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冴えない配送員が異世界転生して、たった一冊の点呼簿で世界を救って戻ってきた件  作者: もしものべりすと


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第二十二章 点呼、零ミリグラム、異常なし

退院は、その十日後だった。


 退院した翌週の火曜日から、俺は現場に戻った。会社は俺の復帰を、大げさには騒がなかった。


「いつも通りに戻りたい」


 と俺が頼んだからだ。


 いつも通りが俺の生き方の核なのだと、ようやく知っていた。



 復帰、初日。


 午前四時、営業所の自動扉をくぐった。扉のガラスに、冬の終わりの空気が白く張りついていた。休憩室は冷蔵庫の奥みたいに冷えていた。誰もいなかった。


 いつもなら、休憩室のソファで栗山さんがいびきをかいて寝ていた。今朝は、ソファが空いていた。


 その空いたソファを、俺はしばらく見ていた。


 ソファはくたびれた合皮で、肘掛けのところが薄く剥げていた。五年間、毎朝、栗山さんがその肘掛けに肘を預けて寝ていた、その跡だった。もう、誰もそこにはいない。ソファは、ただのソファだった。



 俺は点呼の机に向かった。


 新しい黒い表紙の点呼簿。退院後に会社が新しくおろしてくれた、まだ角の丸まっていないまっさらなノート。それを手に取った。表紙の白いラベルに、会社の印刷で、


「新庄淳」


 と書かれていた。その下に、俺はマジックで小さく、


「六年目」


 と書き足した。



 アルコール検知器を手に取った。口元に、ふっと短く息を吐いた。


 ピッ、と電子音が鳴って、画面に、


「〇・〇〇 mg/L」


 と表示された。


 零ミリグラム。異常なし。



 点呼簿を開いた。日付。氏名。検知器の数値。健康状態の項目に丸印。車両番号。睡眠時間。最後に署名欄。


 いつもの動作を、いつもの順番でこなした。指先は寒さで軽くかじかんでいたが、字は乱さなかった。


 書きながら、ふと、頭の中にティアナの声が戻ってきた。


「あなたが毎日、書類に文字を書くだけで、何百人もの人を救っていらっしゃる」


 俺はペンを止めて、しばらくその声を胸の中で反芻した。


 日本でも、たぶん、同じだ。


 俺の書く、この点呼簿の一文字一文字が、誰かの命を守っている。日本のコンビニの棚を守っている。深夜の店長の肩の力を抜いている。お客さんの朝のおにぎりを守っている。


 そのひとつひとつは、誰にも褒められない。それでも、誰かの毎日に、ちゃんと届いている。


 俺はペンを握り直して、今日の点呼簿に淡々と書き続けた。



 配送車のキーを握り、駐車場に出た。息が白い。鼻の奥がツン、と痺れた。冬の終わりの空気の匂いだった。


 二トン保冷車。ナンバーは六七四九。修理が終わって戻ってきた、あの車だった。


 タイヤを軽く蹴った。空気圧、よし。ライトの点灯確認。ワイパーの動作確認。荷台の温度確認。冷蔵棚は摂氏五度、冷凍棚はマイナス二十度。


 日常点検簿に、いつもの丸印を並べた。


 エンジンをかけた。車が小さく震えて目を覚ました。ぼそぼそとしたアイドリング音が、夜明け前の駐車場に薄く広がった。


 ハンドルを握った。革の感触が冷えていた。最初の一回はキュッと指が引きつる。でも、それはいつも通りだった。


 ハンドルの感触の奥に、ふと、異世界の馬の手綱の感触が甦った。馬の手綱はもっと柔らかく、もっと温かかった。それでも、ハンドルの革の冷たさは、悪くなかった。俺はその温度を、胸の中でティアナの頬の温度と一緒にしまった。



 今日のルートは、いつものコンビニ五店舗。市内の北側を回る、慣れたルート。所要時間は平均三時間二十二分の、新庄スペシャル。


 俺はハンドルを握ったまま、ふっと笑った。


 異世界では七本の補給路だった。日本では五店舗の配送ルート。規模は違うけれど、頭の中で組み立てる動作は同じだった。信号と、納品時間と、店舗の発注タイミング。あちらでは、街道の季節と、補給隊の脚と、大魔王の配下の行動範囲。



 配送車をゆっくり、駐車場の出口へ走らせた。出口で左右を確認した。誰もいなかった。


 道路の向こう側に、冬の終わりの月がまだ薄く残っていた。その月の下に、ふと、小さな緑色の影が立っているような気がした。目を凝らすと、すぐに消えた。


 錯覚だった、と俺は思った。あるいは錯覚ではないかもしれなかった。どちらでもよかった。


 俺はハンドルを切った。ウインカーを出して、道路に出る。配送車がガッ、と路面の轍を踏んで走り始めた。



 ふと、助手席を見た。


 いつもの点呼簿。まだ角の丸まっていない、まっさらな黒い表紙。その上に、俺の私用ノート、業務記録、が重ねてあった。


 業務記録のノートは、返却された古いノートの次の新しいページから始まっていた。古いページには、異世界でティアナと、レオハルトと、ヴァロル砦長と、ロウ・ベルケンと過ごしたすべての日々が書かれている──いや、異世界のことは、もう書けない書式になっていた。なぜなら、異世界の点呼簿の原本は、ティアナの手の中にあるからだ。


 俺のノートに残っているのは、日本での日々の点呼の書き写しと、日本での業務記録だけだった。


 でも、俺の頭の中、胸の奥には、あちらの世界のすべての人の、顔と声と温度が残っていた。


 それで十分だった。



 走り出した配送車の中で、俺は信号待ちのとき、ふと助手席の点呼簿をぽん、と軽く手のひらで叩いた。


 昔の癖だった。日本でも異世界でも、俺は毎朝、配送に出る前に、点呼簿を軽くぽん、と叩いた。


「行ってきます」


 の合図だった。誰に向けてでもない。たぶん、点呼簿そのものに向けて。



 信号が青に変わった。


 俺はアクセルを踏み込んだ。配送車がゆっくり走り出した。窓の外、冬の終わりの薄い青色の空に、かすかなオレンジ色の夜明けが滲み始めていた。


 そのオレンジ色の空の遠く、遥か向こうに、俺はふと、白いドレスの少女の影と、灰色の桜の樹を見た気がした。目を瞬きすると、影は消えた。でも、胸の奥に、温かいなにかが残った。


 俺はハンドルを握り直した。


「点呼、零ミリグラム、異常なし」


 ぼそりと声に出した。誰にも聞こえない声だった。でも、俺はその声を、たしかに声にした。


 配送車のタイヤが、冬の終わりの乾いた路面をガッ、と踏んで、今日のルートを走り始めた。いつも通りの毎日が、また、始まった。



 次の信号で止まった。信号の赤が、フロントガラスの霜の向こうでぼんやり滲んでいた。


 俺は助手席の点呼簿に目を落とした。黒い表紙、まだ角が丸まっていない、新しい点呼簿。その上に、古い業務記録ノート。古いノートの表紙のラベルは、もう少し黄ばんでいた。日本の五年間と異世界の数ヶ月の文字が、すべてそのノートの古いほうのページに詰まっていた。


 異世界のことは、誰にも話していない。話しても、信じられないだろう。


 話さなくても、俺の毎日の動作の中に、あちらの世界の温度がちゃんと残っている。


 ハンドルの革の下に、馬の手綱の感触。冷蔵庫の温度設定の横に、氷の魔石の重さ。点呼簿の署名欄の下に、ヴァロル砦長の震える署名の温度。メモの欄外に、ティアナの頬の最後の温度。


 全部、ちゃんと残っている。誰にも話さなくても、俺のペンの運びの中に、毎日、ひと滴ずつ染みている。


 信号が青に変わった。


 俺はゆっくりアクセルを踏んだ。配送車がガタン、と路面の軽い段差を乗り越えた。助手席の点呼簿がぴょん、とひとつ跳ねて、また元の位置に戻った。



 いつも通りが、いちばん強い武器だ──と俺はもう、知っていた。


 いつも通りを毎日守りつづけることが、たぶんいちばん難しいことも、俺はもう、知っていた。


 でも、俺にはそれしかできない。そして、それしかできないということが、ここに戻ってきた今、誇りに近い何かになっていた。


 配送車は、市内の北側へ向けて、いつもの最適化ルートを進み始めた。冬の終わりの空が、ゆっくり明けていった。


 いつかまた、別の雪の朝に、緑色のキツネがふと路肩に立つかもしれない。その時、俺はたぶん、慌てない。今度こそ慌てずに、ハンドルを握り直すだろう。


 俺の点呼簿は、いつも助手席にある。


 異常、なし。


 俺の毎日は、続く。

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