊たちは、温かそうな、毛玉のように、丘の、斜面を、転がっていった。
その、光景の、向こうに、俺は、日本の、五年間を、ふと、重ねてみた。
毎朝、同じ、コンビニの、裏戸を、叩いた。同じ、店長の、顔が、出てきた。同じ、台車を、押した。同じ、空き台車を、回収した。同じ、店舗の、ホットスナック什器の、温度を、確認した。同じ、棚の、奥行きに、商品を、詰めた。
誰にも、褒められない、五年間。
その、五年間の、毎日の、動作が、今、俺の、肩を、支えていた。何も、なくなった、はずの、自分の、身体の、中に、五年間の、動作の、骨組みが、ちゃんと、残っていた。
国道は、もうない。雪も、もうない。
でも、なぜか、点呼簿は、ちゃんと膝の上にある。
生きてさえいれば、いつもの動作が、できる。
それだけで、不思議と、肩から少しずつ力が抜けていった。
ティアナが、俺の、横顔を、じっと、見ているのを、俺は、ガラスの、反射で、知っていた。
彼女の、視線は、冷たくも、暑くも、なかった。
ただ、そこに、ある、ような、視線、だった。




